8 現役復帰
昭和16年11月7日金曜日、陸軍参謀本部。
参謀総長が杉山大将から多田大将へ、次長が塚田中将から本間中将へ交代した。
多田駿大将は、9月から予備役に編入されていたが、今回、現役復帰の上で、参謀総長に親補された。軍政の陸軍大臣・海軍大臣と違って、軍令補翼の参謀総長や軍令部総長は現役武官のしばりはなく、予備役招集でもかまわない。まず現役に復帰させるというのは異例である。
多田が東條首相と会談したのは先週だった。
東條と多田の関係は4年前の一件から良好ではない。今年7月に大将就任と同時に、北支那方面軍司令官から軍事参議官になった。それが2か月後の9月には予備役編入となった。陸軍大臣の東條の仕業に違いない。予備役に追い込んでおいて、いまさら話があるとは面白くないが、土肥原大将のたっての頼みである。会うだけは会うことにした。
「曲げてお願いがあります。国策についてはお聞き及びのとおりです」
「土肥原大将からそれは聞いた」
「ここは陸軍も和平策同調であることを、人事で示さねばなりません」
「話だけは聞こう」
「杉山大将と山田大将が退任の意向です。多田大将には参謀総長をお願いしたい」
さすがに多田も驚く。
「私に参謀総長か、それは思い切ったものだ。東條、変わったな」
「ご承知の通り、陸軍一の変節漢と呼ばれています」
「わかった。確かに、国策再検討において日米開戦を阻止した。それは認める」
「はい。これから仏印・支那からの撤兵を始めます」
「それは止むを得ん。しかし」
「はい。それだけでは陸軍も国民も変わりません。勝手な理屈をつけて、夜郎自大が蔓延るでしょう」
「ほう、これは手厳しい」
「考えてもください。支那撤兵ともなれば、今200万いる兵を半減せねばなりません」
「ふむ、すべてを関東軍への増援とはいかぬか」
「いずれ臨時軍事費特別会計も閉じます。いまいる陸軍将校を整理せねばならぬのです」
多田は、興味を覚えた。今の現役将校は、過半が予備役になるだろう。そして、今の予備役が退役となる。予備役の多田にとって他人事ではない。陸軍にとっては、支那撤兵や日米不戦より大問題だ。さぞかし、陸相は恨まれるだろう。
「それは大変な難儀になるな」
「私はこれを陸軍変革の機会にしたいと思っている」
「ほう」
多田にとって、久し振りに話す東條の考えは新鮮なものだった。こいつは、大化けしたのかも知れん。
「どうも納得がいかん。参謀総長なら梅津がいるだろう。梅津の方が適役だし、大臣との仲も悪くはないと思うが」
「それでは、信賞必罰とはならんのです」
「信賞必罰とは?」
「今回は強硬派・積極派を主に整理します。穏健派・和平派が陸軍主流になったと明確に示さねばなりませぬ。どう繕っても支那事変は負け。であれば、支那事変積極派は懲します」
「穏やかではないな。事変積極派といえば、大臣も含めて陸軍のほぼ全員ではないのか?」
「そこです。正確には、近衛一次内閣でトラウトマン工作を潰した者を標的にします」
「なに!」
トラウトマン工作時の参謀次長が多田であった。一時ではあるが、多田次長は、陸軍をトラウトマン仲介の和平にまとめあげたのだった。しかし近衛首相と海軍大臣の反対で潰された。帷幕上奏も阻止された。
米内め。今日の帝国の苦境を思うと、多田は今でも忸怩たる思いがある。
「支那撤兵で、ソ連は帝国が弱気と誤解するかもしれません。そのようにさせる動きが内外で起きるでしょう。梅津閣下には不動を守ってもらいたいのです。関東軍をまとめてもらわないといかんのです」
多田は、ようやく東條の考えが理解できたように思えた。いまや、東條総理は、名の通り、陸軍だけでなく、帝国全体の去就を見つめているようだ。器が中の人を作るのか。
「多田大将には現役に復帰していただきます」
「なに。召集ではないのか!」
「現役大将として参謀総長に親補です」
「ふぅむ」
そもそも予備役から現役復帰は異例である。過去に例があったか?
「本気はわかった。すこし考えさせてくれ」
「ありがたい。お願いします。それから」
「それから?」
「次長には陸士19期の本間雅晴中将を予定しておりますが、合わせて検討願いたい」
本間中将は、現参謀次長の塚田中将と同期である。
「わかった。数日中に返事する」
結局、多田は参謀総長を引き受けることにした。
今、参謀総長室にいて、参謀次長の本間中将の申告を受けている。
「よろしく頼むよ」
「はっ。身の引き締まる思いです」
多田駿が参謀次長を務めたのは昭和12年8月から昭和13年12月。ほぼ同じ頃、本間雅晴も参謀本部第二部長(情報部長)を務めている。当時のトラウトマン工作の前準備には本間も関わっていた。
「閣下。現役復帰とはご祝着です」
「ふん。縮軍のおりに現役復帰となれば、東條追従のそしりは逃れまい」
「なにを仰る」
「言いたい奴には言わせておくさ」
「現役復帰ならば、容易に更迭はありません」
「そうだったな」
「ですから、ご祝着です」
「ありがとう」
「閣下、部内はぴりぴりしております」
「本間、どう思う?」
参謀本部内、特に第一部(作戦部)では思い切った人事が進行中であった。田中作戦部長をはじめ、服部作戦課長、辻班長など、主戦派・開戦派は更迭された。早々に予備役入りではないかと噂されている。代わりに、宮崎繁三郎少将や八原博通中佐などが着任中である。
「北、ですか?」
「北なら、梅津がここにいるだろう」
「では、やはり」
「今回のことで、和戦の決定は政府に移ったようだ」
「それはよろしいかと」
「ならば、粛々と進めようではないか、撤兵を」
「はい。月曜は省部会議です」
「うむ。軍務局の草案を精査してくれ」
「異例ですね」
「作戦参謀が総入れ替えとなれば、已むを得ん」
「陸軍省も相当動いております」
「冨永人事局長が首だ。武藤軍務局長も出て、後任は栗林らしい」
「田中兵務局長は変わらず」
「佐藤軍務課長もそのまま。わからん」
「木村次官も出て、後には中村明人が」
「中村は憲兵隊司令官からだから、これはわかる」
「ああ」
「山下が陸相になった時の抑えだな」
撤兵作戦の担当部署、第一部では宮崎少将が、部員を前に訓示を行っていた。
「よいか。外交中であるので、軍機であるが」
「しかし、交渉がなれば、即日、兵を帰す」
「言わずもがな、諸君の大半が前線から着任した」
「前線の兵がどんな思いでいるか、よく知っている」
「つまらん意地で遅らせてどうする!」
「一日でも早く、兵が故郷の地を踏めるように」
「心して任務にあたれ。かかれ!」