はじまりの日 2
ぴかぴかに磨きあげられた板張りの床に正座して、正面に座るソレを見据える。
ソレは、小首を傾げて呟いた。
「……さて、何から話そうかの」
聞きたいことは山ほどある。ありすぎて、何から聞けばいいかわからないくらいだ。
そもそもあたしは外で意識を失ったはずなのに、気がついたら布団に寝かされていたのだ。誰かが運んでくれたのは確かなのだが、ここがどこなのか、誰が運んでくれたのかがわからなければ、感謝すらできない。だからこれはひとまず置いて、先に状況を把握したかった。
そうして散々悩んで、おそるおそる口を開く。
「……どうして、あたしの名前を知ってるの?」
「ふっ、落命しかけたというのに、随分呑気な事を聞く。見掛けによらず豪胆な娘よの」
「あんたが味方かどうかもわからないんだから、ハッキリさせておきたいだけよ」
膝の上に乗せた拳を握りしめる。
ああは言ったものの、落ち着いてみれば、この人から悪い感じがしないことはすぐにわかった。とはいえ、理由もわからず一方的に名前を知られているのは気持ちが悪い。得体が知れないのもあり、疑問に答えてもらうまで警戒を解くわけにはいかなかった。
「成程。……ふむ、そうさな。御主は、風宮神社の娘に相違ないな?」
鋭い音を立てて息を呑む。
冷たい汗が背中を伝った。
「父は鷲治、母は雛子、兄は隼人。そして、御主は千鶴」
「なん、で……」
家族の名前まで言い当てられては、もう疑いようがない。
コレは、あたしを知っている。
「どうして、知ってるの……。何なのよ、あんた……!」
半ば無意識に、震える声で呟いていた。
知られているなら、それはもうどうしようもない。諦めるしかない。だが、理由くらいは知りたかった。どうしてあたしを、あたしのことを、知っているのか。
「御主、神社とは何か知っておるな?」
答えの代わりに、全く関係ない質問をされてしまった。あたしの質問はどうなったのかと思わず怒鳴り返しそうになったが、赤い瞳は真剣だった。
どうやらふざけているわけではないらしい。
大きく息を吐いて、頷いた。
「……神様を祀るところでしょ。神社の娘が知らないわけないじゃない」
神の存在を信じているかどうかはともかく、神社とはそういうものだ。
質問の意図がわからず困惑していると、次の質問がきた。
「間違ってはおらぬな。役割は他にあるがの。……まあよい。では、風宮神社は何の神を祀っておる?」
「何って……神様なんて、どこの神社も似たようなものじゃないの? 厄除けとか、安産祈願とか、交通安全とか、五穀豊饒とか……」
指折り数えながら、神社で売っているお守りの効果を挙げていく。商売の神様や縁結びの神様といったわかりやすい特徴があれば別だが、神社で扱うお守りの種類は、多少の差はあってもどこも大体同じものだ。
風宮の神様は生活に関わることに強いらしく、お守りの品揃えもその傾向がある。
真面目に数えていると、ソレは目を丸くして小さく噴き出した。
「はは! 確かに、それらも神の力には違いあるまいな」
そう言って、顎に右手を添えてくつくつと笑っている。
何かと聞かれたから答えたのに、こう笑われるとさすがに頭にくる。
「そう睨むな。私の問い方が悪かったのだ。御主がそう答えるのも無理はない。許せ」
言葉こそ謝罪だが、口調や態度がやたら偉そうで、とても謝っているようには見えなかった。
背筋を伸ばして正座している姿やちょっとした仕草は自然な優雅さで、確かに威厳を感じなくもない。異様だった足は、今はふわりと広がった腰布に隠れている。
不思議なもので、姿形は人間でも、その一部が違っていれば化け物に見える。
だからこそ、何者なのかを知りたいのだ。わけがわからないまま震えるしかない状況を、一刻も早く変えたかった。
痺れを切らして口を開く。しかし、声を出そうとした瞬間に、ソレは開いた右手を前に突き出した。
「まあ待て。次で終いだ」
「……なによ」
「祀っている神の名は、知っておるか」
