Ⅰ
帝国歴326年ハノーファー帝国は現皇帝フリードリヒ二世により軍に力を入れて勢力を伸ばして周辺諸国に脅威を与えている軍事国家に成長し、歴代皇帝の中でも最長の在位に就き絶頂期を謳歌していた。
そして、皇帝に忠実で最も信頼を受けているヴィッツレーベン侯爵の大邸宅では、主だった貴族が呼ばれ、盛大な夜会が執り行われていたのだが、この夜をきっかけに一人の可憐な女性の人生と帝国を揺るがす事変の幕開けでもあるのだった。
豪奢な大広間では、美しく着飾った貴族達が華やかに踊り、美酒を携え話し合う人々の熱気で満ち溢れており、優雅な宮廷音楽が響く中で突然不協和音が起こってしまう
ドン!
パッシャッ
「きゃあっ! 申し訳ありません。 直ぐに拭きますのでお許しを」
豪奢な金髪をきっちり後ろに流し、アイスブルーの鋭い目の美丈夫の軍服のズボンがグラスから零れた飲み物によって濡れてしまっていた。
黒い軍服を着て胸にある勲章は彼の武勲を物語っており、かなりの大貴族
そしてもう一人は、見事な赤い髪を持つうら若い女性だが、そん表情は悲壮に青褪めていた。
肩に誰かがぶつかり私の持っていたグラスから飲み物が零れ相手のズボンを濡らしてしまい急いで拭こうとするがその相手の顔を見て血の気が引いて固まってしまう私
「なんてみすぼらしい恰好だ、しかもその程度の容姿で我家の夜会に来るとは図々しい」
そんな私に、目の前の貴公子が蔑むように私を見て、容赦のない言葉を投げつける。
その後ろでは、彼の取り巻く美しいご令嬢達が、クスクスと残酷に忍び笑いを洩らすのを更に血の気が引く思いで聞く
「お目汚しをしてしまい、申し訳ありませんエルンスト・フォン・ヴィッツレーベン様」
私は震える体で急いで謝罪しその場を立ち去るが、足がもつれてよろけながらパーティーホールの外に出るべくテラスに向かう
久しぶりの夜会で浮かれすぎてしまい私は失態を犯してしまった。
あろう事か主催者のヴィッツレーベン侯爵の御嫡子であるエルンスト様にぶつかり、私の持っていた飲み物を掛けてしまったのだ。
ぶつかったと言うより、兄を待っていてボーッと突っ立っていると、エルンスト様が私の肩に接触してしまい、飲み物を彼のズボンに掛けてしまう。
運が悪かったとしか言いようがない
「あぁ… どうしよう… お兄様に類が及ばなければ良いのだけれど」
本来は名ばかりの男爵家の私達が、このような上位の貴族の夜会に招待などされないのだが、軍に所属する兄は戦争で武勲を立て、その能力を評価されてエルントス様の直属の軍総司令本部の末席ながら配属されたのだ。その流れでこの夜会に招待されたのだが
折角、兄が連れて来てくれたのに、兄の顔に泥を塗ってしまったと自然と涙が出て来てしまう
せめて、私の名など知らない事を願うしかない
このような社交の場に出るなど十五才の貴族女性のお披露目である王宮の夜会以来
今着ているドレスもその時の物で、流行から遅れているのは知っていたが、自分なりにアレンジして作りなおしたのだ。
みすぼらしいと言われてしまった。
確かに夜会で着飾る貴婦人や御令嬢は流行のドレスを身に纏い、高価な宝石を惜しげも無く身につけ煌びやか
そして、私の容姿も確かに周囲の令嬢の様に綺麗では無い
特に、この赤い髪は下品だとよく揶揄され、馬鹿にされてしまい小さい時から嫌な思いをして来た。
「やっぱりこんな華やかな場になど来るんじゃなかった。 うっううう…」
私は人のいない、暗い茂みの中でしゃがんで泣く
ホールの片隅で華やかな世界を味わうだけで良かったのに
普段は、市井と変わらない生活を送る我家で、兄が出世し漸く家計も潤ってきたけど、贅沢なドレスや宝石など買えない。私自身も貴族の子女の家庭教師などして給金を家に入れている程。
