8 情報過多
昭和16年11月13日、木曜日。午後。陸軍科学研究所登戸出張所。
総力戦研究所高等班では、情報学と心理学の復習と補習が行われていた。高等班では1つの教科を深く履修することよりも学際、すなわち複数の教科の周辺や関連を重視する。高等班員の働く場所は、大学や研究機関ではなく、生産や管理の現場にあるのだ。
最近は、班長の志郎が講義することもめったにない。班員だけによる問題解決、議論、実習が主になり、志郎は方法や展開について短く講評するだけだ。今日も実習の一環であり、中央に寄せられた机の上には、ここ一週間の出版物、新聞、雑誌などが置かれていた。
「情報不足での行動原理は何だろう」
班員の一人が問題提起する。
「情報不足とは恐怖です」
「意思決定のための情報が不足なのだ」
「では意思決定が出来ない」
「すなわち行動は不要だ」
班員が、次々と意見を述べる。
「行動を起こすには意思決定が必要か?」
「通常はそうだろう。しかし」
「恐怖心にかられた場合はそうではない」
「意思決定なしの行動か」
「あながち例外とも言い切れない」
「恐怖心がない場合は?」
「行動不要が合理的だ」
「次に、不足情報の収集か」
「いや、収集は行動が必要と判断された時だろう」
「「ふぅむ」」
志郎は、班員の発言と議論の推移をじっと聞いているが、論議の停滞をみると進行を促す。
清水憲兵中尉が、志郎の合図を受けて、発言する。
「行動不要が是とされない組織があります」
「「なるほど」」
班員が、清水の発言に頷く。
「軍隊がそれですね」
「官僚・役所もそうだろう」
「いや、役人は行動不要が前提の筈だ」
「うん、事務処理と政策立案はわけるべきだな」
「政治家はどうだ」
「議員がそうだな。行動不要は自己否定になる」
班員の一人が、黒板に、得られた要点を1つ書き足す。
それを見て、班員は次の論点に入る。
「行動不要も決定された意志の内か」
「立派な行動の一つという訳だ」
「軍人にとっては、相当に強い意志が必要です」
「そうでしょうね」
「しかし、時には行動不要も必要だと」
「変化するにも変化しないにも、勇気が必要なのだな」
「さて、情報不足のまま行動に出たとしたら?」
「合理的な結果は得られないだろう」
「そうだな」
「そもそも、正常な判断ではないのだ」
「行動の結果は無理として、方向は予想できないか?」
「従来の行動履歴や学習が影響するだろう」
「つまり、経験か」
「そうだ、過去の経験から方向性は読める」
また1つ、黒板に書き足された。
「よし、次は情報過多の場合だ」
「適切に判断できて、合理的に行動できる、かな」
「それは情報過多とは言わない」
「そうだ、合理的な行動は、情報妥当な場合だ」
「情報過多は知覚過多と同じだ」
「刺激が多すぎると、正常な判断ができなくなる」
「そう、人間の認知能力や処理能力には限界があるのだ」
「それを超えると」
「つまり混乱だね」
「選択肢が増えるほど間違った意思決定をすることが多い」
「情報過多での人間の行動心理は?」
「情報処理に費やして得られる行動指針よりも」
「行動が優先するという現象。情報の処理や評価が後回しにされる」
「焦燥感だな。何かやらなければならないという」
「情報過多といっても、複数の事項に関する情報なら」
「多岐に亘る入り乱れた大量情報か?」
「それは情報過多というのかな」
黒板の過半が要点を記した文言で埋まろうとしている。
「情報過多の場合、認知や処理に限界が来る」
「当然、優先順位が設定される」
「後回しにされる情報が出てくるな」
「優先順位が重要なのか」
「待て、何か忘れてるぞ」
「「ん?」」
「なぜ、情報過多に陥った?」
「「そうか!」」
志郎と清水中尉が目を合わせる。岩山憲兵伍長も顔を緩めた。
「処理能力以上の情報を受け入れたのか」