「神様の名前……?」
言われてみれば、神を祀っていることは知っていても、名前となるとはっきりとは覚えていなかった。何度か父が言っていたのを聞いたことがあるはずなのだが、興味がなかったので真面目に聞いていなかったのだ。
それほど長い名前ではなかった気がする。風宮という姓も、神の名にちなんでいるとも聞いた。ということは、風という字が入っている確率は高そうだ。
僅かな記憶を手がかりに暫く記憶を辿る。しかしどれだけ考えても、それ以上は何も思い出せなかった。諦めて素直に答える。
「……風っぽい名前だった、ような気がする……」
「ほう……神などおらぬと言う娘が、断片的とはいえよう覚えておったな。……そう。風宮神社が祀る神の名は、風鳴命。……私の名よ」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
硬直したまま頭の中で何度も反芻してようやく理解はしたが、今度は言ってる意味がわからない。
「……は?」
やっとのことで絞り出した声は、なんとも間抜けな響きだった。目と口をぽかんと開けたまま、ソレを見つめる。
「なに、言って……」
「真の名は弦羽というのだがな。御主ら人間には、そう伝えておる」
「そ、そうじゃなくて! それって……風鳴命って、うちの神社の神様の名前なんでしょ? なのにそれが、あんたの名前って……だって、それじゃあ……」
目の前のこいつが、神様だというのか。
そんな馬鹿な。だって神様なんて、いるかどうかもわからない――はっきり言ってしまえば、架空の存在のはずなのだ。今まで一度も見たことなんてなかったし、お兄ちゃんも両親も、亡くなった祖父母ですら、姿を見たことはないと言っていた。
きっと同姓同名の人なのだろう。変わった名前ではあるが、日本は広いのだ。聞いたこともないような名前の人がいても何もおかしなことはない。
そうだ。神など、存在しているわけがない。
……それじゃあ、あの羽と耳と足は?
口元を覆う耳のあたりから生えた真っ白な羽は、ああいう形のマスクもあるのかもしれない。そう思えばまだ理解はできる。だが、あの鳥のような足と背中の羽は、どんな言い訳も通用しないものだった。あんな形の義足を作るなど悪趣味極まりないし、気高そうなこの生き物が、こんな悪趣味なものを身につけるとも思えなかった。
それに、あの羽。
黒い靄から助けてくれた時、あの羽が羽ばたいて身体が宙に浮いていたのを、確かにこの目で見たのだ。少なくとも、あの羽だけは本物だと認めるしかなかった。
だが、羽を持つ人間など聞いたことがない。ということはつまり、人間ではないと、そういうことなのだろうか。
激しい動機を抑えるように深呼吸して、じっと自称“神様”を見つめる。
小柄な身体を包むゆったりとした衣服と長い睫毛からふわふわとした可愛らしい印象を受けるのだが、目だけが違っていた。あれほどまでに強い意志を秘めたような、穏やかながら力強い目は見たことがない。あんな目で嘘がつけるとしたら、その人は相当な詐欺師だろう。
そこまで考えてもまだ半信半疑なのだが、もし本当に神様なのだとしたら、確かにあたしや家族の名前を知っていてもおかしくはない。
「まだ信じられぬようだな。……まあ、現世の人間にいきなり信じろと言うのも酷な話ではあるがの」
弦羽と名乗った自称“神様”が苦笑して肩を竦める。
その言葉に、聞き慣れないものがあった。
「うつしよ……?」
「うむ。現の世と書いて、現世と読む。此方ではな、御主らの世界をそう呼んでおるのだ」
なんとなく引っかかる言い方に怪訝な顔になる。そんなあたしには構わず、“神様”は続けた。
「そして、我ら神々の世界……今御主が居るこの世界は、神世といってな。神世は現世と表裏一体の存在なのだ。とはいえ、理は全く異なるがな。御主は……何の手違いかは解らぬが、神世に迷い込んでしまったらしいの」
「まっ……待って、ちょっと待って」