既に二十歳になり、ソロソロ婚期を逃す年齢だが貧乏男爵家の娘を、結婚相手に選ぶ貴族などいない。良くて年老いた貴族の後妻だろう
それか、身分のある妻を持ちたい市井の有力者
恋愛をする程の器量も無い私
兄もそんな私を見かね、今夜の夜会に誘って、誰か相手を紹介しようとしてくれたのだろう
私もそんな兄の気遣いに応えるべく、一度だけ参加するだけの心算だったのに
よりによって、次期侯爵であるエルンスト様に粗相をしてしまった。
「うぅ… うっう くぅうう…」
声を殺して泣いていると
「ロッテ! ロッテ… 何処にいるんだい?」
兄が心配そうに私を捜す声
とても会わす顔は無いけれど、必死な兄の声を聞いては出ない訳にはいかず
茂みから、おずおずと立ち上がり兄を呼ぶ
「お兄様」
「!!」
振り返った兄が暗がりに立つ私に気が付くと急いで駆け寄る。
「そんな所にいたのか、心配したぞ」
兄は私の失態を知っているはずなのに、責めもせず優しく抱きしめてくれる。
私より遥かに背が高く逞しい体は軍服に包まれ凛々しい
容姿も同じ赤い髪だがハンサムで夜会でも女性の視線を多く集めており、先程もさるご令嬢にダンスを申し込まれ踊っていたほどにもてる。
一方私は、誰にも誘われず壁の花だったのに
華やかなダンスを間近で見ようと中央に寄ったのがいけなかった。
「ゴメンなさい… お兄様… 私は、とんでもない事をしてしまったわ…」
泣きながら謝罪すると、優しく背中を撫でながら
「気にしなくても大丈夫だ。 それより元帥閣下の方に憤りを感じているくらいだ。 だが…しが無い男爵の倅では言葉一つ返ず、不甲斐ない兄を許してくれ」
「私が悪いの、それよりお兄様に不都合は起きない」
それが一番の気がかりだった。
「恐らく。 何時もは女性に優しいお方なのだが、今夜は機嫌が悪く、間が悪かったようだ」
「あの方が優しい?!」
大勢の前で私を辱めるような言葉を投げかけ目は射るように冷たく、汚らわしい物でも見るような眼差し、心の底が凍るようだった。
「あのような態度の元帥閣下の方が稀だ。 どうやら今夜の夜会は侯爵夫人が仕組んだ見合いの場で、大勢の令嬢の相手をさせられ機嫌が悪かったらしい」
「まあ…」
だからと言って、非が私にあっても、あのような態度は無いのではあろうか
「それより、私はまだ夜会から抜け出せそうもない。 ロッテは戻るのは嫌だろうから、個室を開けて貰うので、そこでもう少し待っていてくれないかい?」
貴族社会で顔を繋ぐのは大事な事
家の為にも大事な仕事。
この立派な侯爵邸から、直ぐにでも帰りたかったが、私がこれ以上足を引っ張る訳にはいかなかった。
「はい 私の事は気にせず、お楽しみください」
「すまないロッテ」
兄に連れられ、侯爵家の執事に、私に部屋を宛がってくれるよう頼んだ後、申し訳なさそうにパーティーホールに向かう兄を見送るのだった。
優しそうな、年老いた執事に案内され通された部屋は、書斎のような場所で、壁にはぎっしりに本が並べられており、机と椅子、長椅子しか置かれていない。
本来は、ちゃんとしたゲストルームが用意されているはずだが、貧乏な末端貴族の娘など、ここで十分だと思われたのだろうか
「華やかな世界を見て、被害妄想になっているみたい」
陰鬱な気分を払拭する為にも、本の背表紙を目で追うと
「戦争の戦略とか経済の本が多いのね… 詩集なんて無いかしら」
難しそうな本が多い
一応貴族の女子が通う女学院に通っていたので貴族としての教養は十分あるが、このような本を読むには、大学で学ぶ専門知識が無いと無理そう
私は家庭教師をしているといても十歳くらいの小さな子供達に字や計算を教える程度
小さな子供に好かれるらしく評判が良く、三人の子供を教えさせて貰ている。
どうやら私が読めそうな書物は無いらしと諦めていると
ガチャ!
