昭和54年のブラック・ジャンク
2025年3月。東京の空はうっすらと霞み、PM2.5と花粉が入り混じった微粒子が春風に乗って漂っていた。朝の情報番組では、くしゃみを連発するキャスターと共に、花粉飛散量を示す真っ赤なマップが映し出されている。
秋葉原電気街の一角。築五十年を越す雑居ビルの一階にある小さなジャンク屋――真田無線。その店内には、スチール棚に並ぶ部品取り用の基板や、動作未確認と書かれたPCやグラフィックボード、周辺機器たちが埃をかぶって鎮座している。
カウンターの中では、真田充がぐしゃぐしゃのティッシュの山に囲まれながら鼻をかんでいた。目の下には隈ができ、赤くなった鼻をティッシュで抑えたまま、彼はぼんやりとスマホの画面を眺めている。
「……今年の花粉、マジで殺しに来てるな」
画面には、東京都内のスギ花粉観測量の予報が表示されていた。例年の倍近くに跳ね上がった棒グラフが、まるで何かの災害警報のように見えた。
「マスクして、空気清浄機回して、換気タイミングまでアプリで管理して、それでもこのザマか……文明ってのはどこまで行っても完璧じゃないな……薬でも飲むか」
そうぼやいた瞬間店の入り口のチャイムが鳴った。考え事をしている暇もない。
「らっしゃい」
入ってきたのは、白いコートにグレーのマフラー、マスクで顔の半分を覆った女性だった。春風に少し乱れた前髪の隙間から覗く目元は赤く潤んでいる。
「真田さん、鼻声すぎて“らっしゃい”って聞こえなかったんだけど」
「君か。やっぱり花粉症か?」
「あゔゔ……うちの空気清浄機、化石みたいなやつで全然役に立たないのよ。アキバなら何かあると思って来たんだけど」
「前にも言ったが、うちは生活家電系はあんまり扱ってないんだよ」
「空気清浄機の一つも置いてないなんて、ジャンク屋としてどうなのよ?」
「君の中ではジャンク屋ってどういう商売なんだ?そもそも中古の空気清浄機なんか欲しいのかよ?」
「何でぼいいから、何どがしてよぉ!」
彼女――沢村未来は、冗談とも本気ともつかぬテンションで店内を歩き回りながら言った。
真田無線の数少ない常連であり、時折ジャンク品を目利きしていく変な女だ。
関西弁がところどころに混じる口調と、やたらと元気な身振りが小気味良い。
「……そういえば、以前クリーンルーム用のフィルタを回収したっけな。あれ、まだどこかに残ってたか……」
充がそうつぶやきながらバックルームへ向かった。そのときだった。
「ちょっとこれ、なに? 空気清浄機じゃない?」
未来が、棚の奥に白くてやけにしっかりした筐体を見つけていた。
「それか。御徒町のカラオケ屋が潰れたときに引き取ったやつで、海外製の業務用だ。禁煙ルームに置かれてたタイプでな。たしか静電気で微粒子を吸着する方式だったはずだ」
「知らないメーカーね……」
業務用の一言が効いたのか、未来の目が大きく見開かれ、キラキラしている。
「アメリカのメーカーだけど、たぶん中国製だな。」
「いいわね。これ持って帰っていい?」
「ダメだ。俺が死んでしまう。ていうか店の備品持って行くな」
「ケチ!」
ふざけあうように言葉を交わした直後、店内の空気が一瞬、静電気に触れたようにざわついた。照明がちらつき、耳鳴りのような圧が店内を包む。
充は硬直したように動きを止め、未来の位置を確認した。
「あー……来ちまったか」
「なにが来たのよ……?」
充があきらめたように頭を掻いた。
「君を巻き込むつもりはなかったんだがな」
「何?何言ってんの?」
だが遅かった。 窓の外がぐにゃりと歪み、秋葉原の街並みが消えた。
代わりに現われたのは古びたビルと演歌のラジオが流れる世界。
* * *
「……どこよ、ここ……」
この日のために買っておいたブラウン管テレビを点ける充。
第51回、春の甲子園大会の中継が放映されている。
「ええと、さっきまで見てたのが第97回だったから……1979年、昭和五十四年だな」
「何!? どこ!? え、ちょっと待って!」
隣で未来が目を丸くして辺りを見回す。充は冷静に状況を整理し始めた。
「落ち着け。俺が店ごとタイムスリップする癖が発動しただけだよ。くそ……今まで誰かを巻き込んだことなかったのになあ」
「はあ!?癖って何!? 私に一言くらい言っときなさいよ!」
未来が詰め寄ってくるが、充は肩をすくめて返す。
「言ったところで信じるか? まあ、しばらくここにいることになる。慣れとけ」
煮干しとタバコの匂いが混じる空気が肌に刺さった。
未来はその匂いに思わず目を細める。
そのとき、店のチャイムが鳴った。
ぴぽぴぽぴんぽーん♬
「らっしゃい……って言っていいのかわかんねぇな」
充が呟いたその声に重なるようにドアが開いた。
入ってきたのは、疲れた様子の若い女性。セミロングの髪を後ろで一つに結い、腕には三歳ほどの子どもが抱かれている。
子どもの目はうるみ、鼻水を垂らしてぐずっていた。
「すみません、まだ開いてますか……?」
