PM8:57
フルネームは葉山ヒロと大川莉子です。
今更すぎてすみません。
彼女の瞳がその人を映して、頭の先からつま先まで移動する。
これが彼女の儀式だと気づいたのはいつだったんだろう。
***
「大川さん飲んでるーー⁉︎」
「は、はい‼︎」
「潰れても大丈夫だよ、今日は彼氏の葉山君が目を光らせてるからね‼︎」
サークル、という物に私は初めて参加している。
目の前には聞きなれない名前のお酒のグラス。
私の誕生日は八月なので、お酒が解禁となったのは先月だ。
まだ飲み慣れていないであろうお酒を口にするのはひどく緊張した。
もしかしたら記憶を無くす前の私はお酒を飲んでいたかもしれないが、今の私にとってこれは初の飲酒、一大イベントだ。
「莉子、無理しなくていいから」
目の前に座る葉山君がやはり優しく宥めるように言ってくれる。
「やだねやだねーヒロの王子様野郎」
「黙れ、カス」
葉山君は笑顔を崩すことなく隣に座る人に毒を吐いた。
こんな事も言う人なんだ、と新たな発見をしたようで少し楽しい。
隣の飯島君ーー先程自己紹介されたーーも酷い‼︎と喚きながらも、葉山君を名前で呼んでる上にからかっているのだから恐らく仲良しの人なんだろう。
「でも本当によかったよ、莉子ちゃん無事で」
「ほんとほんと!」
「テンション上がって無理矢理飲み会開催しちゃってごめんね」
「久しぶりの大学どうだった?」
サークルの人が口々に私に話しかけてくれるのがなんだかくすぐったい。
学食で話しかけられた時は思わず仰け反ったけれども、少し打ち解けた今はそれが妙に気恥ずかしくて、嬉しくて、何もないのに口元が緩む。
「サークル、すごく楽しい」
そう言った私を、葉山君はこちらが照れるほど優し気な笑顔で見つめた。
その笑顔に一瞬私だけじゃない、何人かが見惚れて、静かになる。
「は、はやまく、ん。何笑ってるの?」
「莉子が楽しそうで嬉しいんだよ」
そういうことをさらっと言ってのける葉山君は、実は最強なんじゃないだろうか。
「きゃーっお熱いですねぇ」
「飯島、うるさい黙ってお願い」
「嫌。この王子様野郎」
顔を真っ赤にしている私を置いてきぼりにして二人は楽しそうに言い合っている。
「二人はいつでもどこでもラブラブだね」
隣に座っている女の先輩が冷やかすように私を小突いた。
他人から言われるのは本当に照れてしまうので私は赤い顔を更に赤くする羽目になった。
「あ、電話だ」
葉山君が電話を片手に立ち上がる。
「誰から?」
なんとなく、流れで問いかけをする。
「んー先輩から」
「そっか、行ってらっしゃい」
騒がしい店内を縫うように出て行く葉山君を見送ると、ふと、気になった事を口にしたくなった。
お酒の勢いなのか、葉山君にも恥ずかしくて訊けなかった事を。
「あの…私たちってどうやって付き合ったのでしょうか…。葉山君にも訊きにくくて…」
「えーっと…どうだったっけ?二人とも照れてたのか上手く聞き出せなくってさぁ」
「そうなんですか…」
少し残念な気はするが、しょうがない。
照れる、なんていう理由で他の人に言えなかったのは「私」なのだから。
「あぁ、でも、堀ちゃんなら知ってるかも」
グラスの中身を飲み干した先輩が思いついたように瞳を開いた。
「ほりちゃん…?」
「あー、んっとね」
思い当たらない名前をただ子供のように復唱する私に、先輩はわかりやすい言葉を探してくれているようだった。
「堀ちゃんはね、葉山の幼馴染なんだよ。
莉子ちゃんも仲良かったから、もしかしたら詳しーく馴れ初めが聞けるかも」
ざわりと空気が揺れたのは、ニヤリと先輩が目を細めた時だった。
「あ!あれが堀ちゃん‼︎」
先輩の視線を辿ると、そこには小柄な可愛い人。
入学式の日に見た、美人な先輩だった。
ピンクのふわりとしたスカートに白い、襟付きのトップス。
おしゃれなのが服装関係に疎い私でもわかる。
隣に立っているのは葉山君で、まるでエスコートしているようだった。
嫌な予感が、した。
胸がざわりと動き出す。
ーー知っている。
私は、この光景を、知っている。
嫉妬、憎悪、羨望、執着。
真っ黒な感情を抱いて立ち尽くす「私」を私は知っている。
やめて、やめて、苦しいから、もうやめて。
誰かの声がする。
誰かの?ーー違う、間違いない私の、声。
「莉子?よかったぁ」
気がつくと、目の前には「堀ちゃん」のどアップ。
「え、っと、あ、はい」
息が上手く出来ない。
上ずった声をなんとか絞り出した。
「あ、そっか‼︎記憶がーー私は「堀ちゃん先輩」
先輩の嬉々とした可愛らしい声を遮ったのは、いつになく硬い葉山君の声。
射抜くような瞳の鋭さを彼に向けられたことに怯みながらも私は先輩に必死に微笑みかけた。
「あ、さっきお話を聞きました。「堀ちゃん」先輩ですよね?よろしくお願いします」
おずおずと言った感じで頭を少し下げた私を堀ちゃん先輩はいきなり抱きしめた。
「んんんー‼︎ぎこちない…さみしい…‼︎
でもしょうがないよね、無事でよかったよ。
また一緒にご飯行こうね」
優しい声とその手つきに、私は少しだけ落ち着きを取り戻した。
聞けば、堀ちゃん先輩は私に会うためにバイトを早く切り上げて来たと言う。
こんなにいい人なのに、私は何を恐れていたんだろう。
あまりにも葉山君とお似合いだったから、少し卑屈な気持ちになっていたのかーー?
そう、自分の中で結論を出そうと思うのに。
なぜか妙な胸騒ぎが完全に消えることはない。
目の前でこちらを心配そうに見ていた葉山君。
「莉子、もう帰ろう」
彼が私の腕を掴んだのは堀ちゃん先輩が来てから三十分程経った頃だった。
その切迫したような雰囲気に押されて頷く。
「えぇ…ヒロちゃんひどいよ…莉子今日主役なんだよ?」
「その主役を三十分も独占してるくせに」
「いいじゃん別に。ヒロちゃんはどうせ一日独占してるんでしょ?」
仲の良さそうな二人。
なのに、葉山君はどこか不機嫌そうだった。
苛立ったように私の腕を引く。
「帰るよ、莉子」
怒ったように、でも泣きそうに顔を歪める葉山君をどうしようもなく抱きしめたくなるのは何故だろうか。
私は、彼を守りたいと思ったのだ。
何から?ーー何からだろう。
堀ちゃん先輩の笑顔が、声が、頭を回る。
ヒロちゃん、と呼びかける彼女に向けた葉山君の苛立った視線。
あぁ、どうか、この悪い予感が外れますように。
私の胸騒ぎがただの勘違いでありますように。
無言で手を繋ぐ葉山君の手を強く握りしめながら、そう願った。
入学式の美人な先輩とは第二話でちらっと出てきたやつです