ノックもされず突然ドアが開けられるので兄だと思い
「お兄様? 早かったので… 」
言葉を続けられず、驚きの声を漏らさない為に手を口で覆う
ドアを開けて立っていたのは兄では無かった。
しかも、もっとも会いたく無い人物
「っ!!」
怖くて、思わず後ろに後ずさるが
何故と言う疑問よりも、先ず兄の顔が思い浮かぶ
早く謝罪しないと
また機嫌を損ねては、兄の立場が危うい
顔を見ない為にも深々と頭を下げて謝罪を述べようとするが、先程の暴言を思い出すと震えて口が動かない
ああ 早く謝罪して許しを得ないと兄が不況を買ってしまえば、どんな処遇を受けるか分からにのに
だが、只ひたすら首を垂れるしか無く動けなくなってしまう
そのまま長い時間が過ぎたような気がしたが、数分なのかもしれない
沈黙を破ったのはエルンスト様
エルンスト様の冷たい声が静寂する部屋に響く
「無様な、卑しい娘は礼儀も知らぬか。 ただ頭を下げるだけでは…… おい …… 」
私を批判する冷たい言葉ばかりが心に突き刺さり頭が真っ白になる。
本当に無様だわ
もう立っていられず、目の前が真っ暗になる。
自分でも倒れるのが分かるが、そのまま意識が遠のいてくのを止めれない
ゴメンなさいお兄様
そして、そのまま意識を手離す
「シャルロッテ!」
最後に私の名を呼ばれた様な気がするのだった。
目を覚ますと兄が心配そうに私の顔を見ていた。
「ロッテ、目を覚ましたんだね 良かった…」
僅かな振動を感じ、兄の運転する自動車の助手席に乗っているのだと気が付く
「私…どうしたの?」
兄も戸惑ったように運転をしながら口を開く
「私にもよく分からないんだが、同僚と話していたら侯爵家の執事に呼ばれ、ロッテが倒れたと言われて血の気が引いたよ。 部屋に向かうとソファーで真っ青になってソファーで寝ていたんだ。それから、起すのも可哀想だから、そのまま車に乗せて帰る途中だ」
「倒れた?」
「それに、エルンスト様の書斎に居たのにも驚いたぞ」
「エッ!?」
そこで、自分が何故、倒れたのか思いだしてしまう
まさか、あの方の書斎だなんて知らなかった。
でも、通したのは執事
訳が分からない
分かっているのは、又しても失態を犯してしまったのだ。
「ど… どうしましょう… 私… 」
「ロッテ?」
「私… 私… エルンスト様の前で、謝罪もせず倒れてしまったの… 」
私は震えながら兄に告白する。
「何!? だが、執事は何も言っていなかったし、エルンスト様もズッとホールの方に居たと思ったが」
しかし尋常でない私の様子に本当だと悟ったよう
「取敢えず明日、エルンスト様に真偽を確かめよう。 全く今夜は可笑しなことばかりだ」
「ゴメンなさい… お兄様… 」
「大丈夫だロッテ。 心の広いお方だから、私から謝罪しておけば許して下さる」
兄は私を安心させるように優しい声で言ってくれるが、信じられなかった。
兄は心が広いと言うが嘘
私に対する態度が全てを物語っていた。
兄の出世に響くのは確実
執事には、私の正体を知られているのだ
そしては私は車中、兄に謝罪しながら泣き続けるしかないのだった。