7 対向方針
昭和16年11月7日金曜日、朝。首相官邸。
今朝は、コーヒーではなく、お茶が出された。テーブルの上に饅頭が盛られた盆が置かれる。朝からなんだと皆は思うが、豊田海相は真っ先に手を伸ばす。ばくばくと3つ4つも口に入れる。
閣僚懇談会は、ラムゼイ機関に関する続報から始まった。
「首謀者は独逸人のリヒャルト・ゾルゲ、日本側の首領は尾崎秀実、両人とも新聞記者です」
「ゾルゲがソ連赤軍より指令を受け、尾崎が昭和研究会で工作する」
「さらに、尾崎が収集した情報を、ゾルゲが整理してソ連へ送る」
「ソ連は、その情報を分析して、新しい指令を出す」
「そうやって、回していたようです」
「ゾルゲは駐日独逸大使に近く、尾崎は近衛前首相と親しい」
「「「・・・」」」
全員がお互いを見つめ合う。
昭和研究会は近衛前首相の肝いりで大きくなり、昨年、大政翼賛会へ発展解消となった。政府官衙の上層部・要人で、昭和研究会に無関係なものはいない。賀屋蔵相と湯浅内務次官は設立時の常任委員だった。
「帝国の外交・内政を特定の方向に誘導することが目的のようです」
「3つあるようです。1つは、ソ連への攻撃・圧力の防止ないし遅滞」
「「なるほど」」
「2つ、帝国と支那との交戦継続、および米英蘭との紛争または開戦」
「「おおっ」」
「3つ。帝国国体の社会主義・共産主義への変革」
「「なんと!」」
「善後策について協議したい。帝国はどうすべきか」
「「こくり」」
「まず、ラムゼイ機関の活動が10年を超えるということ」
「10年前と言えば、満州事変?」
「ゾルゲが上海に現れたということは、その受け入れ準備はさらに前」
「日支事変も、彼奴らの工作ですか?」
「あり得る」
「わからんが、一連の政変や事変はソ連の歓迎する処なのかも知れん」
「「ごくり」」
「ここ10年の帝国の政治や体制は、ソ連の望む方向であったと考えてほしい」
「「こくり」」
「その上で、3つの目的への対応策を考えたい」
「1つ、ソ連への攻撃・圧力の防止ないし遅滞」
「帝国の直接脅威を減らすということでしょう」
「ソ連の謀略としては当然ですな」
「これは、外務省と陸軍省にお任せしてよいのでは?」
「「うんうん」」
「2つ、帝国と支那との交戦継続、および米英蘭との紛争ないし開戦」
「間接防御、と言う意味ですか?」
「帝国の弱体化を狙うと」
「いや甘い。満州の占領と帝国の屈服を狙っているだろう」
「対米英戦を行ってる帝国の背後をぐさりと」
「なるほど。ソ連と言ってもロシアだ」
「朝鮮・樺太、千島・北海道も狙っている筈だ」
「陸軍はどうお考えです。その、北進を」
「「ごほんごほん」」
「賀屋さん。和戦の和に決したばかりです」
「ああ、これはどうも」
「今、帝国が対ソ開戦すれば、ソ連は対独講和をしてでも帝国へ全力を向ける」
「「ええっ」」
「だからこそ、対支講和、対米不戦です。帝国は守勢に徹する」
「ああ。つまり、ソ連の目的の逆ですな」
「「うんうん」」
「すでに外交方針は決しております」
「ただ、ソ連がこう考えていることは肝に銘じましょう」
「「こくり、こくり」」
「問題は三番目、内政に関することです」
「帝国国体の社会主義・共産主義への変革か」
「まさか」
「帝国の国体では革命は不可能かと存じますが?」
「いや、そうでもない」
「「??」」
「2つめと合わせて、帝国内を騒乱に持ち込めば。あるいは」
「「そうか!」」
「もともと、共産革命は、戦乱・内乱に乗じておこなうもの」
「レーニンがそう言ってますな」
「「げふんげふん」」
「いや、ここにおられる全員がマルクスやレーニンは読まれたはずだ」
「たしかに。若い時にアカにかぶれん奴はバカです」
「「げふん、げふんげふんっ」」
「実際のところ、今の帝国の統制経済は社会主義でしょう」
「「むむむ」」
「その、昭和研究会が誘導に成功したかどうかはともかく」
「問題は、これからどうするか」
「さきほどの定理によると、逆に行けばよい?」
「「うんうん」」
「賀屋蔵相。社会主義・共産主義の特徴はなんでしょう?」
「それは、首相。いろいろありますが、公平な分配、ですかな」
「今ここにある饅頭を均等に分配するということですな」
「「むむむ」」
全員が、盛りの減った盆を見つめた後、海相をにらむ。
「げふんげふん」
「饅頭自体は増えないし、大きくもならない?」
「それは生産性の問題であります」
「つまり、社会主義・共産主義では、分配が第一、増産は第二」
「「うんうん」」
「藤原商工相。饅頭自体を大きく増やすのが、資本主義ですか?」
「う~む。学理でいくと、生産のために資本を投入する」
「結果的に、生産も資本も大きくなる。それが資本主義の目的」
「国民の生活で言うと、どうなるかな?」
「そうですね。社会主義・共産主義は、下方平準化、下方平等化でしょうか?」
「首相。少なくとも米英の資本主義は、上方平準化を謳い文句にしている」
「資本がないと上方にはなれないから、ま、現実には中流最大化でしょうなあ」
「なるほど。欧米流では、生産増大を通して、中流が増え下層が減る」
「社会主義・共産主義では、上流を抹殺し、全員が下層、貧乏となる」
「上層・中流の蓄積が十分でなければ、そうなります」
「一億総貧乏!」
「「げふんげふん」」
「資本主義では、過渡期に上下の格差が拡大するのが問題です」
「多くの場合、上下の格差が固定します」
「しかし、帝国はその時代は過ぎただろう」
「いや。明治での克服は、昭和大恐慌で振り出しに戻ったと言える」
「実際に国民はどう思っているだろう?」
「下は、今の配給制や勤労動員を大歓迎です。上が落ちてくるだけですから」
「う~む。それは不健全な思考だな」
「みなさんもお気づきでしょう。上は嫌悪しています」
「それで、下は政府を支持してくれるのか?」
「どうでしょうか」
「「ごほんっ、ごほんっ」」
「衣食足りて礼節を知る。礼節を知らねば、道徳も向上心も何も始まらんよ」
「「たしかに」」
東條は、意見は出尽くしたと判断した。
「蔵相。帝国は、饅頭を増やしたいと思うが」
「国民総生産ですね。経済を拡大させる」
「やはり、資本主義に戻るしかないのか?」
「いや、首相。資本主義と自由経済はまた違います」
「おお、そうか」
「帝国の場合、慎重に緩やかに自由経済に戻れます。研究してあります」
「それならいいが、投機屋や整理屋のようなごろつきは御免です」
「監視と罰則を強化しましょう」
星野書記官長が時計を見て、声をかける。
「首相、閣議の時間を過ぎています」
「おお。これはいかん」
「蔵相、商工相、閣議の後に続きを」
「「はい」」