涙の代価は、幻想の終わり
彼女の片想いは長いこと実を結ばない。
周りが見ていてわかりやすい彼女の気持ちの在処を知らないのは皮肉にもきっと彼だけだ。ひとの機微に疎いという性質を今では仲間の誰にも諦められている彼だが、こんな時ばかりは張り倒してやりたいと息巻く場面も少なくはなかった。
それでも昔から変わらない距離にいる二人はもどかしいほど自然体だ。一人の気持ちをあれほど向けられておきながら、と思わせられることもあった。
だから。
彼が彼女の存在をそんな風に、この先も今までと変わらないのだと何の疑問もなく信じているのなら。そんな何の保障もない幻想を、無条件に信じているのだとしたら。
一度、取り返しがつかないほど後悔するような出来事に見舞われてみればいいのにと。
―――そんな風に話をしたのは、本当にこんなことを思ってのことでは、なかったのに。
* * *
峠越えをしている時だった。旅路にそんな険しい道のりが立ち塞がることは決して珍しくない。雑談の範囲の軽い文句を言い交わしながら傾斜の道を登り下りするのもよくあること。そもそも本当の意味で文句を垂れるようなら最初から誰もこの旅程に同行していない。
道中で魔物、あるいはその群れに出くわすのもよくあることだ。平野を進む時と比べ、その確率に差こそあれど。
状況によっては隠れて回避し、どうにもならない時には討伐することもやむを得ない。足場も見通しも悪いこんな場所での戦闘は避けられるなら避けたいものだったが。
そんな、多少の悪条件が重なった峠越え。それでもパーティの実力なら命や存続に関わるような危険な事態には陥らないはずだった。それは決して驕りや過信などではなく。
治癒術を頻回に行使しなくてもいい、それが何よりの証拠だと、得意分野が回復方面に寄っているルディは肌で知っていた。補佐的な意味合い以上に回復役の力が発揮される状況など、できることなら訪れない方がいい。
気を弛めていた訳ではなかった。前線組に何か不測の事態が起こればすぐに動けるようにと、少し距離を取った場所から戦闘の様子に意識を集中していた。
何かの影が頭上を素早く横切った―――そう思ってちらりと視線を遣るのと、何かにがくりと引きずられたのがほとんど同時だった。
肩の周辺を何かに捕らえられている感触。がくがくと揺さぶられながら足元が浮き沈みする。意識の端にばさばさと耳障りな音がした。思わず悲鳴が上がる。
半ばパニックになりながら音の元を見上げた。鳥獣型の魔物。
「ルディ、動くな!!」
声が聞こえたと思った途端に白と銀が閃いた。何かが斬り裂かれる音と断末魔がすぐ側で聞こえて、ぐらりと世界が傾いた。
嫌にゆっくりと流れる景色の中で伸びてきた手の主と目が合う。そんなに焦った表情をきっと初めて見た。
伸ばした手がこちらに届き、抱き締められたと思った瞬間に天地がひっくり返って上下がわからなくなる。今度こそ地から足が離れ、投げ出されたと思った時にはたまらずに目をぎゅっと閉じた。
* * *
ざぶんと太い音を本当に聞いたのかどうかわからない。冷たい、と思ったのと同時に、吸うことを忘れてしまっていた呼吸が途端に苦しくなった。口から入ってしまった水が邪魔をする。無意識に手で水を掻こうとして、何か別のものにぐっと引っ張られた。
視界が明るくなって、圧迫されていた呼吸が一気に楽になる。反射でげほげほと水を吐いた。
流れに翻弄されていたと思っていたのに、それだけではなかった。川べりに押し上げられ、ようやく我が身の状況を振り返る余裕が戻って来る。
寄り添うほどすぐ隣、同じように濡れ鼠のリーヤが倒れ伏したまま荒く呼吸を繰り返していた。
「リーヤ……ねぇ、ちょっと」
慌てて揺すり起こそうとして、途端にリーヤが表情に苦悶を浮かべてまた慌てて手を引っ込める。のろのろと瞼が上がって、泳いだ目線がルディを捉えた。
「……ああ、ルディ。怪我ないか……?」
「わ、わたしは……。じゃなくて! どこか痛めたの!?」
