序 総元締
昭和16年11月8日土曜日。夜。東京府、某所。
教育総監の土肥原賢二陸軍大将は、岡山出身で陸士16期、東條首相の1期上である。陸大卒業の直後から、北京、天津、奉天、ハルビンと、特務機関とその長を歴任してきた。3年前の昭和13年からは、参謀本部直属の特務機関である土肥原機関を設立し、その長に修まった。自他共に認める陸軍謀略の総元締めである。
一方で、土肥原は、大隊長、連隊長、旅団長、師団長、軍司令官も順当に勤めているから、どこへ出しても立派な陸軍大将だった。つまり、表裏両面から陸軍を知悉している。どちらかというと軍政と憲兵に偏った経歴の東條大将と違って、妙な劣等感の類は持ち合わせていない。土肥原賢二は陸軍のエリートなのだ。
「おかしいかな?」
「いえ、とんでもありません。閣下」
「ま、そう硬くなるな。いつもと違って、ここは他人の出入りがない」
「はっ」
土肥原に相対しているのは、副官の山内禄雄陸軍中尉である。ここは、小さな料理屋の一室である。土肥原は、軍人会館や偕行社で飲むのが好きなのだが、禄雄が反対した。それは、土肥原の洗脳が解けたので、何を話し出すか管制できないからだ。土肥原は謀略畑が長いので、防諜にはそれなりに敏感だが、自身の言動を慎むことはない。それは周りの者、つまり副官の責任というわけだ。
土肥原の洗脳を行ったのは、中野学校研究部の山口吾朗陸軍大尉、つまり禄雄の直の上官である。禄雄は、洗脳から10日ほど経った後に土肥原附きとなったが、その時は洗脳は解けていた。土肥原自身で解いたらしい。すぐに報告したが、吾朗は笑うだけだった。それ以来、禄雄は気の抜けない勤務を続けている。
ここは、料理屋といっても、表からはふつうの民家としか見えない。入り口の格子戸は、裏通りに面していた。入ると、地味な着物の老女が出て来たが、案内するわけでもなく、そのまま奥にさがった。しかし、土肥原は気にする風でもなく、ずんずんと一人で入っていって、勝手に部屋の一つに座り込んだ。禄雄はため息をつきながら、後に続いたのだった。
「なかなか、うまいじゃないか」
「そうですね。おいしいです」
「たまには、こういうのもいい」
何も言わなくても、絶妙の間合いで料理と酒が運ばれてくる。
高級な食材ではなかったが、手間をかけた調理なのはわかる。
二人は、しばらくの間、無言で酒と料理を味わった。
「10年前の満洲はな、今と違ったよ」
「はっ」
「見捨てられた、ただの荒地であり、夜盗が横行する無法者の世界」
「はあ」
「河本大作と石原莞爾がそれを変えたのだが」
「はっ」
「帝国の国防だけを考えれば、昔のままがよかった」
「兵務局長もそのように言われてました」
「うん、田中もわかってるさ」
「満蒙は帝国の生命線と、初めて言ったのは松岡さんだ。当時は、満鉄副総裁だったか」
「そうです。昭和5年の帝国議会です」
「しかし、生命線の実体はなかったのだ。当時の在満邦人は20万人強だが、開拓農民は千人もいなかった。20万人は、満鉄職員がほとんどだ」
「ええ」
「1500kmの鉄道を動かし管理するには、1kmあたり20人が必要だという。機関手や車掌を入れてな」
「はい」
「それに、職員の家族、関東軍将兵と家族。他は、その邦人相手の商店や飲食店だ」
「はあ」
「日満支の馬賊が入り乱れて不安定、そんな満洲がよかったのだよ。帝国の国防にはな」
「そうなのですか」
「関東軍は反発していたが、陸軍は若槻総理、幣原外相、井上蔵相らに抑えられていた」
「はい」
「ソ連も、いまほど脅威ではなかった」
「はあ」
「柳条湖事件に乗じて満洲事変、満洲国独立と無理をしてみたがな」
「総監、どの目論見が違ったのでしょうか?」
「一番の見当違いは」
「はい」
「自給自足ができない。自存自衛もできない。満洲は対外依存の国なのだ」
「えっ」
「日本の農民の基本は稲作だ。満洲には、何代もかけて手入れした田舗はない」
「寒冷で、もともと稲作には向きません」
「ならば、畑作だが、それでは米は食えない」
「はあ」
「満洲の農民は、自作の粟稗しか食わない。米を買う日本農民がどうやって競争できる?」
「ああ」
「大麦や大豆は安価だから大量に作って売らないと、高い米は買えない」
