表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
LN東條戦記第2部「変革宰相」  作者: 異不丸
第2章 外はすなわち国交を親善にし
15/53

序 総元締

昭和16年11月8日土曜日。夜。東京府、某所。


教育総監の土肥原賢二陸軍大将は、岡山出身で陸士16期、東條首相の1期上である。陸大卒業の直後から、北京、天津、奉天、ハルビンと、特務機関とその長を歴任してきた。3年前の昭和13年からは、参謀本部直属の特務機関である土肥原機関を設立し、その長に修まった。自他共に認める陸軍謀略の総元締めである。


一方で、土肥原は、大隊長、連隊長、旅団長、師団長、軍司令官も順当に勤めているから、どこへ出しても立派な陸軍大将だった。つまり、表裏両面から陸軍を知悉している。どちらかというと軍政と憲兵に偏った経歴の東條大将と違って、妙な劣等感の類は持ち合わせていない。土肥原賢二は陸軍のエリートなのだ。


「おかしいかな?」

「いえ、とんでもありません。閣下」

「ま、そう硬くなるな。いつもと違って、ここは他人の出入りがない」

「はっ」


土肥原に相対しているのは、副官の山内禄雄陸軍中尉である。ここは、小さな料理屋の一室である。土肥原は、軍人会館や偕行社で飲むのが好きなのだが、禄雄が反対した。それは、土肥原の洗脳が解けたので、何を話し出すか管制できないからだ。土肥原は謀略畑が長いので、防諜にはそれなりに敏感だが、自身の言動を慎むことはない。それは周りの者、つまり副官の責任というわけだ。


土肥原の洗脳を行ったのは、中野学校研究部の山口吾朗陸軍大尉、つまり禄雄の直の上官である。禄雄は、洗脳から10日ほど経った後に土肥原附きとなったが、その時は洗脳は解けていた。土肥原自身で解いたらしい。すぐに報告したが、吾朗は笑うだけだった。それ以来、禄雄は気の抜けない勤務を続けている。



ここは、料理屋といっても、表からはふつうの民家としか見えない。入り口の格子戸は、裏通りに面していた。入ると、地味な着物の老女が出て来たが、案内するわけでもなく、そのまま奥にさがった。しかし、土肥原は気にする風でもなく、ずんずんと一人で入っていって、勝手に部屋の一つに座り込んだ。禄雄はため息をつきながら、後に続いたのだった。


