8
リリーが家に帰り着くと、父はすでに起きていて、いつものように椅子へ座り酒を呷っていた。
まるでリリーのことなど目に映っていないとでも言わんばかりに虚空を見つめ、ほとんど動かなくなった左足を愛おし気に擦っている。
リリーはそんな父に目を合わせることなく家に入ると、水瓶の一つを引きずって、雨漏りして水滴の落ちる真下に持ってきた。
蓋を開けると、ぴちゃん、ぴちゃん、と音を立てて、わずかに水深を上げていく。
本当は、水瓶を軒下に置いて、たくさん水を確保した方が効率的なのだが、外に物を置いておくと盗まれるので、こうしてちまちまと雨漏りの水を貯めるしかなかった。
リリーは雨が嫌いなわけではない。
理由は二つ。
一つは、あの男が来ないこと。
どういう訳なのかはリリーには定かでなかったが、雨の日にあの男がやってきたことは一度もなかった。
もう一つは、端的に言って、そこそこ安全な水が手に入るからである。
飲み水は一般的に、近くの川や用水路か井戸から確保する。
だが、それがまた危険極まるのだ。
川や用水路にはゴミや糞尿が直接投棄されている。これは何も退廃特区に限定した話ではないので、水質汚染は著しいものがあった。
市政も先述のようなゴミの収集に始まり、糞尿の汲み取り業者や共用のトイレを作ったりしているのだが、改善の兆しは未だ見えない。
一般市民の住む区画でそれなのだから、退廃特区はより凄まじいのは言うに及ばないだろう。
共用のトイレなどは死体を落とす穴と化し、糞尿が直接垂れ流される水路の水は濁りを通り越してヘドロとなり、中に何があっても不思議ではない。
実際、水路に落ちた人がそのまま亡くなったりしているので、白骨死体の十や二十はゴロゴロ出てくると思われる。
加えて井戸も悲惨なことになっていた。
人の住める場所ではないとして、退廃特区と呼称されて隔離されるに至った先の戦争で、井戸もまた甚大な被害を受けていた。
毒と死体を入れられて、飲めば何かしらの病気を発症し、ほとんど例外なく死に至るのだ。
最近でも、井戸の水を飲んだか飲まされたかした人が、体中の骨が溶ける病気に罹って亡くなった。などという噂が実しやかに聞こえてくる程度には、井戸の水を飲んではいけない。
もちろん、一般市民の使用している安全な井戸から水を汲んでくることも可能ではある。
ただし、水が安全であることと、無事に水を汲めるかというのは別の話だ。
過去の教訓から井戸の周辺には警官隊が巡回していたり常駐しているし、市民の目も光っている。
姿形からしてみすぼらしく汚い人間が近づけば、声を掛けられたり、問答無用で取り押さえられたり、住民から暴行を受ける場合がある。
リリーなどは捕まる筆頭だろう。
そういった経緯があるので、雨というのは安全な飲み水が確保できるとして重宝されている。
リリーは水瓶から水を掬って口に含み喉を鳴らした。
お腹が減っていた。ゴミ拾いでは残飯を漁れなかったので、なんでもいいから食べ物を胃に入れる必要があった。
もしお腹が鳴ったら大変なことになる。
壁際の隅に積み重なった石のような芋の一つに手を伸ばした。
その芋は貧民の唯一の味方かつ主食である。
痩せた大地でも芽を出し根をつけ増殖するので、リリーの少ない稼ぎでも手に入る食料だった。
外に出て、屋根を伝う雨水で芋に付いた土と泥を落とし、皮ごと齧りつく。
しゃくり、と最低限の水分を含んだ青く硬い木の実のような音を立てながら、咀嚼して飲み込む。
芋の味はなく、強いて言うなら土の臭いが鼻を抜けていく。
普段食べている残飯とは比べるべくもなく不味い。
元々、生食用ではないので、二、三個と食べると腹を下すという特性も相まって、できることなら食べたくはない代物だ。
しかし、他に食べる物がないので、背に腹は代えられなかった。
小さなその口で、何回かに分けて拳大の芋を食べ終えたリリーは、便意を催した。
雨に打たれながら家の裏の少し行ったところにある用水路へと走った。
水路は雨の影響で水が流れている。
いつもなら蝿などの虫がたかっていて、水とは名ばかりの脂のような液体が浮いているだけである。
糞尿の腐臭はすさまじく、一呼吸しただけで寿命が縮まりそうな瘴気が立ち込めているが、それも普段に比べればずいぶんとマシだった。
リリーは息を止めて、尿と便を出す。
そこら辺に生えている植物から幅の広い葉を千切って尻を拭き、その場から一秒でも速く退散した。
お腹はまだ空いたままだったが、しばらくは鳴ることもないだろう。
そう願って、リリーは家に戻った。
〇ストーリー要約
・飲用水として、天井から滴る雨水を溜めた
・不味いうえに、食べると腹を下す芋を空腹に耐えかねて食べる
・案の定腹を下し、近くの水路で用を済ませた




