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神世異聞  作者: 水谷涼子
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風宮編 一章 はじまりの日 1

 小さい頃は、友達とよく鬼ごっこをしていた。広い境内で、笑い声を上げながら鬼から逃げ回ったものだ。


 ……けれど、こんなに必死に逃げるのは生まれて初めてだ。

 それでも、止まるわけにはいかない。

 『鬼』に捕まれば――おそらく。




「やだやだやだ、なにこれえっ!?」


 振り向く余裕すらなく、息を切らして全力で逃げ回っていたのだが、中学に上がってから体育の授業でしかまともに運動していない身体が限界を訴えるのは、案の定早かった。

 足がもつれて、短い悲鳴を上げて派手に転倒する。しかし同時に頭上を黒い腕のようなものが鋭い音を立てて横薙ぎに過ぎていった。上手く避けられたらしい。膝は痛いが、結果オーライだ。

 だが、こんなに執拗に追い回されたのだ。これで終わるはずがない。それはわかっている。だからすぐに立とうとしたのだが、どうしても足がいうことをきかない。

 四つん這いのまま、それでもじたばたともがいてはいたが、逃げるスピードは格段に落ちる。

 激しい焦燥感ばかりが募る。


 ――ふと、影が落ちた。

 恐る恐る振り返る。

 あたしのすぐ後ろに、三メートルほどの人のような形の黒い(もや)の塊が、低い唸り声を上げながら腕を振り上げていた。


 何なのよ、これ。

 こんなわけのわからないまま、あたしは死ぬの?

 ……冗談じゃない。

 あたしの人生はまだまだこれからなんだから、こんなところで死にたくない。 死んでたまるか!


 せめてもの抵抗に、手元の砂利を掴んで思い切り投げつける。少しでも怯んでくれたら、その隙を突いて再び走り出すつもりだった。

 しかし、僅かな希望はすぐに砕けた。砂利は無情にも靄をすり抜けていったのだ。

 怯むどころか当たりもしないなんて滅茶苦茶だ。悔しくて涙が浮かぶ。

 唇を噛み締め、靄を睨みつけて、必死に頭を働かせる。

 けれど、この極限の状態で、まともな思考などできるわけがなかった。浮かぶことはどれも支離滅裂で、話にならない。


 何か、何か方法はないの?

 ……それともあたしは、本当に、こんなところで……――


 鋭く空を裂く音が響く。

 これで終わりなのだという絶望感に抗えず、拳を握り締めてきつく目を閉じた。


 お父さん、お母さん、お兄ちゃん。

 言いつけを破ってしまってごめんなさい。

 そのせいで、あたしは……

 ……何のお別れもできなくて、ごめんなさい。


 様々な感情や思い出が、一瞬で頭を駆け巡った。

 きっとこれが、走馬灯というものなんだろう。


 ……けれど、不本意ながらもせっかく覚悟を決めたというのに、いつまで立っても衝撃はこなかった。

 不思議に思って、そっと目を開ける。


 振り上げられた靄の黒い腕に、真っ白な羽根が突き刺さっていた。


 何が起こったかわからず呆然としていると、先程と同じ鋭い風音が走る。その直後、羽根は靄の頭と胴体の中心を貫いていた。

 よく見ると、どうやら羽根は、真っ赤な矢の矢羽のようだ。


 ……その矢に、なんだか見覚えがある気がした。


 三本の矢に射られた黒い靄は白く淡い光へ徐々に姿を変え、やがて消えていった。


 何が何やらさっぱりわからない。ただ、靄を光へ変えた矢が地面に残されているのを、呆然と眺めるしかなかった。


「……間に合うたか」


 不意に聞こえた声に思わず悲鳴を上げそうになったが、かろうじて噛み殺して振り返る。

 矢と同じ真っ赤な弓を構えた小さな人影が立っていた。


「やれやれ……逢魔ヶ刻に村から出てはならぬと言うておろう。我らとて万能ではないのだ。見つけられねば護ってやれぬぞ」


 そう言いながら茂みの中から現れた姿を見て、鋭く息を飲んだ。その姿が、あまりにも異様だったのだ。

 紺色の巫女服のような上着を赤い腰紐で締め、黄色い風呂敷を肩から斜めに掛けて結び、腰から下は足元に向かって薄いピンクになった、柔らかそうな布を重ねたスカートのようなものを穿いている。

 そこまではいい。確かに変わった格好だが、そういう趣味の人がいてもおかしくはない。

 だが、問題は服装ではないのだ。

 耳があるべきところから真っ白な羽が伸び、折り重なるように口元を隠している。それだけではない。背中にも同じ真っ白な翼が見える。その翼が羽ばたいて、小さな身体が宙に浮かんでいた。極めつけは、その足だ。どう見ても人間のものではない。