「いや、こんなの……しばらくしたらすぐ治るからさ」
眉尻の下がった無理な笑顔で何と説得力のない。ずぶ濡れだからわかりにくいが、脂汗が浮かんでいてもおかしくない様子だ。―――そんな風に言って、いつも後からひどいことにしていたじゃない。
掛けるべき言葉を選べないルディを後目に、リーヤは腕の力を使ってひどく緩慢に上体を起こした。ぐるりと辺りを見回して、最後に右手と左脇を確認して暗い息をつく。
「剣、落としたみたいだし……ここから上に戻るのも、ちょっと厳しいよな……」
つられたルディもおそらく元居た場所を見当で振り仰ぐ。目で見て確認できるならとっくに助けを求めているし、仲間たちからも手が伸びているはずだ。決して急斜面でも危険な岩場という訳でもないが、不利な姿勢で転がり落ちてよく命があったと思わずにいられない。
そんな状況で負ったリーヤの怪我の具合も。
「リーヤ、怪我見せて。どこ?」
「それより、どこかマシな場所に移動する方が先だ。……囲まれでもしたら、俺、今はまともに戦えない」
前後左右も頭上も開けた場所で二人だけ、しかもまともに動けないと言ったリーヤの言葉は深刻なだけに事実なのだろうと思わせた。確かに状況は悪すぎる。
脇にかろうじて残っていた鞘を引き抜いたリーヤがそれを剣のように振り回す真似をする。切れのある動作にはならなかった上に、どう考えても武器としては無理があった。無いよりはまし、そんな様子で不格好に鞘を握り締める。
ルディがいつ手を貸すか迷いながら見つめる中で立ち上がったリーヤは、一歩を踏み出そうとして踏み留まり、笑った。
「……悪い、ルディ、肩貸して」
無理して笑わないでよ、こんな時に。そのままぶつけてしまいたかった。
つらいならつらいって言ってよ、黙られたらわたしは何もできない。ずっと前から胸の内に留めていた思いを言葉にするのは、少なくとも今ではない。
せめてそんなことを言って困らせることだけはしたくない。結局口を噤んで肩を貸すことしかできることがなかった。
* * *
いくらかもしない場所に手頃な岩場のうろがあったのは幸運だった。洞窟なんて言葉は当て嵌まらないほんの窪みでしかないが、どの道リーヤがまともに長距離を移動できる状態ではなかった。
こんな場所でも木立ちの中に立ち往生するよりはよほどいいと、小雨が降り出して心の底からそう思った。
よくよく考えれば状況はかなり悪くなっているのだけれど。
「リーヤ、傷みせて」
「……大袈裟だな……」
「まともに歩けもしないで何言ってるの」
そこまで言って、リーヤは痛めたのが背中だとようやく白状した。服の水気を絞るついでだからと言い聞かせて素肌を診るが、目に見える怪我がある訳ではなかった。どちらかといえばひどい打撲のようだが、痛がり方からして骨に異常を来してはいないか。さすがにルディもそこまでの知識は持ち合わせていなかった。
いっそ裂傷の類いだったら治癒術が多少なりとも効いたのに。この状況ではほとんど無駄とわかっていたが、ルディはリーヤの背に向けて治癒術を使った。
この気温に素肌を晒しているよりは、冷たい上着でも無いよりはましだ。相変わらず億劫そうに袖を通したリーヤは背を庇いながら座り直した。
「……少し、楽になった。ありがとな」
きっと嘘でも本当でもない言葉だった。頷くことも否定することもできなくて、ルディは黙って首を横に振った。自身もできるだけ服の水気を払って冷たい岩場に腰を落ち着ける。
心なしか雨足が強まっているようにも思われた。
「みんな大丈夫かな……」
「少なくとも、俺たちより悪い状況には……なってないと思うけど」
「それはそうだけど。……火が起こせたら良かったのにね」
「ああ……本当だよな」
暖まることができる。野獣や魔物避けにもなるし、煙でこちらに気づいてくれるかもしれない。
この状況では無いものねだりもいいところだ。せめて火の魔術を扱えるなら話は違ったかもしれないが、二人揃ってそちらの方面には明るくない。