「なかなか、うまいじゃないか」

「そうですね。おいしいです」

「たまには、こういうのもいい」


何も言わなくても、絶妙の間合いで料理と酒が運ばれてくる。

高級な食材ではなかったが、手間をかけた調理なのはわかる。

二人は、しばらくの間、無言で酒と料理を味わった。


「10年前の満洲はな、今と違ったよ」

「はっ」

「見捨てられた、ただの荒地であり、夜盗が横行する無法者の世界」

「はあ」

「河本大作と石原莞爾がそれを変えたのだが」

「はっ」

「帝国の国防だけを考えれば、昔のままがよかった」

「兵務局長もそのように言われてました」

「うん、田中もわかってるさ」


「満蒙は帝国の生命線と、初めて言ったのは松岡さんだ。当時は、満鉄副総裁だったか」

「そうです。昭和5年の帝国議会です」

「しかし、生命線の実体はなかったのだ。当時の在満邦人は20万人強だが、開拓農民は千人もいなかった。20万人は、満鉄職員がほとんどだ」

「ええ」

「1500kmの鉄道を動かし管理するには、1kmあたり20人が必要だという。機関手や車掌を入れてな」

「はい」

「それに、職員の家族、関東軍将兵と家族。他は、その邦人相手の商店や飲食店だ」

「はあ」

「日満支の馬賊が入り乱れて不安定、そんな満洲がよかったのだよ。帝国の国防にはな」

「そうなのですか」


「関東軍は反発していたが、陸軍は若槻総理、幣原外相、井上蔵相らに抑えられていた」

「はい」

「ソ連も、いまほど脅威ではなかった」

「はあ」

「柳条湖事件に乗じて満洲事変、満洲国独立と無理をしてみたがな」

「総監、どの目論見が違ったのでしょうか?」

「一番の見当違いは」

「はい」

「自給自足ができない。自存自衛もできない。満洲は対外依存の国なのだ」

「えっ」


「日本の農民の基本は稲作だ。満洲には、何代もかけて手入れした田舗はない」

「寒冷で、もともと稲作には向きません」

「ならば、畑作だが、それでは米は食えない」

「はあ」

「満洲の農民は、自作の粟稗しか食わない。米を買う日本農民がどうやって競争できる?」

「ああ」

「大麦や大豆は安価だから大量に作って売らないと、高い米は買えない」

「量ですね」

「つまり、米豪の大型機械農業でないと、麦豆を売って米を買うことはできん」

「それには、機械や燃料」

「つまり資本だ。灌漑路も道路もいる」

「ならば」

「だが、麦と豆の満洲には資本はない。あたりまえだが」

「だから、対外依存なのですね」


話し込むと、酒が運び込まれる。

料理は、小皿の肴に変わった。


「もともと、松岡さんは日支共同開発、鮎川さんは米国資本導入がねらいだった」

「満洲は外国資本を導入しないと成り立たないのですね」

「日本人が住もうとしたら、な」

「支那、満洲、朝鮮人は、粟稗で働ける。せいぜい麦や豆だ」

「日本人は、それより高い米でないとだめです」

「ま、仏印やタイの米は安いがな」

「そして、欧米人は、米より高い、肉や小麦や牛乳だ」

「なるほど」

「だから、帝国だけでは満州も支那も開発できない」

「そうなりますね」

「今だから言えるがな。石原も鈴木も所詮は軍人、経済は無理なのさ」

「じーっ」

「なんだ。わしは軍命以外で謀略を行ったことはないぞ」

「そうでした」

「満州に行けばすべてが揃うと思い込んでいたのだ」

「関東軍がですか、それとも・・」

「惑わされていたのは、日本人の全員さ」


「いまさらだが、何故そんな満洲に引き込まれたのか。そういう感慨はある、確かに」

「はい、検証が必要ですね」

「頼んだぞ」

「ゾルゲがそう供述してるんですか?」

「まあ、そうなるかな」

「ソ連の謀略ですか」

「と、わしがゾルゲの調書をいじっておるのだが」

「えええーっ」

「何を驚くか。それが、わしの仕事だろ」

「あっ、あっ」

「東條がわしを教育総監にしたのは、そういうことだろう」

「え、ま、その」

「ここまで権限をもらったのだ」

「はい」

「依頼人の東條自身が驚くほどの成果をあげてやる」

「ええーっ」

「大事にしてやると、東條に約束したのだ」

(い、いいのかな。この人で)



土肥原大将は、教育総監として、各兵科監の上に立つ。陸軍総監査役である。教育機関は、謀略諜報の中野学校ほかも含めて、すべて管下におく。これには教官・学生の指揮権も含まれる。それまで参謀本部が握っていた陸軍大学もだ。さらに、陸軍省から、退役軍人の再教育を連隊区と協同として移管された。


つまり、現役前や教育中の将兵、現役を退いた予備役・後備役をも監督する。解釈によっては、予備軍司令官である。独逸において予備軍司令官は戒厳司令官と同義だ。すなわち、クーデター用の配備である。


「1つだけ憲兵が抜けておる、と思ってたらな」

「はあ」

「憲兵学校を憲兵司令部と軍司令部から剥ぎ取って、送りつけてきおった」

「ああ」

「これでは、第2陸軍か予備軍だ。陸海に継ぐ第3の軍ではないか」

「まったく、もう。東條も堂々とやりおる」

「省部が混乱しておる隙を突きおった、なかなかやる」

「おかげで、目の回る忙しさだ」

「人使いが荒くなりおって」


「しかし、航空総監がいますので、航空兵は抜けていますね」

「ばかめ。東條は陸軍航空を帝国空軍にする腹だ」

「え。そうなのですか」

「山下も多田も、いっぱい喰わされてるのだ」

「よくお見通しで」

「それぐらい読めないでどうする」

「はっ、はっ」

「お前も、五郎ではなくわしについたらどうだ」



酒はうまかった。雑味のない、きれのある酒だ。

禄雄は任務のために五感六感のすべてを磨いてあるから、舌も利く。

土肥原も感心して盃を見つめながら、しきりにうなづいている。


「わしが査定した予算は、ここにも、ちゃんと回っているようだ」

(そっちかよ)

「うまいだろ?」

「はいぃ」

「それで。東條がほしい情報は、全部、作ってやる」

「しかし」

「何を言う。お前の上官の五郎も同じだろう?」

「そ、それは」

「禄雄も、五郎と同じ目つきをすることがあるな。時々」

(ぎく!)


あらためて見ると、土肥原は真顔に戻っていた。

さっきまで、ほろ酔いに顔を赤らめていたのだが。


「ま、飲め」

「はっ」

「禄雄の上官は五郎で、その五郎の父親が四郎だったな」

「はあ」

「ならば、田中の秘書の菜々はお前らの仲間か」

(どき!)

「4567と来れば、次は8だ」

(あああ)

「八郎はないな、熊八も古い。蜂男とか。女なら八重かなぁ」

(げげ!)

