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LN東條戦記第2部「変革宰相」  作者: 異不丸
第2章 外はすなわち国交を親善にし
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6 青天白日


昭和16年11月12日、水曜日。夜。支那、重慶市。


東京で動きがあったと聞いて、松井全権の部屋を出た奥田は、交渉団本部室に向かった。


奥田道夫陸軍中尉は、日支交渉団の日本全権である松井石根陸軍大将の副官を拝命していた。大将の副官は、大尉か少佐が任命されるのが通常であり、野戦軍であれば、中佐あるいは大佐の場合もあり得る。実際に、支那派遣軍総参謀長後宮淳中将の副官は少佐であった。



副官は、職務上の事務を処理するが、軍令上の代理を務める権限はなく、すなわち副長ではない。副長は、軍令上の代理・代行職である。


陸軍軍制では、師団長は中将が務める。数個師団が集まった軍司令官は中将ないし大将が務め、数個軍から成る方面軍司令官は大将が務める。さらに、数個方面軍から成る総軍の総司令官は大将が務める。つまり、野戦軍において、陸軍大将は方面軍司令官ないし総軍総司令官を務めるのだ。その副長、すなわち副司令官は、陸軍中将が務める。でないと、配下の司令官より階級が格下となって、軍令が徹底できない。


副長とは、つまり副司令官であり、司令官が不在または職務不能の場合に、司令官職の代行を行う。だから、副長=副司令官は、配下の長と同階級ないし上級であることが望ましいのだ。


ところが、帝国陸軍において司令官の職務代行は、すなわち司令官の職務不能=故障を意味し、不吉であることから、めったなことでは副長=副司令官はおかない。参謀長がその代わりを務めるのが通例であった。日露戦争以後の実戦では、司令官が前線(4km以内)に居ることはないから、妥当ともいえた。


例えば、今回の日支交渉団の首席随員である後宮淳中将は、支那派遣総軍の総参謀長である。後宮総参謀長の代行は、総参謀副長の野田健吾中将がいた。しかし、支那派遣総軍の総司令官は畑俊六大将だが、副司令官はいない。置いていないのではなく、建制上、副司令官職がないのである。


軍令は、あくまでも司令官から発するものであり、参謀長からではない。だから、参謀長の代行よりも、司令官の代行こそが実戦では求められた。しかし、建制にはない。陸軍軍制の不備はここにあった。下剋上や中堅参謀の指揮介入、参謀統帥を許す下地がここにあるのだ。しかし、教育総監部では、この法制を見直し始めたらしい。奥田は、そう聞いていた。


副官は事務的職務、各種書類・報告書の起草、伝票の発行などを代行する。軍令である作戦や指揮には手を出さない。しかし、事務代行として、野戦師団の経理部などに依頼・要求をすることが多いので、経理部長である中佐と同階級以上が望ましいのは確かだ。だが、今回、松井大将は外交全権であり、野戦兵団との交渉はない。だから、松井大将の副官が中尉であっても不都合はないと思われた。


交渉団の中でもう一人の現役将官である後宮中将は、副官を連れずに来ていた。全権大将の副官が中尉で、随員中将の副官が少佐ではまずかろうと、後宮なりに気を使ったのである。もちろん、後宮が気を使った相手は、全権で現役大将の松井閣下であり、奥田を副官に指名した陸士同期の東條首相だろう。それでも、奥田は感謝していた。



奥田副官が本部室に入ると、後宮首席随員が言う。

「始まったぞ。奥田」

「はっ、では」

「うむ。東京では予定通り建白式が行われた」

「はっ」

「号外も出た。重慶への至急電も探知した」

「はっ」

「これが、閣下への状況電だ」

「それと、特電だ」

「はっ」

奥田が伺うと、外務官僚の次席全権も頷く。


重慶の日支交渉団と東京の外務省との連絡は、外務省の暗号電報を使っていた。が、今回に限り、教育勅語をコードブックとして、暗号作成と復号を二重化している。それが、状況電や訓令電の一部に使われる。だから、既に外務省暗号を解読している米英は、交渉団と外務省との間で連絡交信が行われていることは、もちろん察知できる。しかし、内容が判明するには、それなりの日月がかかるだろう。米英の前では、解けない暗号はないと思わねばならなかった。


