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LN東條戦記第2部「変革宰相」  作者: 異不丸
第2章 外はすなわち国交を親善にし
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4 建白書

昭和16年11月12日、水曜日。午後。東京府、総理大臣官邸。


総理大臣官邸の大ホールは、80名の晩餐会を開けるほどの広さがある。

舞踏会にも対応できるように、床は寄木の板張りであるが、今は絨毯が敷かれていた。


その大ホールに、朗々と、行進曲「愛国」が響き渡った。演奏は戸山音楽隊である。新聞記者たちがフラッシュを焚いている。映画班も、すでにフィルムを回していた。

正面に演壇と日章旗。演壇の下の脇に音楽隊、もう一方には新聞記者の席。中央に間隔をあけて、片方に建白側の席、もう片方に政府側の席が設けられている。すなわち、正式行事の段取りである。


建白側の席には、右翼、大亜細亜主義者や国粋主義者と呼ばれる錚々たる面々が、紋付袴姿で集まっていた。その数、およそ30名。最前席中央には建白書の署名集めに奔走した工藤忠、その脇を署名筆頭の頭山満、大川周明、徳富蘇峰らが固めている。

対面して、政府側の席には、内閣閣僚、各省の次官ら20数名。中央に座る東條首相の両脇には、中野国務大臣と重光外務大臣がいる。


中野正剛の感慨は深い。

初めて聞いた時、東條首相は困惑したという。しかし、捨ててもおけない。星野書記官長に相談すると、中野大臣を入れたが良いと言う。

駆けつけた中野はその場で、大々的にやるべきだと主張した。

「挙国一致です」

「なるほど」

東條は中野に任せることにした。中野は満面の笑みで、全ての段取りを引き受けた。

その結果が今日である。



全員が着席したのを確かめると、星野書記官長が演壇下のマイクに立つ。

「全員起立」

音楽隊を除いたホールの全員が起立して、姿勢を正す。

「国歌斉唱」


式次第が進む。フラッシュが一斉に焚かれる。

「建白の儀」

工藤忠が起立し、最敬礼すると、建白書を読み上げる。



『支那問題解決に関する建白書

一.建白の趣旨

支那事変勃興以来既に年を閲すること四星霜

未だ解決を見ず上宸襟を悩まし奉り

忠勇なる陛下の赤子亦日々鋒鏑に斃る

真に恐懼の至りに堪へず

此秋に方り我等臣民たるもの

宜しく一億一心政府当局と協力し・・・』


建白書は、中原会戦などを例に挙げ、帝国の勝利が支那の安定に繋がらないと主張した。中原会戦では日本陸軍が国民党軍に大勝利を納めた。だが、代わりに共産党軍が入り込んで治安は悪化し、却って帝国の不利となった。

国民党政府の後ろには在外華僑がいること、支那が国民国家になりつつあることを、別の文言で説き、すなわち、日支和平を提議する内容であった。


『・・・右の諸理由に因り

支那との和平を拓くは馮眉の急務に属す

最後に世界永遠の平和は皇道政治の確立にあり

以上』



続いて、署名した賛同人の氏名が読み上げられる。

頭山満にはじまり、工藤忠で終わるまで、88名の氏名が読み上げられた。


読み終えると、建白側全員が起立し、最敬礼する。

同時に、首相以下の政府側も立ちあがり、最敬礼する。

「謹んで建白する」

「謹んで受領する」

建白書の手交が終わり、一同が着席する。

拍手が起こり、フラッシュが焚かれる。

「「「ぱちぱちぱち」」」


式は、来賓の衆議院代表の祝辞、貴族院代表の祝辞と続く。

と。



突然、東條首相が起立した。阿吽の呼吸で工藤たちも起立し、ホールの全員が空気を読んで姿勢を正す。戸山音楽隊が演奏を開始する。曲は、中華民国の国歌とされる三民主義歌。

式次第には書かれていなかった。


曲が終わると、何事もなかったように東條が登壇する。

首相を右翼の巨頭が囲んでの万歳三唱。

乾杯があって、式次第は終了である。



乾杯の後は、もちろん、宴会となる。宴会は、東條の希望でカクテルパーティ式となった。早い話、立食である。(立ち食いではない)

留岡警視総監を筆頭に、警備側は猛反対をした。席を決めない立食式では、警備に万全を図れない。なにしろ建白側の面々は、不穏不逞の人名簿の上位にあった。要注意どころではない、要警戒の危険人物ばかりなのである。本来なら、一斉検挙、一網打尽としたいところだ。しかし、東條は「挙国一致です」と言って、とりあわなかった。