“神様”がまたわけのわからないことを言い始める。完全に混乱してしまっていて、何を言われているのかさっぱりわからない。頭が痛くなってきた。
こめかみを押さえて痛みに堪えるあたしを、“神様”は苦笑しっぱなしで眺めている。
笑ってる暇があるならわかりやすく説明しろと切実に思うのだが、それを口にするには少し冷静さが不足していた。混乱しきった頭の中を整理するのに精一杯で、落ち着いて言葉を紡ぐ余裕なんてなかったのだ。
いきなり「ここは異世界です」と言われても、はいそうですかと信じられるわけがない。でも確かに、あの黒い靄が現れてから、おかしなことばかり起きた。もし本当にここが異世界なのだとしたら、不可解な出来事にも納得がいく。
……だとしたら、ここはあたしの世界じゃないって、一体どういうことなのだろう。
あたしはプリントを探しに少し鎮守の森に入っただけで、特別何かをしたというわけじゃない。なのに、気付いたらあの黒い靄に追い掛けられていた。
確かに鎮守の森に入るなとはずっと言われていたけど、だからといって入っただけでこんな異常事態になっていたら、もっとニュースになっていないとおかしい。でもそんな話は聞いたこともない。
唯一心当たりがあるとしたら、それは――
「神隠し……?」
体が震える。
自分を抱きしめるように両腕を掴んで、俯く。
また恐怖が込み上げてきて、視界が滲んだ。
「千鶴」
名前を呼ばれる。
でも、顔を上げることはできなかった。
――不意に、頭に温かいものが触れる。
驚いて顔を上げると、目の前に“神様”がいた。
目を合わせるようにしゃがみ込んで、あたしの頭を撫でながら、ふわりと微笑んでいる。そうして諭すように、“神様”はゆっくりと話し始めた。
「千鶴。御主は、御主の目で見たものを信じればよい。私や他人の言葉は信じられずとも、実際にその目で確かめた事は紛れも無い事実。だから信用する。今までそうして生きてきたのだろう? ……それでよい。此処が何処で、どういった場所なのか。自分の身に何が起きたのか。納得がいくまで調べるがよい」
穏やかな声で紡がれる言葉の一つ一つが、心に染みていった。
さすが、神を自称するだけあって、その声も言葉も不思議な説得力があった。不覚にも素直に受け入れてしまったくらいだ。
そうだ。悲観的になるのはまだ早い。
こんな得体の知れない自称“神様”の言葉を鵜呑みにするなんて、我ながらどうかしていた。
わからないなら、確かめればいい。
そんな簡単なことを忘れていた自分がおかしくて、思わず笑ってしまった。
「泣いたり笑ったり忙しい娘よの」
「うるさい」
呆れたように肩を竦める“神様”に強気に笑って答えると、“神様”の笑みは柔らかいものから不敵なものへと変わった。
「千鶴、助言が欲しくばいつでも来い。御主にとっては不服かもしれぬが……なに、困った時の神頼みと言うであろう?」
「あんた、神様のくせに自分でそれを言うの?」
「神だからこそ言うのだ。人間の都合に振り回されるのも、神の仕事よ」
心なしか自嘲気味にそう言って“神様”は立ち上がり、首から何かを外してあたしに差し出した。
「御主にこれをやろう」
受け取りはせず、まじまじとそれを見つめて首を傾げる。
「……鏡?」
「霊鏡といってな。まあ、お守りだと思えばよい」
小さな掌に収まる程度の小さな鏡だった。お守りとは馴染みがあるし、あって損があるわけでもないので、素直に礼を言って受け取った。
「さあ、何はともあれ、一先ず腹拵えだ。腹が減っては戦は出来ぬと言うであろう」
「あたしも、いいの?」
「心配せずとも、御主の分も用意させておる。腹が満ちれば少しは落ち着くであろう。遠慮なく食え」
そう言って快活に笑う“神様”を追って、一緒に部屋を出た。
結局何も解決していないが、このままうじうじしていても何も変わらない。だったら“神様”の言う通り、納得いくまで調べればいいのだ。
そう決心したからか、胸のもやもやはすっかり晴れていた。