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LN東條戦記第2部「変革宰相」  作者: 異不丸
第1章 内はすなわち教化を醇厚にし
13/53

10 検閲緩和


昭和16年11月8日土曜日。東京府、有楽町、朝日新聞東京本社。


朝日新聞は、昨年9月に、大阪朝日新聞と東京朝日新聞の題号を統一し、名実ともに全国紙となった。それは、政府・情報局の新聞社整理の方針に沿っている。


東京朝日新聞は、昭和11年の226事件で標的にされて、叛乱軍の侵入を受けた。しかし、主筆の緒方竹虎が叛乱将校を口説いて、事なきを得た。緒方は、それから重用されて、紙面論調を政府・陸軍寄りに主導してきた。特に、昭和12年6月に近衛公爵が首相になると、その政策立案本部である昭和研究会に多くの社員・記者を送り込んでいた。



出社した緒方竹虎は、いつものとおり、自紙を読んだ後に、競合他紙に目を通す。

まずは東日、東京日日新聞である。東京日日新聞は、大阪毎日新聞の東京向けの題号である。いずれは、東京朝日と同じく題号を統一して、全国紙の毎日新聞となるだろう。

一面に大きく、南満洲油田の記事があった。写真つきである。


『出た出た黒い原油! 南満洲油田だ! 現地特派員報告』

(抜かれたか)緒方は唇を噛んだ。


『・・ケーブル、ロータリー、ボーリングと地質に応じて異なる型式の試掘櫓が活動している。その後、採油中の井戸に案内される。苦力が二、三人で脚踏ポンプを押す。すると。出る、出る、黒い原油が滔々と・・・油量は、思いのほか潤沢で、帝国の年間軍民使用量を満たして、なおかつ余りある。・・』


東京日日新聞の記事は続く。阜新から新民、遼河河口までの地図もついている。ただし、一読しただけでは、それまでの探索・試掘の進展なのか、新しい油田なのかは判断できまい。油井の位置は巧妙にぼかしてある。もちろん、これまで興味をもっていて、蓄積のある者には理解できる。つまり、米英のことだ。


やはり、尾崎記者の件で、陸軍に距離を置かれたのか?

緒方の情報網では、南満洲油田は海軍が失敗した後に、陸軍が新式探索法を試みて、つい最近、大油床を発見したらしい、ということだった。それを、海軍に近い東京日日がスクープした。すると、何らかの事由で、手柄は陸軍から海軍に移されたのか。記事では、そこまでは判断できないが、緒方にも新聞屋の勘がある。二重に裏をかかれたのかもしれない。


そう言えば、このところ、東京日日新聞の論調は変わったようだ。同じ業界人である緒方にはわかる。政府寄りになるのは時勢がら仕方がないが、どうも陸軍を持ち上げる論調が目立つ。朝日は陸軍も海軍もどちらも平衡であったが、東日はずいぶんと海軍に近かったはずだ。ふぅむ。何かあったのか。なぜ、この緒方に聞こえてこない。


これまで、朝日も東日も、ほとんどの大手新聞が、支那事変の続行と英米との対決を基調に紙面を作って来た。政府や軍と軋轢を起こすより、外野席で高みの見物と戦争を煽った方が、楽だし儲かるからだ。満州事変の頃まであった批判めいた記事は、今はない。事変や騒乱が起きるたびに、大手新聞社の発行部数はうなぎのぼりに増えてきたのだ。



「緒方!入るぞ!」

大声がして、男が入ってきた。竹馬の友で親友の中野正剛国務大臣であった。どんどんと足音がうるさいのは、中野の片足が義足だからだ。


「また来たのか。今週だけで3度目だぞ」

「何度でも来るぞ。親友が滅亡するのを見過ごしには出来ん」

「滅亡って、大げさな」

「東條さんは本気だぞ」

「陸軍や政府に逆らうような・・」


中野は手をあげて緒方を黙らせると、そのまま、緒方の持った東日の紙面を指差した。1面の左下である。


『虚報訂正とお詫び~百人斬り・・・』

緒方は、大きく目を見開いた。

(虚報だと!誤報としないのか!)


百人斬りがはじめて報道されたのは4年前、昭和12年の11月30日で、南京攻撃開始が12月10日である。武勇伝の1つと紹介されたが、続報は実況報告として2年間も続いた。歌も作られている。


今朝の記事には、百人斬りが全くの虚報であり、記者ら関係社員を処分した、読者および国民に謝罪する、とあった。読者はいいとしても、国民にまで言及するのは尋常ではない。


