特になんでもない一日
(…きて…………)
声が…聞こえる……。
(お……て………お…がい)
この声は…嗚呼、忘れるはずもない。
(お願い…起きて…………!)
あいつの…声だ……。
「起きて…! 兄さん…!」
眼が、覚めた。
「…………おはよう」
そう言って俺は身体を起こす。
「…うん、おはよう…!」
そう言って少女はぎゅっと抱きついてきた。
目の前で俺に抱きつく少女は今日から中学1年生になる、一つ下の俺の妹だ。
髪型はボブカットでほとんど表情を動かすことなく、普段から冷めた目や発言をよくしているため周囲からはクールな印象を受けてはいるが、本当は甘えん坊な困った奴。
「……状況は?」
俺は聞かなければならない。既に手遅れだとしても。
そっと妹の身体を離す。妹は少し残念そうな表情をしたが、すぐにいつもの無表情に戻った。
「今は…………」
妹は言い淀む。どうやら予想通り手遅れらしい。俺の勘はこういうときばかり当たりやがる
俺は妹をじっと見つめ続きを促す。すでに覚悟は出来ていた。
「今は…午前8時…20分……。朝食は…………もう、冷めてる」
……やはり、か。
「はっ…、ざまぁねえな…。折角の新学期にこれ、か…。まあ自業自得って奴だな。普段から規則正しい生活してないからこうなる訳だ!」
これから待っている苦行。冷めて不味くなったトーストを咥えながら地獄のマラソンが始まることを思い泣きたくなる。
だが俺は努めて明るく振舞った。妹の前で醜態を晒すなんて兄としてしてはいけない事だ。なにがあっても。
「大丈夫。お父さんもお母さんも…、待ってくれてるから」
妹も微かにだが笑ってくれた。兄の矜持という物をよくわかってくれている、良くできた妹だ。
「そうだな。さっさと二人のところに行って朝食…を……」
そこまで言って俺は気づいた。
気づいて…しまった……。
「妹……。お前、“学校はどうした”」
ああ、そうだ。彼女はここに居てはいけないはずなのだ。
小学六年生から中学一年生に。大人の階段を一つ踏みしめる、その大事な儀式がもうすぐ始まろうとしているのに…。
何故…まだここにいる。
「……私も、寝坊しちゃったんだ」
嗚呼、なんて…、なんて馬鹿なことをしてしまったんだ、俺は……!
妹は昨日言っていたじゃないか…! “俺と一緒に登校する”って…!
だというのに俺は昨日、浮かれて、夜更かしして。その結果がこの有様だ。
俺は一生この咎を背負うことになるだろう。大事な妹の入学式に遅刻させるという咎を。
だが甘んじて受けよう。これは俺の自業自得。
俺だけの罰だ…!
「行こう、兄さん。お母さん達が待ってる」
「ああ、そうだな。早く行かないとな」
そっと妹から顔を背ける
彼女に会わせる顔がなかった。
本当に、良く出来た妹だ。……俺にはもったいないくらいの。
「遅い! 貴様、何をしていた!」
居間に入ってからの第一声がそれだった。
声を上げたのは最近お肌の曲がり角を気にし始めた母。妹の眼は母譲りだと一目でわかるくらい冷たい眼光を今は厳しく吊り上げて怒鳴る。
母は過去に自衛隊に所属していたらしい。興奮するとその頃の口調に戻ってしまう癖がある。
「妹はお前を待っていたのだぞ! 朝食も食べずに! それを…それをお前は…!」
うるせえ! と反論し二秒で地に叩き伏せられるのがいつもの光景だ。だが今の俺は反論も反抗もしない。
これは俺の罰であり責務、背負いし十字架。それに押しつぶされることで少しでも妹の気が晴れるなら、と。
だが…
「お母さん、落ち着いて。私は大丈夫だよ」
「妹…、だがっ! …………ううん、ごめんなさい。お母さんが悪かったわ」
わかってはいた。妹は止めるだろうと。
妹は始めから俺を恨んでなんかいない。とっくの昔に許しているんだ…。
そうして俺の十字架はさらに重くなる。妹の優しさで。
だがこれでいい。
そうでなければ俺は強くなれない。この咎の重さを、いつか強さに変えるのだ。
そう。罪を背負い、俺は強くなる…!
「妹の言うとおりだな。少し落ち着くんだ妻よ。今更どうこう言っても仕方あるまい」
母の声とはまた違う厳格さを持った声が居間に響く。
「朝食の用意は出来ているんだ。……お前のやるべきことはわかっているだろう、息子よ」
少々草臥れた風体。しかし、威厳の感じ取れる様相。温和でありながら確かな意志を持った眼をした男。
あの母にベタ惚れというM疑惑のある我が父だ。
「親父……」
「お父さん…」
「行ってこい。今日という日はお前達の記念日になる。自分を信じて…、走るんだ。…私たちも後から行こう」
俺達は皿の上の冷めたトーストを手にする。
準備はとっくに出来ていた。ならば父の言うとおり、やるべきことはわかっている。
「「行ってきます!!」」
俺達は玄関を飛び出し走り出す。
何故だかいつもより体が軽い気がした。
「大丈夫かしらね、あの子達は…」
「大丈夫さ。なんせあの子達は…、私達の子だ。そうだろう?」
「…フフッ。ええ、そうね」
俺達は走る。たとえ幾つもの罪と罰を重ねても、その先には希望があると信じて。
世界は厳しく……、そしてこんなにも優しいのだから。
そうして俺達は見事…………
学校に遅刻した。
ついでに式の途中に貧血で倒れた。皆も夜更かしはやめよう。
続くかどうか不明