しかし、特電と呼称される、最重要の訓令電は別だ。特種暗号電報である特電の内容は、外務省暗号電報の中に埋没されていた。例えば、外務省の暗号電が120文字なら、その内の40文字を使って特電を形成する。特別な場合は、外務省電200文字で、特電600文字も可能であった。暗号作成と復号のコードブックには、奥田が半年前に作成した中原会戦の戦訓報告書が使われていた。重慶の交渉団では、奥田の頭の中にしか存在しない。特電の解読は、米英でも不可能に近かった。


これらの複式二重暗号を起案し、実現したのは、参謀本部11課の釜場一夫陸軍大尉である。彼は今、教育総監部の樋口特務兵監の下にいた。釜場大尉はもともと砲兵出身で、算術・数学には強い。来月からは、加藤正孝の名義で、東京帝大理学部の聴講生になる予定だった。


しばらく躊躇する様子の奥田を見て、後宮は声をかける。

「すぐに戻れ」

「はっ。奥田中尉は、松井全権閣下の部屋に・・」

申告途中で、早く行けとばかりに、後宮が手を振る。次席全権も微笑んでいた。

奥田は、踵を返し、足早に去る。



松井は、奥田の去った自室で一人、蒋介石の出方を考えていた。


蒋介石にとって、日本は劣等複合感情、すなわちコンプレックスの対象であり、その象徴が松井石根だった。その昔、日本に留学した20歳の蒋介石の、弱みから強みまで、松井はすべてを知っている。だいたい、蒋がはじめて孫文に会ったのが日本なのだ。辛亥革命、すなわち清の打倒と中華民国の建国において、日本の軍部・右翼の後援は無視できない筈だった。だからこそ、劣等複合を感じるのだろう。


実戦でもそうだ。蒋介石は限界に来ているのではないのか。

早い話、蒋の国府軍は負けが込んでいた。日本には勝てない。今年に入っても、中原会戦、長沙作戦。完膚なきまでに叩かれている。ボロボロだ。数か月前に米国の緊急借款と軍事力の提供があったので、ようやく持ちこたえたという。正直言って、日本と講和し、中共との戦いに専念したい。満州も後回しで良い。そのあたりが、蒋の本音だろう。


さらに、溥儀の存在は、蒋介石にとって厄介であろう。復辟は絵空事ではなく、実現の可能性があった。もともと、孫文は長城以南が中華であるという考えだ。清が倒れたので満洲まで進出しようと考えたのだ。新疆や西蔵についても同じで、清が滅びたからである。本来の中華、漢族の領域は、そこまで広くはない。復辟が成るのならば、中華=内地18省から出るのは考え物だ。


(あとは、米英をはじめとする欧米の出方だな)

松井は、また、グラスに口をつける。


広西から南は仏蘭西、広東から上海までが英吉利、そこから北京までが米英、それが大雑把な割り振りであるが、山東は独逸、北京は米国など、各国の権益や領域は複雑に入り組んでいる。さらに、実際の鉱山や工場の資本家・株主を見ると、欧米のどの国と決めつける訳にはいかない。帝国の都合を言えば、北支の石炭と中支の鉄鉱石が最優先であるが、いずれも米英資本の企業が独占していた。



「ふうむ」

松井が紹興酒に、また一口つけたところへ、奥田が戻ってきた。

「閣下、特電が入りました。復号します」

「うむ」

「「・・・」」

奥田は、復号結果を松井に渡す。松井は一瞥するだけだ。

もとより、特電内容のほとんどが和歌や俳句の引用であり、つまりは松井にしかわからない比喩や示唆なのだ。


それよりも。

松井は、強く予感を感じていた。近づいてくる。

「閣下?」

「奥田も感じるのか?」

「いえ、予感はありません。が、実感があります」

「なるほど」



突然、ドアが開いた。

ノックはなかった。室内の状況を十分に把握している、ということか。

入って来たのは従兵一人を連れた、蒋介石総統その人であった。

「蒋中正!」

松井が、蒋介石の本名を唱える。

蒋は、しかし、動揺を見せずに、松井を呼ぶ。

「松井閣下!」


蒋の従兵に奥田が対峙した。

松井と蒋の二人は要件を進める。


「成事は説かず」蒋介石が言う。

「遂事は諫めず」松井が応じる。


蒋は、にこりと笑うと、出て行った。

二人の用件は終わったらしい。



蒋が去ってしばらくして、松井は、奥田に言った。

「わかるな?」

「既往は咎めず。論語ですね」

「うむ。明日は動くぞ」

「では?」


「さて。明日は、晴れるかな」

松井大将の呟きを、奥田はしっかりと聞いた。



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