「量ですね」
「つまり、米豪の大型機械農業でないと、麦豆を売って米を買うことはできん」
「それには、機械や燃料」
「つまり資本だ。灌漑路も道路もいる」
「ならば」
「だが、麦と豆の満洲には資本はない。あたりまえだが」
「だから、対外依存なのですね」
話し込むと、酒が運び込まれる。
料理は、小皿の肴に変わった。
「もともと、松岡さんは日支共同開発、鮎川さんは米国資本導入がねらいだった」
「満洲は外国資本を導入しないと成り立たないのですね」
「日本人が住もうとしたら、な」
「支那、満洲、朝鮮人は、粟稗で働ける。せいぜい麦や豆だ」
「日本人は、それより高い米でないとだめです」
「ま、仏印やタイの米は安いがな」
「そして、欧米人は、米より高い、肉や小麦や牛乳だ」
「なるほど」
「だから、帝国だけでは満州も支那も開発できない」
「そうなりますね」
「今だから言えるがな。石原も鈴木も所詮は軍人、経済は無理なのさ」
「じーっ」
「なんだ。わしは軍命以外で謀略を行ったことはないぞ」
「そうでした」
「満州に行けばすべてが揃うと思い込んでいたのだ」
「関東軍がですか、それとも・・」
「惑わされていたのは、日本人の全員さ」
「いまさらだが、何故そんな満洲に引き込まれたのか。そういう感慨はある、確かに」
「はい、検証が必要ですね」
「頼んだぞ」
「ゾルゲがそう供述してるんですか?」
「まあ、そうなるかな」
「ソ連の謀略ですか」
「と、わしがゾルゲの調書をいじっておるのだが」
「えええーっ」
「何を驚くか。それが、わしの仕事だろ」
「あっ、あっ」
「東條がわしを教育総監にしたのは、そういうことだろう」
「え、ま、その」
「ここまで権限をもらったのだ」
「はい」
「依頼人の東條自身が驚くほどの成果をあげてやる」
「ええーっ」
「大事にしてやると、東條に約束したのだ」
(い、いいのかな。この人で)
土肥原大将は、教育総監として、各兵科監の上に立つ。陸軍総監査役である。教育機関は、謀略諜報の中野学校ほかも含めて、すべて管下におく。これには教官・学生の指揮権も含まれる。それまで参謀本部が握っていた陸軍大学もだ。さらに、陸軍省から、退役軍人の再教育を連隊区と協同として移管された。
つまり、現役前や教育中の将兵、現役を退いた予備役・後備役をも監督する。解釈によっては、予備軍司令官である。独逸において予備軍司令官は戒厳司令官と同義だ。すなわち、クーデター用の配備である。
「1つだけ憲兵が抜けておる、と思ってたらな」
「はあ」
「憲兵学校を憲兵司令部と軍司令部から剥ぎ取って、送りつけてきおった」
「ああ」
「これでは、第2陸軍か予備軍だ。陸海に継ぐ第3の軍ではないか」
「まったく、もう。東條も堂々とやりおる」
「省部が混乱しておる隙を突きおった、なかなかやる」
「おかげで、目の回る忙しさだ」
「人使いが荒くなりおって」
「しかし、航空総監がいますので、航空兵は抜けていますね」
「ばかめ。東條は陸軍航空を帝国空軍にする腹だ」
「え。そうなのですか」
「山下も多田も、いっぱい喰わされてるのだ」
「よくお見通しで」
「それぐらい読めないでどうする」
「はっ、はっ」
「お前も、五郎ではなくわしについたらどうだ」
酒はうまかった。雑味のない、きれのある酒だ。
禄雄は任務のために五感六感のすべてを磨いてあるから、舌も利く。
土肥原も感心して盃を見つめながら、しきりにうなづいている。
「わしが査定した予算は、ここにも、ちゃんと回っているようだ」
(そっちかよ)
「うまいだろ?」
「はいぃ」
「それで。東條がほしい情報は、全部、作ってやる」
「しかし」
「何を言う。お前の上官の五郎も同じだろう?」
「そ、それは」
「禄雄も、五郎と同じ目つきをすることがあるな。時々」
(ぎく!)
あらためて見ると、土肥原は真顔に戻っていた。
さっきまで、ほろ酔いに顔を赤らめていたのだが。
「ま、飲め」
「はっ」
「禄雄の上官は五郎で、その五郎の父親が四郎だったな」
「はあ」
「ならば、田中の秘書の菜々はお前らの仲間か」
(どき!)
「4567と来れば、次は8だ」
(あああ)
「八郎はないな、熊八も古い。蜂男とか。女なら八重かなぁ」
(げげ!)
