思い返せばあの日がきっと
「……っクソ……!!」
荒れた息の隙間から無意識の悪態が漏れた。それを品が無いなどと批判する感覚など、この場所に生きる誰も持ち合わせていない。
帝国が統治する社会の吹き溜まりのような裏通り。薄汚いと揶揄するしかないだろう冷たい小路に手足を投げ出すようにして少年は必死に息を整えようとした。
どう見積もっても十四、五歳程度。身体も出来上がりきっていないような年頃の彼の姿は見るも無惨なものだった。
治りかけた頃合いのものから真新しいものまで散らばる青あざと思われる痕、口の端は破れでもしたのか細く血がついている。お世辞にも上品とはいえない服やその手足、髪にはどことも表現できないくらい土埃にまみれていた。
そんなことを気にする余裕などとっくに無くしている表情は、野良猫のように暗く鋭い光を宿した瞳が全ての感情を表していた。
ふざけやがって、と続けて浮かんだ悪態は言葉にはならなかった。代わりに喉を灼くような息が何度も出ては戻る。息そのものにそんな熱があるはずはなかったが、出鱈目に走った代償だ。
こんな状況も決して初めてということはなかった。程度の差こそあるが日常茶飯事と言ってしまってもいい。今日は特別悪い状況だったかもしれないが。
簡単な理屈だ。真っ当に小綺麗な暮らしをしている人間は大勢の一部分でしかない。はみ出したその他は吹き溜まりから抜け出すことも容易ではなくその日を生きている。
そんな場所で暮らし育った子供は大概こうして形振り構ってはいられない。
何かを手にしたと思った途端に何かを奪われそうになって、発端が何だったのかいつの間にかわからなくなった殴り合いに揉まれていることなんて数えている方が下らないことだった。
怒りとも恨み辛みとも、どんな名前をつけることもできない感情が渦を巻いている。ぎりっと音がしそうなほどに歯咬みしてやり過ごした。
何故こんな、だなんて下らない疑問はとっくに棄てた。問いかけたところで答えは無い、こんな現状は変わらない。
こんな世界を造ってのうのうとしている帝国は、ずっとずっと上の方で―――
「俺たちのことなんて、ゴミ以下くらいにしか思ってないんだろ……」
薄暗くなりつつある空と、小路を囲う建物の隙間から遠景をぼんやりと、しかし睨みつけるように眺める。まるで階層のように造られた街並みがずっと向こうに広がって見える場所だった。
上から下を見下しているのはさぞやいい気分なのだろう。自分たちに関係がなければこんな現実のことなんて。
取り留めのないことばかりが浮かんでは消える。らしくなくこんな意味もないことを考えて。
あの場所へ行けたら、この国を、なんて。
どうしようも無いことを思うだけ無駄だ。
硬く冷たい地面に筋がいよいよ厳しくなってきた。体勢を変えようと慎重に身を捩った途端に生傷が悲鳴を上げた。
つられて無様な声を上げるようなことはしなかったが反射的に傷を押さえてうずくまる。その動きにも全身が痛みを訴えた。
どうにもならないことは経験則から知っている。手当てだなんて悠長な選択を持っている者など居ない、山を越えるまで耐えるしかない。せめて凍えるような季節でなくて良かった。
傷に耐えることで精一杯だった少年は、だからそれにも反応がやや遅れた。
辛うじて差し込んでいた薄明るさが小柄な形に遮られ、そうして彼はようやく間近まで近づいていた存在に気がついた。
億劫な首を動かしてそちらを窺う。
「だいじょうぶ?」
子ども。少年よりももっとずっと、ひょっとしたら少年の年齢の半分あるか無いかくらいの、
こんなに場違いな光景は見たことがないと思うような姿の少女だった。
「……何処から来た、お前」
こんな小綺麗に清楚な姿の子どもがこの界隈の出であるはずがない。少なくともいくつかは上の階層の、それも余程裕福な家の子どもだろう。
それが何故こんな場所に居て、それも彼に向かって話しかけて来たのか。
何にしても少女はここに居るべきではないし、彼としても関わり合いになりたくはなかった。世界の違いは厄介事の火種になると決まっている。
そんな彼の考えを知ってか知らずか少女はおよそ物怖じといったものをせずに彼にたたっと近寄った。威嚇すらも通用しないとは面倒な。
大人どころか彼の掌にも追いつかないような小さなそれがひたりと頬に添えられた。子どもの体温が温い。
「けが」
「……だからどうした」
「どうしたの?」
「関係あるか、失せろ」
こんな状況でなければ捨て置いて彼の方が立ち去っているところだ。しかしそれどころか振り払ってやることすらもできない。
面倒事に構ってはいられないと、彼を目に留めた誰かがいたとしても手を差し伸べることなどなかっただろう。そして彼が本調子だったならこんな少女に目を留められていても無視を決め込んだに違いない。
気に入らないが数奇な巡り合わせだ。
「汚れるぞ」
威嚇で追い払うのは無理とみた。何より彼にはそれ以上気を張って少女に相手する気力も無い。