今後のために少し勉強しておいた方が良いかな、と冗談混じりで笑うと、どうせ途中で匙を投げるでしょと良く分かっているらしい返事があった。
* * *
波をもってやって来る痛みをぐっと堪えながら、ぽつぽつ行き来する会話が続いた。幸い小雨の向こうに何か危険な気配はしないが、この状況が長く続けばいつまでも安全とは限らない。
何よりこのまま体を冷やすばかりでは。ふとそのことを振り返り、リーヤは呼び掛けると同時に隣を見遣った。
それまではあった応えがない。膝と腕を抱え込んでぐっと握りしめた指が震えている。
「ルディ?」
慌てて窺おうとして激痛が走る。呻きながらやり過ごして、ようやく彼女に手を伸ばした。
驚くほどの冷たさにこちらの芯が冷えた。華奢な身体が逆らうでもなくこちらにぐらりと傾いて、それがなおさら深刻さを引き立てる。
「ルディ、おい!」
頭の中が一気に混乱した。どうしてもっと早く気づけなかった、どうすれば良かった、どうにもならなかった。
どうすればいい。
何かを思いつく前に腕の中に思い切り抱き締めた。何の足しにもならないと分かってしまう、だって自分の腕も同じくらい冷たい。それでもそうせずにはいられなかった。
どうしたらいい。何もできない。彼女を抱えて走れば何とかなるのならいくらでもそうする。けれどそれは絶対に状況を悪くすると分かってしまう上に、
立ち上がることもできなかった。
浅い息を繰り返す肩を小さく揺さぶると、ルディがようやく微かに身じろぎする。気がついたのかと一瞬安堵するが、何かを探して泳いだらしい目線が腕の中からこちらまで持ち上がらない。
諦めたようにことりと額が寄りかかる。
「リーヤ、ごめん……お礼、言ってなかったわよね……」
助けてくれてありがとう。それだけか細く言ったルディの身体からふっと力が抜ける。
雨音がざあっと強まった気がした。
ルディ、ともう星の数ほど呼んできた名前が口の中で掠れた。どうしてそれだけのことができない。腕の中の彼女が応えないのは、自分が名前を呼べないから。
そうだ、だっていつだって、すぐ側にはこの子が居て、名前を呼んで、呼ばれて。
そこまで考えて、呼ぶ声にこのまま彼女が二度と応えない未来が想像を掠めた。
愕然とした。体の芯がごっそりと抜け落ちる思いがした。
「ルディ……なぁ、ルディ」
腕の中で短く浅く息を繰り返す彼女を縋る思いで小さく揺さぶる。素人目にも顔色が悪くなっているのがわかる。こんな時に狼狽える以外に何もできないことを思い知って、これほど無力を感じたことはなかった。
疲労と状況が考えを悪い方向にばかり向かわせた。もし、彼女がこのまま―――
冷たい掌がほんのいたずらで肌を撫でていった、そんな悪い想像は、リーヤの思考を暗い孔へ、音もなく衝撃もなく突き落とした。
どこかから幼い少年の声が聞こえる。―――かあさんだって、ぼくのせいで。
ぼうっと揺らいだのか視界なのか思考なのかがもう曖昧だ。たまらずに抱き締めている彼女の存在だけに繋ぎとめられて、怒りたいのか叫び出したいのか泣き出したいのかもうわからない。
なあ、何かの罰なのか? 罰でないならどうして世界にこんな理不尽がある。
どうしてこんな目に遭わなくてはならない。この子が一体なにをした。
今までこの子を蔑ろにしたことなんて一度もないつもりだった、それでも大切にし足りなかったというなら、どうしてその罰は俺に当てない。どうして俺ではなくて俺の大事なものばかり。
わかったから。
この子がどれほど大切だったかも、今までそれに気づいていなかったことももう思い知ったから。
だから、もうこれ以上取り上げないでくれ―――
半ば朦朧とした意識の中で、リーヤは雨音の中に不規則に地面を踏みしめる音を聞いた。木立の中を強引に進んでいる葉擦れの音も。