すぐに政府要人と危険人物が入り乱れ、乾杯の応酬となる。


「あああ。もうだめだ」

警保局長が泣きそうな声を出す。

「あれでは警衛も間合がとれん」

「わしは、もう知らんぞ」

内務三役も本気で飲みだす。

「こっ、これは!」

「「うまい!」」

外務省儀典課が選りすぐった、いまどきは珍しくなった、とっておきの酒と肴が用意されていた。


早くも酔いが回った者が、東條や豊田を演壇に引き出すと「弥栄」を三唱する。

それを見て、われもわれもと、入れ替わり立ち代り、一同が続く。

記者たちがいちいち律儀にフラッシュを焚く。

記者席はロープが張られていたが、酒肴は同じようにおかれていた。


「「「ざわざわ」」」

「「「わいわい」」」

「「「がやがや」」」


閣僚たちのほとんどは、きっちり1時間で退散した。

建白側は酒豪揃いだったが、フラッシュで上気したか、もうべろんべろんである。

政府側で最後まで残っていたのは、中野国務大臣と豊田海軍大臣だった。


最近酒を覚えた中野だったが、やはりつぶれて、工藤に担がれて退席した。工藤は大男、中野は小兵である。

胃腸にも憂いのない豊田海相は、意気投合した大川やその他を連れて、水交社へ行くらしい。



その頃、すでに号外が出ていた。


『支那事変解決の建白書、政府に手交す!』

東條首相、頭山満氏らの万歳写真も掲載されていた。


『大臣国士、ともに叱咤激励、大東亜の平和に一層邁進す!

(左:豊田海相、右:大川周明氏)』

ペタンペタンと、大川の頭を叩く豊田の姿が、好意的なコメントと共に載っている。


『本邦初か!式中に中華民国国歌を演奏!』

戸山音楽隊は軍楽隊である。帝国の政府と軍は中華民国を認め、近衛声明は撤回された。それは国内向けでなく、重慶の蒋介石へのメッセージであった。


『急転回!日支和平か!?』

号外というのに、手回しよく、論評もついていた。


支那事変の簡潔な年表、これまでの和平交渉の経過と帰結、建白書に賛同署名をした主な国士の経歴や業績が載っている。識者の評価も合わせると、全体に、日支和平を進めようという調子に、紙面は出来上がっていた。



久し振りの号外を見た国民は、驚愕し、そして困惑した。それは号外の内容が期待していたものと大きく違っていたからだ。このところ、資源節約で新聞紙面は大きく減じていた。新聞社への新聞用紙の配給も統制されており、号外など出せる余裕はない筈だ。そこへ号外なら、帝国の一大事と、誰しも思う。実際に、国民のほとんどが日英開戦あるいは日米開戦を予想し、期待していた。


ところが、号外の内容は、これまで戦意を煽っていた右翼幹部らによる日支和平の建白である。右翼と和平という取り合わせは、唐突であった。号外を読んだ国民は混乱するしかない。なにせ、当の右翼の面々にとっても突然なのだ。署名しているのは大物や幹部であり、その下の壮士や翼賛会の下部組織員には初耳であった。大和賛平やその息子の勇などもそうだ。


もちろん、事情を察する者も少なからずいた。新聞用紙の製造と供給は、十数年の確執を経て、王子製紙に統一された。しかし最近、王子製紙は新聞用紙の供給を減らし、その分を衣料原料に回している。人絹=ステープルファイバー、すなわちスフの原料は、新聞用紙と同じパルプなのだ。そして、王子製紙の会長は、藤原銀次郎商工大臣である。


帝国の国策は、日支和平に転じたのか?

まさしく、それは、号外の末節に書かれた文言と同じであった。立場や理解は違っても、国民の関心は、等しく、週末に開会の議会へと向かう。今回の議会では、帝国の重大国策が討議され、決定されるのではなかろうか?

号外を手に持った者は、さらにもう1回、紙面を見つめ直す。



一方で、東京からは外信も飛んでいた。米英へ、独伊へ、そして重慶へ。


外国記者の実感にとって、これは画期的なことであった。それまで、言論統制を強めていた日本が、政府方針と違った政策集団の意見を受け入れる。本当にそうなのか?!

さらに、その建策は日支和平だという。今年だけでも中原会戦、そして長沙作戦が日本の大勝利で終わったばかりである。日本は確実に、重慶に駒を進めている。なぜ、この時期に日支和平なのか?


昨年から、英独の新聞記者がヘマを続けて、日本での取材は困難になっていた。しかし、新内閣の発足以来、それは改善されつつある。先週、千葉の飛行場を飛び立った新型機の行方は、確認された。東京-上海-南京-重慶の取材網を持つ外国通信社や外国新聞社にとっては、スクープのチャンスであった。一匹狼のフリー記者たちは、相手を選び、担当を決めて、手分けする。やはり、新内閣の発足以来、増便された上海航路の予約に走る者もいた。


大日本帝国の進路に変化が起こる。そう感じた者は、多かった。



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