AM11:39
勇気がなかったのかもしれない。
ただ、照れくさかったのかもしれない。
けれどあの一言を言えていたなら。
何か、変わっていただろうか。
彼女はこんなにもーーー
***
クローゼットを開けて、私の好みとは違う洋服の山に驚いた。
私は全体的に落ち着いたカラーの洋服を好んでいたーーはず。
けれど、ハンガーに掛けられた洋服は暖色の、春のように華やかな色のふんわりとした可愛らしいものが多い。
「あー…私、こういうの着るようになってたんだ」
ふわりと揺れるスカートを恐る恐る指先でつまむ。
何かがおかしい。
そう思った時、ハンガーの洋服の下、ダンボールが一つ、所在なさ気に座っていた。
「なにこれ?春物の洋服…?」
ダンボールに手をかけ、ガムテープを引き剥がす。
二重に巻かれていたものの、粘着力のせいか、それはあっさりと剥がれた。
ダンボールから離れるその音はどこかさみしげ。
中身を開ける、とーー
「莉子、どうかした?」
思わずビクッと肩がすくんだ。
その反動で手に握っていたダンボールの開け口部分を離してしまう。
「葉山く、…なんでもないよ。何着ようかなって思ってたの」
自分でもわからないけれど、でも咄嗟に私は誤魔化した。
ダンボールの中身は確認できていないけれど、また後で確認すればいい。
今は、今はそれを開けてはいけない。脳裏にそんな警鐘が響く。
「…そう?ならいいんだ。ご飯出来たよ、食べよう」
「うん、行く行く」
葉山君がにこりと笑う。
私はそれに縋るような気持ちで、彼が差し出す手を握りしめた。
「どうしたの?…莉子が甘えるなんて珍しいね」
顔を少し赤くして笑う彼に、私まで赤くなる。
優しく手を握り返してくれる彼はどこからどう見ても素敵な人で。
胸がもやもやと動く。
でもそれは、ときめきだけじゃなくて微かな不安も混じっている。
ーーきっと私は葉山君が好きだったんだろう。
素敵な恋人だったんだろうと。
けれど、何か怖い。
「おい、莉子、大丈夫?」
「あ、うん」
いい匂いがキッチンから漂う。
「美味しそうな匂いがするね。ご飯、パジャマのままでもいい?」
「だろー?張り切ってみたんだ。いいよ、もう着替えるの面倒だろうし」
嬉しそうに笑う葉山君。
それを見て思う。
ーー私はきっと、彼に恋をするだろう。
それは予感じゃなく、確信だった。
記憶をなくした私も、取り戻した私も、きっと彼が好きなのだ。
だからこそ私は取り戻したい。
葉山君との思い出を、ちゃんと。
彼とどこを歩いて、彼とどんな話をして、彼とどんな風に触れ合ったのか。
「ねぇ、葉山君。私ちゃんと思い出すから、待っててね」
私は葉山君が喜んでくれると思っていた。
笑ってくれると。
でも、葉山君はとても真剣な目で曖昧に口元を緩めた。
冷たい掌を首筋に押し当てられたように、背筋が凍えた。
「無理しなくていいんだよ。思い出せなくても、いいんだよ、莉子」
そう笑う彼はまるで息が出来ないように、苦しそうだった。
口元が機械的な音を立てて弧を描く。
カチリカチリと時計の針が責め立てるように静かに動いた。
それはまるで毒のように、じわりと私たちの首を絞めた。
「葉山、くん、」
ようやく唇から零れた声は掠れて、歪で、現実から消えていくようだった。