エッセイ・「チョコレートの思い出」
初めてチョコレートを食べたのは、凍えるほど寒い空港ででした。
幼稚園に上がる前、父の親友の相馬さんというおじさんが、よく家に遊びに来ていました。
相馬さんはよく絵本を持ってきてくれて、いつも読んでくれたものです。
「オズの魔法使い」、それから「青い鳥」が大好きで、そればっかりせがんでいたものですから、しまいには、わたしも空で朗読できるようになっていたほどです。
わたしにとって相馬さんは、もう一人の父でした。
「相馬さん、大好きっ」わたしがそう告白すると、
「そりゃあ、うれしいね」ニカッと笑ったあと、こう言いました。「愛されるのはいいものだ。だけど知ってるかな? 愛することはもっと素晴らしいってことを」
その言葉が今も忘れられません。
相馬さんはいつまでもずっと、わたしのために絵本を読んでくれる、そう信じていました。けれど、どんなことにも終わりがやってくるものです。
仕事の都合で、ヨーロッパへの転勤が決まりました。
父に連れられて、わたしは、相馬さんのお見送りに空港まで行きました。寒い季節でした。心も冷え冷えとして、つくづく身にこたえました。
相馬さんは分厚いコートを着込んで、いっそう背が高く見えたものです。
「すまないね。本を読んであげられるのは、しばらく先になりそうだよ」相馬さんはわたしを軽々と抱き上げました。「これからは、パパに読んでもらうといい。君のパパがあまり本を読まないのは知っている。ぼくからちゃんと言っておこう。だから、心配しなくてもいい」
けれど、相馬さんは相馬さん。父は父。どちらも大好きですけれど、2人にいて欲しかったのです。
「おやおや、その顔。泣く前にこれを食べてごらん――」わたしを下ろすと、コートのポケットから、黄色い包み紙の板チョコを取り出し、ポクッと折りました。
遠い南国の香りでした。ちょっぴり苦く、うんと甘い、思わず笑顔のこぼれてしまう、そんな味でした。
「これは予想なんだが、君はそうちょくちょくはチョコレートを食べられないと思うんだ。どこの親もそうだが、チョコレートは子どもの体に毒だと信じ込んでいるからねぇ。だけど、時々しか食べられないことは悪いことばかりではないよ。毎日食べていたら、チョコレートというものが、どんなにおいしいものかということを忘れてしまうだろう?」
相馬さんは、ハンカチでわたしの口の周りをごしごしと拭いてくれました。白いハン
カチが茶色く汚れてもおかまいなく、再び自分のポケットにしまいます。
「次に会うとき、君はだいぶ大きくなっているんだろうなぁ……」その目が一瞬、懐かしそうにわたしをとらえました。
相馬さんがゲートへ消えてしまったあと、わたしは父を見上げて尋ねました。
「相馬さんはいつ帰ってくるの?」
「あいつのことだ、忘れた頃にひょっこり戻ってくるよ」
「ほんと?」
「ああ」
「絶対?」
「ああ」
あれが、相馬さんの乗った飛行機だよ、そう教えられて、雲の間でかすんで見えなくなるまで、ふたりして空を眺め続けました。
思い出したように、ドイツ語で書かれた絵本が届くことがあります。相馬さんからです。
いまだにドイツ語はわかりませんけれど、なぜだかいつも、ほろ苦くて甘い、遠い南国の香りがしてくるのです。