この状況で野獣や魔物に襲われでもしたら。そんな緊張が疲労に染まった意識を叩き起こした。それでも立ち上がる気力どころか腕もまともに上がらない、そんな片腕に彼女をきつく抱き締め直すくらいしか。
守ってみせるなんて言葉の方が自分を鼻で笑うだろう。
近づく音を唇を噛む思いで睨みながら―――リーヤ、と焦りの色が見える声を聞いたと思った途端、手にした鞘がずしりと重さを増して腕を引きずった。
「リーヤ君、ルディ!」
張り詰めていた何かがぶつりと切れる音を聞いた。
ぼやける思考の中で仲間の声を聞き、伸びてきた手にされるがまま助け起こされる。きつく抱き締めていたルディを引き離されるが、無意識に抵抗しようとした自分が滑稽だ。そんな力も残っていなかったのでどうせ抵抗にも見えなかった。
仲間の手に彼女が助けられたのを見た後は、もう意識を保っていられなかった。
* * *
わかったから。
どれほど大切だったかも、今まで気づいていなかったことも。
もう思い知ったから。
もうそんな幻想に逃げて、甘えたりはしないから―――
* * *
気がついたのは温かさの中だった。起き抜けで滲んで見えた天井板の木目に焦点が合う。洗いざらしたシーツの肌触りは旅路の宿屋で馴染んだものによく似ている。
視線と首だけを動かして見た先に、同じようにベッドに寝かされた姿を見つけてほうっと息を深く吐いた。
だるく感じる体を起こしてベッドを抜け出す。何かきつく巻いてあるらしい胴が少し窮屈だったが、誰に咎められるでもなく数歩で反対側のベッドへたどり着く。枕元にあった椅子にすとんと腰を下ろすと、落ち着いた呼吸の寝顔がすぐ目の前だった。
手を伸ばしかけて、少し前までは何の躊躇いもなく伸ばした覚えのある手が触れる寸前で戸惑った。一拍の後にそっと頬に触れても、彼女は目を覚まさなかった。
柔らかいぬくもりに、どうしようもなく安堵した。
「……リーヤ?」
細く呼ばれて飛び上がる―――と、覚えのある辺りがじわりと痛みを主張した。声もなくのたうち回る思いで、やっとの思いで前を見る。
「……大丈夫?」
「ああ、起きるな起きるな。いや、ほんと……大丈夫だから……。それより、気分は? もういいのか?」
「うん、もう……。ここは?」
「宿屋かどこかかだと思うけど、俺もわからない」
何せ訊ける相手が誰もいない。怪我人ふたりを残していくとは思えないからすぐ近くにはいるはずだが、いま彼女から離れて探しに行こうとは露ほども思わなかった。
「でも良かった、無事で」
そんなことを言って笑うからたまらない。
俺の台詞だろ、それ。子供っぽい駄々に聞こえる気がしたので言わなかった。
「リーヤ?」
不思議そうに尋ねられて、ルディの言葉を聞いたまま黙ってしまっていたことに気がついた。今、一体どんな顔で笑っているのだろう。泣いているのかもしれない。
「……今さらだけどさ、俺、お前のこと大事なんだ。お前が無事でほんとに良かった」
思わず触れて確かめたくなってしまったほどに。
唐突な言葉をどう思っているだろう。そんな風に不安に思うより、言葉が零れる方が先に立った。
「このまま何かあったらどうしようって……馬鹿だよな、ルディが居なくなるなんて考えたこともなかったんだ、俺」
「……居なくなったことなんてなかったじゃない、私」
「居なくなるかもしれないって思ったんだ。……すっげぇ怖かった」
ひとりで過ごした夜よりも、初めて魔物に相対した時よりも、どんな鋭利な刃物よりも。
だって一度なくしたらもう戻って来ないことを知ってしまった。
「俺さ、お前に居て欲しいんだ。そりゃ、一日中とかそういうのとは違うけど……、でも、呼んでもお前が応えてくれないのが、すごくつらくて。ルディとずっと、何でもないこと話してたくて」
ああ、俺は馬鹿だからこんな時にもまどろっこしいことばかり言っている。溢れてしまいそうなこの感情は今になって抱いたものなんかじゃなかったはずだ、こんなことになってやっと自覚した。情けなくて温かくて涙が出る。
君が好きだと、今さら言ってもいいですか。