表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
LN東條戦記第2部「変革宰相」  作者: 異不丸
第2章 外はすなわち国交を親善にし
20/53

5 五色旗

昭和16年11月12日、水曜日。夕方。支那、重慶市。


日曜日に重慶に入った日本交渉団は、中華民国政府の用意した宿舎に泊まっていた。

ホテルの他にも、外国公館などに依頼する手もあったが、松井全権は用意された宿舎に入ることにした。支那人との付き合いが長い松井には、面子を立てることの重要さがよくわかっていた。


重慶市は坂が多く、市内の交通は不便だ。近くの家に行くにしても、一回坂を下りて本通りを通り、それからまた坂を上ることになる。用意された宿舎も小高い丘の上に合ったが、隣家はなく、一軒だけだった。


日支交渉全権の松井石根陸軍大将は、副官の奥田道夫陸軍中尉を相手に、早めの晩酌をやっている。

「ここは、ま、いい方だろう」

「は。眺めはいいですね」

そう答えつつ、奥田は別のことを考えていた。


一通り調べたのだが、宿舎とされた結構な邸宅には鍵のかかった部屋が多かった。中に人気はないが、不気味ではある。おそらく、民国政府の秘密の通路があるのだろう。飲料水や食材の他に、宿舎の中にも人を配置した。彼らは、陸路で重慶に入っていた者たちである。飛行機で重慶入りした交渉団とは、まったく別に動いている。表に出ることはない。



中華民国は1912年に成立した、大清国の後の支那の中央政権だ。一時は、日本も承認したことがある。孫文、袁世凱、張作霖の時代である。今は違う。中国は政府ないし政権の呼称でもあるが、その統治下の所領はめまぐるしく変遷していた。だから、「中華=中国=支那」は正しくない。中国は政権名であり、支那は地域名なのだ。


重慶に遷都し、日本と戦火を交えている中華民国は、蒋介石主席の政権である。一方で、中華国民政府は、汪兆銘の下で南京に首都を置いて、日本とは同盟国である。だから、1937年以来の紛争を、日中事変とも日中戦争とも呼ばない。地域名は支那だから、支那事変あるいは日支事変と呼んでいる。


「ま、いまさら、そんなことを言っても、始まらんな」

「はあ」

「大きくは、南京と重慶。小もとれば、北京、唐山、張家口・・」

「ええ」

「支那を一つにまとめるというのは、難儀なことだな」

松井は、奥田にそう呟くと、差し入れの紹興酒に一口つける。



この時期、昭和16年11月の支那、すなわち、大清帝国の旧領には複数の政府があった。

 モンゴル人民共和国:外蒙古

 満洲帝国:満洲と蒙古東部

 蒙古聯合自治政府:内蒙古(察哈爾・綏遠)

 南京国民政府(汪兆銘):江蘇・浙江・安徽・河北・河南・山西・山東など

 重慶中華民国(国民党、国府軍):四川、広西、広東など

 中国共産党:解放区(河北・峡西・山西の一部)

 無主または独立自称:西蔵、新疆

この支那の混乱は、そもそも辛亥革命後の失政が原因である。



1912年、辛亥革命での混乱と流血を避けるために清の宣統帝が退位した。そうして中華民国が誕生し、各国はこれを認めた。しかし、中華民国は国内を有効に治めることが出来ず、各地に軍閥や省政府が生まれ、統一された中国と呼べる状態にない。地域として支那と呼ばれる所以である。


まず、1912年1月1日に初代大総統に孫文が就任したが、孫文を選出した省代表会議は内地18省によるもので、当時ロシアが実効支配していた満洲の東北3省はもちろん、新疆、西蔵及び内蒙古の省代表は入っていない。西蔵と蒙古は勝手に相互に独立承認を行った、満州は1931年に独立し、新疆では東トルキスタンが独立する。


「孫文が南京で大総統に選出された」

「はい」

「その時、すぐ近くの上海には、犬養さんや頭山さん、それから中野正剛がいた」

「あああ」

「孫文の辛亥革命は、実質、日本のアジア主義者たちが後援していたのだ」

「はっ」

「その時、孫文が中華民国の国旗にしたのが五色旗だ」

「上から、赤は漢族、黄は満、青が蒙、白が新疆、黒が西蔵族ですね」

「そうだ」

松井は遠くを見透かすように、目を細める。



挿絵(By みてみん)