何を思ったのかわかりもしない少女にされるがまま、ふと思いついた事実がぽろりと零れた。
「へいき」
やはり少女は彼の言葉では応えない。―――こんな風に、ひとの温もりに触れたのはいつぶりだっただろう。場違いにそんなことを思ったのは、やはり気がすり減っているからに違いない。
いたいのいたいのとんでいけー、と無垢に呟いて彼の頬を撫で続けていた少女に、どこか毒気を抜かれてしまった気がした。
不意にどこかに何かが詰まるような錯覚に襲われて、少女が現れるまで渦巻いていた激情はいつしか溶け出すように薄らいでしまったことに気づく。
「……お前みたいな奴が居たら、俺も……」
もう少し違った生き方ができたのだろうか。
手に入らないとわかっているものを羨むだなんてことは随分昔に諦めを知って諦め切った。そのはずだったのに。
今日は妙にらしくないことばかりを考える。
こんな風に、守るべきもの大切なものがあったら。
こんな温かさが手の届くものだったとしたら。
―――憧れがなかった訳では、ない。
不意に路地の向こう側に騒々しい声がざわめいた。言い争っている風ではないが、緊張の色が窺える男たちの声。
彼はまず最悪の状況を想像した。ここに居るべきでない少女の出自を簡単に予想して這い寄ってくるような人間は掃いて捨てるほどいる。
先ほどまであれほど邪険にも感じていたのに、いざそんな状況が間近に迫れば寝覚めが悪い。彼はそんな自身の感情の変化も含めてちっと舌打ちをした。
軋んで悲鳴を上げる体を無理矢理動かして少女を背中に庇う。彼の緊張が伝わったのか、少女も初めて怯えたような様子を見せた。
そのままやり過ごせたら一番良かった。けれど現実は希望をあざ笑うかのようにやってくる。
鈍い足音が迫って来たかと思うと、薄明かりを遮るように人影が彼と少女を覗き込んで見つけた。
小路で少女を背に庇ったところで気休めだ。こんな状態で何かに巻き込まれたら自分一人すら面倒を見られるかも怪しいのに。
彼はそれでも睨みつけるようにしていると、金属が鈍く擦れるような音と、数人分の足音が通りすがって立ち止まった。明らかに見つかった、と彼が険しい顔をしたのとほぼ同時で男たちの相好が崩れた。
……様、とやや焦りの混じる低い男の声。気を張っているのが精一杯で全部は聞き取れなかった。
たいちょ、と無邪気にはしゃいだような声が背後から聞こえて緊張が抜ける。
柄にもなく子どもを背中に庇うなんて。急な動きに体は当然ついて来られず、疲弊が限界に達した彼の意識は曖昧に闇に落ちた。
目覚めた先が見覚えの無い一室で、その時にもまた少女が彼を覗き込んでいて。何故だか妙に彼に懐くような様子を見せる屈託のない少女を全力で振り払うことも何故かできなくて。
彼は結局そのまま少女に拾われて、何だかんだで絆されていくのは、また別の話。
* * *
「……なーんてこともあったねぇ。あの頃のあなたが懐かしい」
「……後生ですから忘れて下さい」
少女だった彼女はそんなことを言いながら、少年だった青年を懐かしむようにからかうように振り返った。
長いようで過ぎてみればあっという間のようだった時間。結果的に変わっていないのはその目線の距離くらいのものだった。
今となってはそんな昔をまるで感じさせないような顔で澄ましている彼は何かをこらえるように微かに眉間に皺を寄せた。
そんな彼の反応そのものが楽しいのだろう彼女は切実な要求を笑顔で却下する。
「やだ! ていうか昔みたいな話し方してみてよ、矯正する前はあっちが素でしょ?」
「それこそ今さら無理です」
「えー、立て込み過ぎた仕事明けとたまに凄んでることあるじゃない。「あ?」って」
「そういった発言をなさらないようにと常々申し上げております。……第一何故そんなことまで……」
「秘密」
てへ、とわざとらしい笑顔ではぐらかした彼女にそれ以上食い下がることなど端から彼にはできない。こればかりは一方的に弱みを握られているとしか言えなかった。
そんな調子で普段から天真爛漫な振る舞いばかりの彼女の隣をそれでも離れない彼には淡く苦笑する選択肢しかなかった。
結局のところは、彼は彼女に滅法弱いし、甘い。
何だかんだと麗らかだった午後の陽射しは相変わらずだが、思えば遠い日常にやって来てしまったとも言える。
あまりに昔と違いすぎるから、時々こんな日々が夢のような気すらして。
その度に何度も記憶をなぞり返した。
何度も何度も、あの場所に行けたならと唇を噛んだあの頃を思い出した。
その結果が確かに今に繋がっていて―――
団長、と外から控えめに呼ぶ声に、彼は主に彼女にしか見せない表情を切り替えた。仕事用の顔だった。
呼ばわれて小声で話を聞くに、どうも不測の事態が生じたらしい。彼は彼女にそう断ろうとして振り返ると彼女はもう分かったように笑顔で小さく手を振っていた。
普段はああして愛嬌のあるわがままばかりで、けれどそんなところはいつだって聡い彼女だった。
「行ってらっしゃい、騎士団長」
帝国皇女の護衛騎士は、律儀な敬礼をしてから踵を返した。
Fin.