7 特務兵監
昭和16年11月13日、木曜日。朝。東京府、教育総監部。
陸軍教育総監の土肥原大将は、総監応接室で特務兵監の樋口中将と話していた。
二人きりだ。副官の山内禄雄中尉は副官室にいる。
(あるいはこの部屋を盗聴しているか)
(へ、へっくしょん)
土肥原は、禄雄のくしゃみが聞こえたようで、にやりとした。
「総監?」
「うむ、断っていいのだぞ。樋口」
「いいえ、やらせてもらいます」
「山下に合わせる顔がなくなるのだが」
「もう、皇道派も統制派もないのです」
「うむ」
「山下中将の人望は篤い」
「そうだな」
「しかし小官は、北の最果ての地の軍司令官で終わる」
「・・・」
「それがせいぜいです」
「いいというなら、やってもらう」
「はっ」
およそ組織には『汚れ仕事』がつきもので、もちろん官庁にも陸軍にもあった。
『汚れ仕事』の内容には、帳尻を合わせるための『端数のついた領収書』を都合することから、通常の通達や説得では対処できない『ちょっと強引な人事』などがある。さらに、非常に稀だが、内務三役が対面しているような『秘密裏の排除』などもないわけではない。通常、『汚れ仕事』を担当するのは組織事務方の長か次長であり、教育総監部では本部長がそれにあたる。
教育総監部本部長は、陸士22期の安達二十三中将である。
「安達には向かない仕事です」
「そうだな」
「こういう仕事は特務兵科がやるべきです」
「そうなのだがな」
「なにか問題ですか。総監」
「特務兵科には、大きく2つの役目がある」
「諜報と工作ですね」
「そうだ」
「いずれ工作は汚れ仕事です」
「それなのだが」
「はあ」
「すると諜報も汚れ仕事になるのか?」
「ああ」
樋口季一郎は陸士21期で、参謀本部や新聞班員など情報畑が長い。駐在武官やハルピン特務機関長も務めたことがある。土肥原と同じく情報将校であった。だから、土肥原の言わんとすることは理解できた。対して、陸士22期の安達二十三は歩兵畑の秀才である。
土肥原には、安達を温存したい理由があった。
「工作は、情報を収集するために行われる」
「あるいは、情報を活用するためですね」
「情報は、帝国の首脳に上げるものもある」
「上で判断してもらうためです」
「それだから、情報部門の長は『身綺麗』でなければ」
「お考えはわかりました」
「で、どう思う」
「はい。2つあります」
「うむ」
「1つ、樋口はすでに身綺麗ではありません」
「そうだったな」
樋口がハルピン特務機関長の時代に、少々派手なことをやらかしていたことを、土肥原は思い出した。
「もう1つは?」
「特務兵科で情報の評価を行うべきでしょうか?」
「やはり、そう思うか」
「はい」
「悩んでおるのだ、実は」
「特務兵科で情報収集を行う」
「集めた情報の裏取り・履歴をあたり、取捨選択を行う」
「そのあとがな」
「陸軍ではここまででしょう」
「そうか?」
「特務兵科の対象は軍事情報に限るべきではありませんが」
「洗った情報は上に上げるべきか」
「内閣か議会かは判断できませんが」
「つまり身綺麗な情報部門を別に作れと」
「・・・」
樋口は沈黙した。この先の判断は土肥原総監、あるいは陸軍首脳の役目だ。
収集部門が情報の評価も行うのは、危険であると思えた。どうしても、収集者の主観や、収集時の状況やらに縛られるだろう。諜報には犠牲が出ることもあるのだ、集めた情報が嘘偽でありましたでは浮かばれない。そう考えるのがふつうだ。
「わかった、評価の件は陸相に諮る」
「はっ」
「仕事の方は頼んだぞ、特務兵監」
「はっ」
仕事とは『汚れ仕事』、すなわち、東條首相から降りてきた、陸軍部内のアカ分子を排除する件である。