革命戦争を終結するために退位した宣統帝は、優待条件が設けられた。それによれば、大清皇帝の呼称や中国(内地18省)の君主待遇も認められている。張勲復辟の失敗でも、優待条件は破棄されていない。つまり、大清帝国は滅びても、清皇帝は残っている。しかるべき国民と国土が用意されれば、清は復活するのだ。


孫文は1919年に中華民国政府を追い出され、対抗として中国国民党を結成した。中国革命は第2段階に入る。1925年に孫文が死去すると、国民党は蒋介石に引き継がれた。蒋介石は、孫文が採用した五色旗をやめて、青天白日旗だけを残した。すなわち、蒋介石の中華民国とは内地18省だけなのだ。


もともと、孫文の三民主義の民は漢族を指す。人口的に漢族4億に対する一千万の4民族は漢族に吸収して、単一民族であるというのが孫文の主張である。


そして、1931年、満州事変が勃発。翌1932年に満洲国が建国され、1934年には満洲帝国となり、皇帝には愛新覚羅溥儀が就いた。愛新覚羅溥儀は、先の宣統帝その人である。

満洲帝国は国旗として、五色旗を採用した。中華民国の旧国旗と区別するために、新五色旗と呼ばれる。


「満州の新五色旗は、南東西北の紅藍白黒に、中央の黄色」

「そうだ、朱雀の紅、青竜の藍、白虎の白、玄武の黒。そして黄龍だ」



挿絵(By みてみん)




「つまり、青天白日旗の蒋介石政権には、外省を統治する大義名分はないと」

「実際に、統治していないし、支配も及んでいない」

「そのとおりです」

「実効支配という用語がある」

「はい」



日支交渉での日本全権の松井大将の使命は、もちろん日支和平である。


支那事変を収めるには、陸軍の理解と納得が不可欠だ。そのためには、交渉全権は陸軍軍人、それも最高階級であるのが望ましい。そう考えた東條は、組閣時に重光外相に打診してみた。重光外相も、賛同した。これまでの経過を見る限りにおいて、外務省が陸軍を説得するのは無理であると、重光は判断したのだ。


であれば、陸軍軍人の誰がふさわしいかを東條が選択するだけだ。そして、白羽の矢は松井に向けられる。東條首相は、親任式直前に、松井を現役大将に復帰させた。この時、陸軍の現役最古参は陸士11期の寺内寿一大将。松井は陸士9期だから、現役復帰すれば、陸軍最古参となる。現役最古参で最高階級の陸軍軍人が日本全権なのだ。全陸軍は松井全権の決定に従うだろう。


ほかにも意味があった。松井石根当人に対して現役復帰は、4年前の上海の時と違って、使い捨てにはしないということだ。事実、支那に入ってから、朝香大将宮の待命が聞こえてきた。松井は東條に『第10軍はいらない』と言って出てきた。第10軍の柳川中将は既に予備役であり、今、朝香宮が待命に入ると言う。松井には、東條の真情がよく理解できた。


さらに、野戦軍など軍令でしか動かない軍組織に対しても、現役大将の威光を示すことが出来る。松井は南京で交渉団を決団した、南京には、支那派遣軍の総司令部がある。総参謀長の後宮中将は、交渉団の首席随員に指名された。後宮は東條の陸士同期であり、数少ない友人の一人でもあった。


蒋介石主席は、辛亥革命の以前から後援して来た松井大将を無視できない。犬養毅や田中義一などが物故した今、数十年来の付き合いがあって、公職についている日本の要人は少なくなった。彼らの中で、松井は最年長で、交渉全権、現役陸軍大将である。まさに、蒋介石の交渉相手として過不足がなかった。



「3日目になりますが、出てきません」

「ああ、そうだな」


松井は、蒋介石と独自の経路をもっていた。今回、蒋介石と交渉を始めるにあたり、陸軍や外務省の経路は使わなかった。松井個人のルートで交渉受諾を確認した上で、外務省にあげた。つまり、蒋介石は松井に会う意思がある。

しかし、その蒋介石は、なかなか交渉の場に現れなかった。松井は焦らない。中華独特の面子やらがあるのだろう。


松井が重慶に着く際に、戦闘機4機の迎撃を受けた。発砲はなかったが、挑発と敵意は十分であった。戦闘機は、米国のパイロットが乗っていた。これをどう受け取るか?

実は、松井は蒋を一度見限った時がある。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