「わかったか?」

「東京日日が陥ちたのはわかった。しかし」

「しかし?」

「虚報とは、どういうことだ?」

「捏造は報道ではなく、意見でさえない。非難、弾圧されてしかるべきだろう」

「扱いは情緒的だったが、全くの虚報ではあるまい」

「さて。バカな新品少尉が記者に踊らされたか」

「戦意昂揚だろう。それだけで、訂正謝罪記事か!」

「情勢が変わった」

「情勢?」

「松井大将のことは聞いているだろう」

「もちろん」

「鈍いな、今朝は」


中野が言うのはこうである。

水曜日に南京に入った松井大将は、交渉団の結成を済ませると、すぐさま情勢と懸案の拾い出しに入った。今回は、重慶を包囲した上での城下の誓いではない。交渉であるから、一方的とはならない。帝国にとって有利な情勢・状況を把握し、不利な事項・事件をすべて洗い出して、交渉時に使える札を選定・設定するのだ。


「なにぶん、帝国が圧倒的に有力・有利だから、重慶も必死になるだろう」

「そうだろうな。しかし、百人斬りがそれほど不利か?」

「蟻の一穴という。重慶には各国政府の代表も外信記者団もいる」

「あっ!」

「そうだ。上海陥落までは日支2国間で済んだろうが」

「なるほど。重慶政府は外国政府や外信記者の使い方がうまい」

「わかったか。陸軍は件の少尉二人を軍法会議にかける」

「えっ!」

「東日の記者4人とデスクは、現役兵に招集された。報道班ではない」

「そ、そんな!」

「一人は徴兵検査を誤魔化していた。東日本社も諦めたらしい」

「そこまでやるのか」


「まだある。東日の新原という記者も警視庁に拘束された」

「新原?新原丈夫か、海軍黒潮会主任の」

「ああ。こっちは、お前のとこの尾崎と同じく、らむぜい方面だ」

「ええっ」

「日米開戦を運動していたらしい」

「そんなっ。一介の記者になにができる」

「紙面を使えば国民が動く。よく承知だろう」

「うっ」

「ま、新原の件は海軍との取引材料だが」

「そうか」

「事後検閲に緩和されるといって、甘く見るな」

「ああ。明治以来の新聞紙法に、国防保安法か」



緒方が黙考を始めると、中野は煙草に火を点けて待つ。

このところ、中野は、一貫して、緒方に新聞社を辞めるように説得していた。



『いいか、今すぐにとはいかんが、いずれ翼賛会は解散し、政党が復活する』

『え』

『その時に俺は大臣を降りて、政党に戻る』

『だから、お前も政党を作れ』

『そうして、議会で帝国の行く末を正々堂々と議論するのだ』

『新聞を続けるなら、それだけに専念しろ。議員や大臣などに欲を出すな』

『議会でちゃんと議論が行われているかを検証する、健全な新聞は必要だ』

『今のような、国益や国民を無視した、部数目当ての新聞はいらん』

『潰すのか?』

『殲滅する。きれいさっぱり無くなってもらう』


しかし、緒方も、すでに朝日新聞社では重役だ。紙面のほとんどが、緒方の思うままに作られている。近衛政府と進めてきた新聞整理統合案が通れば、社主をも望める。緒方は躊躇していた。


『考えてもみろ。軍主導の政治は終わるだろう』

『日支、日米が妥結すれば、対ソ防衛だけだ』

『しかし、そうなれば、次は外務省が力を持つかも知れん』

『経済危機や経済発展なら商工省、緊縮財政なら大蔵省・・・』

『いずれ、軍部に変わる省庁が出てくるかも知れん』

『そういう時に、今のように議会が機能せず、新聞も警鐘を鳴らせなければどうする』

『先を考えろ。俺たちには、今の社会を誘導した責任がある』

『人気取り、揚げ足取り、利権、我欲私欲の議会を許してしまった』

『元に戻すか、いい方向に持っていくか、それが俺たちの世代の責任だ』



緒方は黙考を終えた。今までの中野との議論を振り返ったが、やはり決断はできなかった。



「それが、先週の日曜日に東條首相と話したことか」

緒方の言葉は、幾分、皮肉に響いた。

「あはは。やはり朝日も尾けていたか」

だが、中野は不敵に笑った。

「残念だな。しばらく頭を冷やして来い」

「すまない、期待に沿えなかった」

「水臭いことを言うな。まだ先は長いさ」

「そうだな」

中野が出て行く。


緒方には、もちろん感慨はある。中野は、同じ福岡の出身で、中学の1年先輩だ。そして、ずっと緒方を引き立ててくれた。東京高商を退学となった緒方を早稲田に勧めたのも、頭山満をはじめ国士の大物を紹介したのも、大阪朝日の新聞記者に誘ったのも、中野正剛だった。なにより、上京してからは、同じ下宿で、貧しい寝食を共にしたのだ。

緒方は、ひざにつけた手で顔を蔽った。



中野大臣は、朝日新聞東京本社の玄関を出る時に、左手に帽子を持っていた。そして、手に持ったまま、被らずに車に乗った。


緒方竹虎の部屋に警視庁特高課長が入って来たのは、中野が去ってからきっちり5分後であった。



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