 そう……あれはまるで、鳥の足だ。


「なっ、何なのよあんた……!」


 次から次へとわけのわからないものばかりが現れて、頭がおかしくなりそうだった。

 そんなあたしをよそに、ソレはあたしと目が合った瞬間、驚いたように目を見開いた。


「……千鶴?」

「……え?」


 一瞬、何を言われたのか、わからなかった。


「やはり……。千鶴、何故(なにゆえ)御主が此方(こなた)へ――」

「ちょっ……ちょっと待ってよ……」


 勝手に納得して話を進めるソレを慌てて止める。

 黒い靄に追われていた時とは別の意味で、酷い恐怖を感じた。冷や汗が止まらない。

 あたしは、こんな変なのに会ったことなんか一度もない。聞いたこともない。

 なのに……


「なんで……あたしの名前、知ってるのよ……!」


 絞り出すように発した声が震えていた。

 初対面の相手に、しかもこんな得体の知れないものに一方的に名を知られていることが、こんなに恐ろしいことだったのかと痛感する。

 こちらは何も知らないのに、何もかも見透かされた気さえする。不気味でしょうがなかった。

 恐怖に青ざめるあたしの顔をまじまじと見つめるソレは、微笑むように目を細め、腕を組んで小首を傾げた。


「何故もなにも、私は――」

 言葉が途切れる。

 ソレは一瞬で別人かと思うほどの鋭い視線を右に逸らしていた。

 つられて、ゆっくりと同じ方を向く。

 茂みの向こう側に、黒い靄が何かを形作るようにざわざわと蠢いていた。


「なっ、またあの靄!? あーもう、さっきから何なのよあんたたちは!」

「仔細は後ぞ。――藍那!」

 靄を睨みつけたまま振り返りもせず言い放って、ソレは自分と同じくらいの大きさの弓を引く。

 勝手なことを、と言い返そうと開いた口は、突然背後から聞こえた穏やかな声に遮られた。

 驚いて振り向くと、見知らぬ女の人が立っていた。 一体いつの間に現れたのだろう。

 さっきから驚いてばかりで、そろそろ頭がおかしくなりそうだ。


「何でしょう」

「もうじき日が暮れる。藍那、その娘を連れて社に戻れ」


 言葉と同時に飛び出した矢が、靄を正確に射貫いた。

 集まりかけた靄が散って光になるのを横目に見ながらどうにか立ち上がり、スカートと膝に付いた土を払う。

 いつまでも腰を抜かしている場合ではなかったし、なにより、意味不明で勝手なことばかり言うこの変なやつに、いつまでも無様な格好を晒していたくなかった。

 立て続けにわけがからないことばかり起きているせいで、段々恐怖より苛立ちが勝ってきた。一言文句を言ってやらないと気が済まない。


「この程度、御主一人で事足りるがの。……その娘は、今は人間の方が良い。頼むぞ」

「はい」

「ちょっと!」


 どうやら、当事者をほったらかしたまま話はまとまったようだ。

 いい加減説明しろと文句を言うために一歩踏み出す。しかし、タイミング良く女の人に袖を掴まれたせいで、それ以上あいつに近寄ることはできなかった。


「後だと言うておろう。なに、其奴は無害ゆえ、安心せい」

「そんなこと聞いてない! 大体、知らない人にはいそうですかってついていくわけないでしょ? ちゃんと説明してよ!」


 怒鳴りつけるように訊ねる。

 そんなあたしをちらりと見て、ソレは呆れたように溜息を吐いた。その反応にさらに苛立ちが募る。


「話がわからぬ奴よの。ならば、望み通り教えてやろう。……此処は、御主の世界ではない」

「……は?」


 つい、間抜けな声が出てしまった。

 予想だにしない答えに、ついに頭が考えることをやめたようだ。

 何か言おうにも何も浮かばす、無意味に口をぱくぱくさせる。まるで説明という餌を求める魚のようだと、くだらない考えばかりが浮かんでは消えていった。


「藍那」

「はい。さ、行きましょう」


 気付けば、藍那と呼ばれていた女の人に手を引っ張られて歩き出していた。

 相変わらず何もわからないままだが、きっとこの人に聞いてもまともに答えてはもらえないのだろうなと思った。

 我慢しきれず、溜息を吐く。

 その途端、一気に疲れが押し寄せてきた。

 この短時間に、いろんなことがありすぎたのだ。今まで緊張しっぱなしで気付かなかったが、一度自覚してしまうと、もうだめだった。


 手を引かれた先に赤い鳥居が見えたところで、あたしは気を失ってしまった。


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