「興味関心の対象と情報が沿わない場合は、破棄する」
「それは意志を持って収集した場合だ」
「意思や関心に関係なく、大量の情報が提供された場合は」
「なるほど、情報過多が発生する」
「提供される情報を拒否するにも、強い意志が必要だな」
「それがないと大量情報に呑まれる。流されるというやつだ」
「情報に酔うのか!」
「「それだ!」」
「では、情報による二日酔いも」
「「それはいい」」
「「あっはっは」」
志郎が立ちあがる。
「よし。諸君、一服つけよう」
「「ふーっ」」
班員が立ちあがり、伸びをする。
岩山は、班員ひとりひとりの額の温度を測って、記入する。
「どうかな?」
「はっ、中尉。全員に顕著な体温上昇はありません」
「そうか、かなり耐性が着いたか」
班員はもう慣れており、そんな会話にいちいち反応しない。
思い思いに、煙草を点ける者、コーヒーを淹れる者、便所に行く者・・・。
今日の議論も教科・教程の一環であるが、その対象は内容や展開だけではなかった。
頭脳の耐久力も、学習と訓練の対象なのだ。
今日は、煙草やお茶は休憩時間だけだ。しかし、灰皿や湯呑を机に置いた議論や講義もある。もちろん、酒を飲みながらの討議もあった。
それぞれ、頭部体温や脈拍などの適当な指標で効果や能力が測定された。測定結果は発表され、教室内に掲示される。だから、班員は、自分の進歩を自分で判定できた。
清水がコーヒーを啜りながら、岩山に話を振る。
「伍長、情報過多を経済面でどうかな?」
「はっ。よろしいですか」
「よろしいとも」
志郎も頷いている。
「ここ数日の、外国公館の電報発信の記録があります」
「ほう」
「「・・・」」
岩山の話に、班員たちも集まって来る。
「単純に文字数でいっても、欧米大使館からの発信量は4倍に増えています」
「つまり、英米は4倍の人員や機材、電力を必要とした」
「英米の人的資源の消費増大を意味します」
「ありていに言えば、経費増だな」
そこへ、思わず、班員の一人が口を出す。
「対して、帝国が費やした資源はどうでしょう?」
聞きただした班員を、志郎たち三人が意味ありげに見つめる。
(しまった)
「さあ、情報過多を引き起こすのは、費用対効果で有利かな?」
「本日の宿題としてお受けします」
「よろしい。では手がかりをあげよう」
「感謝します」
「もっと単純な例をあげると、ある一人の人物に対する手紙の集中送付だ」
「「あああ」」
「彼は読まなくてはいけない。時間を費やしてね」
「次に必要な情報を整理する。考察と判断に頭を使う」
「そして、必要なものには返事を書かねばならない」
「どうかな?」
「招かざる訪問客に似ていますね」
「実に興味深い。そうだね」
(しまった。またも)
手がかりをもらった班員は、宿題の量が増えたのを知った。
今度は、志郎が煙草を吸いながら、清水に言う。
「清水中尉。内政面ではどうかな?」
「はっ。帝国の全臣民は初等教育を修了しております」
「うん」
「ですから、適度な情報開示は臣民、つまり国民の安心と支持を誘います」
「そうだね。だが、清水中尉。その開示情報は、外国も視聴しているのだよ」
「はっ。そうであります」
「外国に知られたくなければ、臣民・国民に対しても知らせることができない」
「はっ」
「どうするかね?」
「そこが教育だと、愚考します」
((ほーっ))班員が、清水を見つめる。
「うん、それは1つの大きな要素だね」
「はっ」
煙草を消した志郎は、今日の当番の班員に告げる。
「よし、では応用問題だ」
「はい」
「情報をプラスとマイナスの2つに分けたらどうなる?」
「肯定情報と否定情報ですね」
「あるいは、有利情報と不利情報か」
「はい」
「それで、情報不足と情報過多だ」
「わかりました。実習を再開します」
「よし、はじめ」




