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「両手を上げて」
リゼは言いながら自身で両手を上げて見せ、それに倣う形でリリーは万歳のポーズをする。
ところどころが解れ、穴の空いて汚濁に塗れた大人物のシャツを一息に脱がされたリリーは、思わず目を瞑って身を縮め、腕を上げたまま拳を軽く握った。
その反応に目を細めたリゼは「大丈夫よ」諭すように優しく囁いた。
裸にされたリリーは、何をされるのかと考える暇もなく、背中を押されて浴室へと入っていく。
「さっき入ったばかりだから、まだ温かいわね」
湯気の立つ浴槽に手を入れるリゼの言葉は、リリーの耳には届いていない。
白く角の丸い箱の中には、雨水のように透明な液体が入っている。
その液体からは雲のように白い煙が立ち昇り、またほんのりと温かい。
糞尿と死体と腐った何かで出来たドブの臭いはせず、空気は清涼だった。
リリーにとってしてみれば、その部屋の何もかもが見たこともなく、想像にすらない、まさしく異世界のようなものだったのだ。
リリーの反応は至極一般的なもので、お湯に浸かるという文化がそもそもこの国には存在していない。
水に濡らしたタオルで体を拭く、あるいは月に二、三度の水浴びをするというのが習慣になっている。
リゼもその文化の中で生きてきた筆頭なのだが、他国へ行った際に湯浴みを体験し、いたく気に入ったために、こうしてお風呂を設置した。
とはいえ大量の湯を沸かすのは大変な作業なので、月に一、二回しか入らない。
リリーにとっては運がいいのか悪いのか、その一回が今日であった。
呆けた様子で固まっているリリーは、突如として上から水を掛けられ、咄嗟に身を屈めた。そればかりか、流れるように急いで土下座のポーズをとった。
水が冷たいか温かいかなど気にしている余裕はリリーにはない。
裸になって水を掛けられるという体験が、リリーの中ではイコール折檻であるため、平身低頭で謝罪をするのはほとんど条件反射である。
「ごめんなさい、いきなりは怖かったわね」
リゼが言ってリリーの背に触れると、びくりとわずかに肩を震わせ、体を石のように固くするばかりだった。
「大丈夫、怒っているわけじゃないの。怖がってほしいわけでもないわ。だから顔を上げてくれるかしら」
リリーがゆっくりと顔を上げると、リゼの顔が目に映る。
慈愛に満ちて微笑むリゼの顔が、リリーはたまらなく恐ろしいと感じていた。
そのような表情を向けられたことがなく、またその理由も意図もまるで分からない。誘拐してきたチンピラ二人の方がまだ納得できる。
恐怖という感情は、常に理解の外から干渉を始め、自発的な解釈を促すのだ。
「さ、起きて。まずは髪を洗いましょう」
言われるままに起き上がったリリーは、その場で背筋を伸ばし棒立ちになった。
まったく新しい状況において、何をすればいいのか、あるいは何をしてはいけないのか、正解を知らないリリーは自身の記憶と経験を総動員し、唯一の回答を導き出す。
即ち、抵抗しないことである。
リゼは腕の裾を捲って、桶に浴槽のお湯を汲み、リリーの頭に掛けた。
先ほどとは打って変わって大人しいリリーを見て、コミュニケーションが取れているとリゼは思った。
その勘違いをしたまま、石鹸を泡立て、髪を洗っていく。
生まれてから一度も風呂に入ったことがなく、水浴びも雨に打たれるくらいしかしてこなかったリリーの髪は、さすがに一回で汚れが落ちることはない。
二、三回と石鹸を泡立てては流してを繰り返してようやく、排水溝へと吸い込まれていく黒々とした汚泥のような水が、徐々にきれいになっていった。
「次は体ね」
泡を付けた手でリリーの全身をくまなく洗っていく。
リゼがここまで至れり尽くせりなのは、単純に体をきれいにするという建前があるものの、それ以上に、外傷の有無を確かめる狙いがあった。
リゼの目から見ても、リリーは明らかな浮浪児であり、普段目にする貧民よりさらに過酷な環境で生きているのが分かっていた。
ゆえに、これから一緒に生活するにあたって、怪我や病気の有無を知っておくことは重要だった。
予想とは裏腹に、リリーの体は目立った外傷もなく、生きてきた環境と歳の割に健康そのものである。
不思議に思いながらも体を洗い終えたリゼは、リリの両脇を抱えて湯船へと浸からせた。
それまで変化を見せなかったリリーの表情はそれと分かるほど強張った。
水を嫌う犬や猫のように、既知とした恐怖へ足を踏み入れなければならない、ある種の狂気的な嫌悪感を示している。
だが、それも一瞬のことで、何も問題はないと分かったのか、リリーが暴れたりすることはなかった。
「どう? 気持ちいいでしょ」
気持ちがいい、ということを首肯するにはまだ比較する経験に乏しい。
しかし、リリーは想定していた事態にならなかったことへ安堵を覚え、体の外側からぽかぽかと心地よい感覚に緊張が解けていく。
リゼはその様子を見て「ふふっ」と花でも愛でるように微笑み、掌で掬ったお湯をリリーの肩に掛けた。
「着替えとタオルを取ってくるから、ゆっくりしていてね」
そう告げたリゼは浴室から出て行った。
リリーは一人になったことで、余計に気が緩み、普段ならもう寝ている時間であることも相まって、舟を漕ぎだしていた。
リゼが戻ってくる頃にはもう、ほとんど意識はなくて、放っておいたら溺れてしまいそうなほどだった。
リゼはリリーを抱えて風呂から出し、髪と体を拭いて、自身の下着のシャツを着せた。
平均的な身長より高いリゼのシャツは、リリーにとってちょうどいいワンピースのようだった。
薄っすらと肌が透ける素材で、そこはかとなく官能的な情緒を想起させる装いだが、まあそこはご愛嬌である。
濡れた髪にタオルを巻き、リゼに抱えられた頃にはもうすっかり、リリーは瞼を閉じていた。
そのまま二階にある客室のベッドにリリーを寝かせた。
「おやすみ」
その言葉と共におでこへキスをされて、リリーはわずかに残っていた意識も手放した。
〇ストーリー要約
・初めてお風呂に入り、ふかふかのベッドで眠る