「ま、9、10、11と続くのだろうが」

(どきどき)

「それは、どうでもいい」

(ほっ)


ふと、横を向いた土肥原の顔に、碌雄は見惚れた。若い頃の土肥原は美少年であった。幼年学校時代の写真を見せてもらって、驚いたことがある。まさに紅顔の美少年であった。今はさすがに60近いからあれだが、面影はある。美形は顎が小さい。だから、たるみも出やすく、2重顎となりやすいのだ。


そう言えば、田中隆吉少将もそうだ。大尉・少佐の頃は美男子である。眼鏡をかけたインテリエリートだ。いったい、謀略畑で働くには、美男美女が向いているのか。醜男・醜女では初見の好意を得られない。禄雄は、同僚の道夫や十郎の顔を思い浮かべてみた。飛び切りでなくてもかまわないが、平均以上の美形は有利だ。


「田中といえば、やつの趣味はわからん」

「はあ?」

「女を男装させてたと思ったら、今は男を女装させて悦に入っておる」

「ああ」

「あの女、いや男はお前の仲間だろう?」

「さて」

「ばかもん、わしにわからんと思うか?」

「ははーっ」


『女を男装』は、川島芳子のことだろう。満洲皇帝溥儀陛下の親族、清朝八大親王の一人、粛親王の娘、愛新覚羅顕玗、すなわち東洋のマタハリである。愛人の田中隆吉のほかにも、多田駿や児玉誉士夫や笹川良一など大勢が横恋慕したという。『男を女装』は、禄雄の同僚の菜々のことで、何のことはない。すべてばれているのだ。


「田中も頭の病気が治ったようだ。定年までは大丈夫だ。中将までは行くだろう」

「ええ」

「あれはな、奥田が北支で仕入れてきた名簿を持っている」

(ぎく!)

「ゾルゲとは別の線だ。ソ連政府が直接接触して、内通者にした日本人の名簿だ」

「そ、それは」

「アレがある限り、貴族院も海軍も、田中には手を出せん。もちろん陸軍もだが」

「はあ」

「海軍の将官の名も入っているそうだ」


それは陸軍特情、特殊情報部が解読できないと、1回は諦めたものだった。しかし、志郎と吾朗によって、解読されていた。


田中隆吉は、躁鬱病と思われる精神病を患っていて、往年の記憶力が衰えてきていた。本人は、脳梅と信じていたらしい。しかし、吾朗が勧めた抗生物質、碧素1号の投与で劇的に快癒した。田中は、大喜びで、その名簿を吾朗に渡した。



「ところで、何人になった」

「11人です」

東條暗殺を企んで、土肥原が張った網に引っ掛かり、排除された人数である。右翼系が7人、左翼系が4人である。

「あれだけ憲兵と警保局がやっていても、アカが4人もすり抜けたか」

「憲兵と内務省では4人を検挙しています。2人を逃がしましたが」

「ま、来週の建白式で、右翼は減るだろうが」

「はあ」

「東條も怨まれたものだな」


「東條に最初に頼まれたのが、妨害者の排除だったが」

「はい」

「やはり、根本的な排除策が必要だな」

「そうです」

「それで、考えたぞ!」

(どき!)

「名づけて、ABC作戦だ」

「ABC?」

「Aはアカ。と言えば、BCはわかるだろ?」

「は、はい」


「全国民俗調査は聞いているな」

「はい」

「同行者に、憲兵や特務の経験者を300人も集めたのだぞ。まったく」

「はあ」

「これで、一挙に殲滅だ」

「一挙にですか」

「うむ、なにせ数が多い。一人一人だと効率が悪い」

「効率、ですか」

「だから、まとめてドカンだ」

「ド、ドカン?」

「たまには、海軍にも汚れ役をやってもらわんとな」

「え、ええー」

「あっはっは」


「どうでしょう、閣下」

「ん?」

「大学教授や講師も入れませんか?」

「ほうっ。ちょうどABCD包囲網だな」

「えへへ」

「「あっはっは」」

「やめておこう。また洗脳されてはかなわん」

(ぎく!)

「あっはっは」


(やはり、この場所にしてよかった)禄雄は、今日、何回も思っていた。


「これからの数ヶ月は面白いぞ」

「は、はい」

「まず、調書だ」

「次に、ABC大作戦」

「それから、天下三分の計!」

「あ、天下三分?」

「おっと、まだ教えんぞ」

「・・」

「わしは、東條に感謝しておる」

「は、はっ」

「これだけ痛快なことはない」

「ええ」

「存分に楽しむぞ」

「はあ」

「ほれ、飲まんか!」

「はいぃ」

「あっはっは」

「あっはっは」

「「あっはっは」」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