「ま、9、10、11と続くのだろうが」
(どきどき)
「それは、どうでもいい」
(ほっ)
ふと、横を向いた土肥原の顔に、碌雄は見惚れた。若い頃の土肥原は美少年であった。幼年学校時代の写真を見せてもらって、驚いたことがある。まさに紅顔の美少年であった。今はさすがに60近いからあれだが、面影はある。美形は顎が小さい。だから、たるみも出やすく、2重顎となりやすいのだ。
そう言えば、田中隆吉少将もそうだ。大尉・少佐の頃は美男子である。眼鏡をかけたインテリエリートだ。いったい、謀略畑で働くには、美男美女が向いているのか。醜男・醜女では初見の好意を得られない。禄雄は、同僚の道夫や十郎の顔を思い浮かべてみた。飛び切りでなくてもかまわないが、平均以上の美形は有利だ。
「田中といえば、やつの趣味はわからん」
「はあ?」
「女を男装させてたと思ったら、今は男を女装させて悦に入っておる」
「ああ」
「あの女、いや男はお前の仲間だろう?」
「さて」
「ばかもん、わしにわからんと思うか?」
「ははーっ」
『女を男装』は、川島芳子のことだろう。満洲皇帝溥儀陛下の親族、清朝八大親王の一人、粛親王の娘、愛新覚羅顕玗、すなわち東洋のマタハリである。愛人の田中隆吉のほかにも、多田駿や児玉誉士夫や笹川良一など大勢が横恋慕したという。『男を女装』は、禄雄の同僚の菜々のことで、何のことはない。すべてばれているのだ。
「田中も頭の病気が治ったようだ。定年までは大丈夫だ。中将までは行くだろう」
「ええ」
「あれはな、奥田が北支で仕入れてきた名簿を持っている」
(ぎく!)
「ゾルゲとは別の線だ。ソ連政府が直接接触して、内通者にした日本人の名簿だ」
「そ、それは」
「アレがある限り、貴族院も海軍も、田中には手を出せん。もちろん陸軍もだが」
「はあ」
「海軍の将官の名も入っているそうだ」
それは陸軍特情、特殊情報部が解読できないと、1回は諦めたものだった。しかし、志郎と吾朗によって、解読されていた。
田中隆吉は、躁鬱病と思われる精神病を患っていて、往年の記憶力が衰えてきていた。本人は、脳梅と信じていたらしい。しかし、吾朗が勧めた抗生物質、碧素1号の投与で劇的に快癒した。田中は、大喜びで、その名簿を吾朗に渡した。
「ところで、何人になった」
「11人です」
東條暗殺を企んで、土肥原が張った網に引っ掛かり、排除された人数である。右翼系が7人、左翼系が4人である。
「あれだけ憲兵と警保局がやっていても、アカが4人もすり抜けたか」
「憲兵と内務省では4人を検挙しています。2人を逃がしましたが」
「ま、来週の建白式で、右翼は減るだろうが」
「はあ」
「東條も怨まれたものだな」
「東條に最初に頼まれたのが、妨害者の排除だったが」
「はい」
「やはり、根本的な排除策が必要だな」
「そうです」
「それで、考えたぞ!」
(どき!)
「名づけて、ABC作戦だ」
「ABC?」
「Aはアカ。と言えば、BCはわかるだろ?」
「は、はい」
「全国民俗調査は聞いているな」
「はい」
「同行者に、憲兵や特務の経験者を300人も集めたのだぞ。まったく」
「はあ」
「これで、一挙に殲滅だ」
「一挙にですか」
「うむ、なにせ数が多い。一人一人だと効率が悪い」
「効率、ですか」
「だから、まとめてドカンだ」
「ド、ドカン?」
「たまには、海軍にも汚れ役をやってもらわんとな」
「え、ええー」
「あっはっは」
「どうでしょう、閣下」
「ん?」
「大学教授や講師も入れませんか?」
「ほうっ。ちょうどABCD包囲網だな」
「えへへ」
「「あっはっは」」
「やめておこう。また洗脳されてはかなわん」
(ぎく!)
「あっはっは」
(やはり、この場所にしてよかった)禄雄は、今日、何回も思っていた。
「これからの数ヶ月は面白いぞ」
「は、はい」
「まず、調書だ」
「次に、ABC大作戦」
「それから、天下三分の計!」
「あ、天下三分?」
「おっと、まだ教えんぞ」
「・・」
「わしは、東條に感謝しておる」
「は、はっ」
「これだけ痛快なことはない」
「ええ」
「存分に楽しむぞ」
「はあ」
「ほれ、飲まんか!」
「はいぃ」
「あっはっは」
「あっはっは」
「「あっはっは」」