2 一斉検挙
昭和16年11月10日、月曜日。朝。東京府、内務省。
執務室に入った東條英機内務大臣は、まず溜まった書類を決裁した。
内務三役を待つ間、テーブルの上の新聞を手に取る。先週から、新聞には外国諜報団の暗躍を憂う記事がちらほらと出ていた。それが、今日は一面に大きく『某蘇連諜報団』とソ連を名指ししている。『某独逸新聞記者』や『某朝日新聞記者』と、検挙されたリヒャルト・ゾルゲや尾崎秀実の素性も出ている。数日のうちには、二人の姓名が載るだろう。日支交渉や日米交渉の扱いは、まだ小さく目立たない。
東條は、今週末の議会開会に向けて、世論を一転させるつもりだった。
これまで支那事変の続行と対英米開戦に向かっていた世論を、勢いはそのままに、日支和平と対米妥協に変針させる。ゾルゲ諜報団の目的が公表されれば、きっとそうなる。そのまま、世論を背景に議会を乗り切れば、日支和平と対米妥協は文字通り帝国の国策となる。世論と政策の一致である。広く国民層まで賛同した国策は、国内外の敵対勢力への強大な圧力となり得る。
その時、国民の、変針のストレスと不満は、怒りに変わるだろう。特に、共産主義者や革命主義などの反政府勢力にとっては、国内に居場所がなくなるほどに。
(一気に勢いで潰す)東條の決意は固かった。
一方で、松井全権や吉田全権にとっては、何よりの応援になるはずだ。両大使の言葉は一億を代表するのだ。それは、支那にも米国にも届くだろう。
(そのために、万全を期す)
「お待たせしました」
湯浅内務次官、今松警保局長、留岡警視総監の内務三役が席に着いた。
湯浅次官が、東條が新聞を手にしているのを見とめて言う。
「そんな感じで、どうでしょうか?」
「いいですね。このまま一気に」
「はい。議会開会の土曜日に向けて一気に」
新聞の検閲は緩和されて、事後検閲となった。つまり、新聞紙法と国防保安法に触れなければ、とりあえずはどんな記事を掲載してもいい。問題があるかないかは、発行後に吟味されるということだ。といっても、先週の東京日日新聞のことを思えば、どの新聞社も慎重にならざるを得ない。しばらくは、様子見が続くだろう。
新聞の検閲は、情報統制であるから情報局の主管であったが、検閲官のほとんどは内務省から出向した者たちだった。つまり、新聞の検閲においては、相変わらず内務省が力を持っているのだ。だから、各新聞社の幹部らは、内務省の課長や局長に接触しようとする。事後検閲の範囲と、処罰の境界を知るためだ。内務省の影響力は、少しも衰えていない。
そして、ゾルゲや尾崎たちを検挙し収監しているのは内務省の特別高等警察である。情報源は内務省。どの情報を出して、どう書いていいかを判断するのも内務省。内政と治安の専門家たちが、綿密に計算したシナリオに基づいて、全国紙の新聞記事を管制しようというのである。しかも、その目的は、決して穏やかではない。何回もできることではないし、やってはいけないだろう。
(これは貴重な戦訓になる)
東條、志郎や土肥原はもちろん、中野正剛国務大臣も注目していた。
「しかし、あまり世論を盛り上げると、その後が・・」
「そうですね。世論が政府を後押ししている間はいいですが」
「正直言って、日本人は一度火がつくと手におえない」
「勿論、静める方策も考えてありますよ」
「やはりそうでしたか、大臣」
「日支も日米も、その妥結条件は、必ずしも国民全員が納得しますまい」
「国と国との交渉です。譲る場面があるでしょう」
「国民への申し訳も分配も考えています」
「大臣、恐れ入りました」
「いえいえ、まずは内務ご三役です。存分にどうぞ」
世論の逆転と同時に、反政府勢力の一斉検挙を行う。それが内務省の計画だ。それは、東條の考えとも合致する。徹底的にやる、殲滅戦なのだ。そのために、日比谷と226の同時発生ぐらいの騒乱は覚悟していた。