H級将校30数名の裏取りや証拠・証言は揃っていた。上は陸士23期の大阪兵器補給廠長から、陸士37期の参謀本部作戦課の班長や陸士44期恩賜の班長補佐、下は陸士55期を卒業したばかりの見習士官もいる。すでに人事発令により、陸軍官衙の枢要な部署からは遠ざけてあった。
土肥原も何人かを「仕事」していた。
用件が終わったとみて、樋口特務兵監は退室しようと立ち上がる。
「少し待て」
「はっ」
手で樋口を隣に呼ぶと、土肥原は部屋の隅の電話を取り上げる。振り向いて、送話器に手の平で蓋をして見せる。樋口は、笑いをこらえる。
それから、土肥原は、天井に向かって話した。
「土肥原だ。副官は、本部長を呼んで来るように」
『はい。山内副官は安達本部長を呼んで参ります!』
土肥原は、片目を瞑って見せる。樋口は笑い出す。
今度は、土肥原は蓋をした手を外すと、送話器に向かって叫ぶ。
「至急だ。急げ!」
『はっ!』
「「・・・」」
『あれっ、しまった?』
土肥原と樋口は笑い転げる。
「「あっはっは」」
しばらくすると、安達本部長と一緒に、仏頂面の山内禄雄が入室して来た。
安達は、土肥原と同じく6日に着任した。教範内容見直しを一斉に始めた、各兵科監の事務処理に忙しい。さらに、陸軍士官学校や陸軍大学の教課や講座、陸軍法制の見直しも担当している。支那事変では、多くの戦訓が得られていたのだ。
「座ってくれ、本部長」
席に座った安達が、メモ帳を出そうとするのを土肥原が止めた。
「筆記は副官がやる」
「はあ」
「失策の罰だ」
「え?」
安達には意味が分からないが、樋口はにやにやしている。
赤面した禄雄が復唱する。
「山内副官は、口述筆記の準備が整いました!」
「よし!」
土肥原教育総監は、安達本部長と樋口特務兵監に、帝国の大陸政策の変化を告げた。
二人とも驚いた。まさか、本気で日本が大陸から手を引くとは。
安達も樋口も、日露戦争直後に陸軍士官学校を卒業しているから、感慨は深い。
「昨夜の重慶からの至急電は読んだな」
「「はい」」
「陸軍、いや帝国で一番の支那通の松井閣下です」
「支那との手打ちは近い」
「だから、帝国も陸軍も変わらざるを得ない」
「戦略ということですね。では朝鮮は?」
「ふむ、鶏肋かな」
「百済の頃の朝鮮人はもういません」
「敵国に渡さねばいいと」
「つまり、いざという時に占領できる戦力を」
「占領もいらない。妨害が出来ればいい」
「それで敵前上陸と海上機動ですか」
「ふふ。海軍の手前があるからな」
「なるほど」
「それと、海軍は港を潰せばいいそうだ」
「清津と釜山を埋め立てる」
「そこまで?」
「すると、満洲も」
「わしなら要らん。東條は別のことを考えているかな」
「甘粕は?」
「あれのは、夢だろ。だが、覚めつつある」
「朝鮮は半島という大陸の一部です」
「大陸に対する日本の夢は東條が覚ましてくれる」
「あとは、溥儀陛下次第」
「代わりは?」
「東北や北海道、千島や樺太、沖縄や台湾だ」
「しかし海軍が」
「だから、教育総監部を第2陸軍にするし、帝国空軍も」
「なるほど」
「山下はどうするかな?」
「人一倍の忠義者です。まじめに考えられたら」
「東條首相とそう変わらない結論となるでしょう」
「それでいい」
樋口は山下を説得するつもりだと、土肥原は見た。
「東條が時間を稼いでくれた」
「陸軍省と参謀本部の混乱のことですね」
「教育総監部がやれるのは今しかない」
「はっ」
「一気呵成だ」
「はっ」
「しかも、仕上げなくてはならぬ」
「先は長いのですね」
「よろしく頼むよ」
「「はい!」」