「もう、ここまでご配慮いただければ」
「そうです。やり遂げるだけです」
「「「存分にやらせていただきます!」」」
内務省警保局、東京警視庁、各県警察への応援は、各連隊区から行う。憲兵隊は表だって出ない。山中への逃亡や山狩りへの対応も考えて、全国民俗調査団は慎重に配置してあった。内務省と警察が主導できるように、応援部隊ごとの指揮権も考慮してある。現場での調整のために、各連隊区からは参謀も派遣されることになっていた。
「いよいよです」
「どうでしょう、大臣」
「現場はご三役の判断でよろしい、しかし」
「しかし?」
「今まで泳がせていたのは理由があると思うが」
「組織丸ごと一網打尽とします」
「大物も雑魚も逃がしませんから、もう情報屋は不要です」
「全貌が見えたのですな」
「はっきりと判明しました」
国内の反政府勢力は、まずは共産主義者である。日本共産党の党員は、これまでに一万人以上が検挙されている。逮捕に至らないシンパや転向者など三千名が、継続的な警察の監視下にある。しかし、地下潜伏者や連絡専従者など、警察の追及を逃れている者も数千名はいると思われていた。
「今回の検挙対象者は、6万名です」
「多いですな。まだそれほども」
「H級が6千、S級が2万、残り3万4千がT級です」
「H級が6千ですか、已むを得ませんなあ」
「まことに遺憾です」
「親御さんが不憫です」
「「「うるうる」」」
「他に、監視対象者が15万名です」
内務三役の顔は、蒼白である。
H級は排除対象者で、S級が何らかの罪状で刑務所に即時収容する者たちだ。T級は転向強制の対象者で、罪状が確定次第に収容する。T級の収容先は、刑務所以外への隔離・収監も検討されていた。K級である監視対象者は、頻度によって常時監視から毎週、毎月、移動報告まであった。
「しかし、やらねばならない」
「「「はい!」」」
「検挙予定者の中に大物はいますか?その、軍や政府の」
「いささかは」
そう言うと、警保局長が冊子を渡す。東條がざっとめくる。
「海軍さんもいますか。これは即断できない」
「ご検討ください。何日必要ですか?」
「検討していては、遅いでしょう」
「はい。一斉にやることに意味がありますので」
「わかります。ふぅむ」
「「「・・・」」」
「T級は、監視をつけられれば、検挙は延期できますかな?」
「それは可能です。しかし、監視の人数がとれませんので」
「ふむぅ~」
「「「・・・」」」
内務三役の三人は、緊張の極致にある。誰かがやらなければいけない仕事で、三人は今、その職責にあった。これは、墓場まで持って行く事項である。三人は、そう理解していた。そのために、公式かどうかは別として、できるだけの待遇が国から与えられるだろう。それは東條が責任をもって果たすべき義務である。
さらに、反政府主義者で排除対象者といっても、帝国臣民である。排除されるならば、それはそれで、慰霊か鎮魂は必要だ。6千であるから、まさか、三役の自宅の仏壇や神棚における数ではない。そっちも手配するべきだった。主義者の主張と帝国の国策が相容れないとしても、日本の道徳は護られなければならないのだ。
「内務省だけ、とはいきませんな」
「え?」
「と言いますと。大臣」
「軍人が入っているならば、軍の手も汚すべきでしょう」
「「「あああ」」」
「今日中に、陸海軍と話をつけます」
「明日には、次官か局長をよこしましょう」
「それはありがたい」
「感謝します、総理」
「わたしは、内務大臣なのですよ」
「「「はっ」」」
「言うべきことは、内閣に言います」
「「「ははーっ」」」
「では、明日の夕方、また来ます」
「「「よろしくお願いします」」」