未来と充が同時に頷いた。女性は深々と頭を下げて話し始める。
「この子、最近ずっと夜になると咳と鼻水で眠れなくて……病院では喘息の可能性もあると言われてるんですけど、でも、最近“花粉症”って言葉も聞くようになって……もしかしたらと思って」
「ねえ…… 花粉症って……もうある時代?」
未来が小さな声で充に問いただす。
「この年から“花粉症”って言葉が出始めたみたいだな。でも、“気のせい”であしらわれてた気がする」
「気のせいだったらどんなによかったでしょうね……」
充は母親に向き直った。
「空気清浄機とか、使ってます?」
「大手メーカーのを。でも、気休めみたいな感じで……」
未来が機械を指差す。さっき見つけた空気清浄機だ。
「サナっさん、あれ、貸してあげよう」
「一応言っとくと、あれは店の備品なんだが……」
「この親子を見て心が傷まないわけ?私は戻れたらまた探せばいいのよ。私達よりこの子が使うべきでしょ」
未来の押しの強さに戸惑う充。
実際、未来が真田無線に顔を見せるようになってから、ここまで真剣な顔をしているのは見たことがない。
「……私も、けっこう本気で鼻が限界なんだけど」
未来が冗談めかして言う。
「だから、それ持っていかれると辛いわけ。でも……」
「わかってる。助けてやりたいんだろ」
充が目を細めた。空気清浄機の上面をバンバンと叩いて勢いをつける。
「これは電場拡散式。プレートで微粒子を吸着するタイプでね。フィルターいらずで、かなり小さな空気中のゴミも取れますよ」
「私のだけど……」
そう言って、未来はそっと白い筐体を押し出すように女性の方へ向けた。
「こんなにしっかりしたもの……お高いのでは?」
「見ての通りモノは良いよ。だけどお気になさらず、せいぜい1,2万円てところです。」
充が小さく笑う。
「効いたかどうか、ちゃんと教えていただければ無料でもかまいませんよ。それがこっちにとっても大事なデータですんで」
女性は何度も頭を下げ、子どもを抱えて出ていった。
未来は黙ったまま、その背中を見送っている。
「……なによ、あんた。優しいじゃない」
「俺は昔から外神田では一番優しい男だと言われてるぞ?」
「てか、なんでこんな面白いこと黙ってたの? それと、私達、帰れるの?」
「ん。多分大丈夫だろ。帰れなかったことなかったしな」
* * *
閉店時間を過ぎても店にいる未来を見て、充が顔をしかめる。
「……お前、帰らないのか?」
「この時代の私には帰る家がないんだもん」
「まあ、そういやそうか。元の時代に戻るなら店の中にいないとだな」
充の言葉とともに、花粉混じりの微妙な空気が流れた。
「で、私、どこで寝るの?」
「2階が俺の住居スペースだが……やめとけ」
階段を上がった未来は絶句した。
「何この魔窟……趣味と生活の融合体?」
「理想郷と呼べよ。あらゆるものが寝転んでいて手に届く、サイコーだろうが」
「ここに寝ろって? 無理。死ぬ」
「タダで寝泊まりするのに贅沢なやつだな。んーそうだな。4階なら使えるかもなあ」
二人は使い古しの掃除道具を手に、4階へ向かった。
なにもないスッキリした板の間で、窓は最小限しかない。なにかの修練場のような場所だ。
「なんか、凄いわね。剣道場かと思ったわよ」
「ははは。アキバのビルの4Fに板の間があって弁天様が祀られているとはお釈迦様でも気がつくメエ」
「お釈迦様でも気が付かないのに弁天様が気づくのかしら……? まあ、ここなら妥協できそう」
薄く積もった埃を掃除しながら、充は気丈に振る舞う未来を見ていた。
「ああ……んん……仕事は大丈夫なのか?」
未来はスマホを取り出し、画面を見た。
「圏外だし、連絡も取れない。あーあ、無断欠勤になっちゃうかな」
「まあ、しばらくは昭和の空気に耐えてもらうしかないな」
未来はその空気の中で、ほんの少し肩の力を抜いた。
「心配しなくても、元の時代に戻る時には、こっちに来た日に戻れるぞ」
「だから、どうしてそういう大事なことを最初に言わないのよ?」
* * *
翌日、未来は四階の窓辺で紅茶をすすっていた。昭和の空はやわらかく、曇っていてもどこか優しい。
「ねえ、もし戻れなかったらどうするの?」
「考えてなかったな」
充の声はあっさりしていた。
「……今までと今回では状況が違うでしょうに。どうしてそう能天気でいられるのよ」
未来がむくれた顔で窓の外を見やる。
「でも、不思議ね。あの空気清浄機ひとつで、誰かの夜が変わるんだ」
「俺等には中古品でも、この時代では効く。そういうことだ」
「だからあんた、こんな変な店やってるの?」
「変とはなんだ」
「褒めてないとは言ってないでしょ」
充が鼻をすする。
「お前がまた来るなら、空気清浄機の在庫増やすか……」
「それ、本気にするから」
未来が笑った。
外では新年度の準備か、新生活を始める若者たちが家電を抱えて駅へと歩いて行く。
未来は小さく息をついた。
「あの子、元気でいるといいな」
「きっと大丈夫だろ」
「あんた、知らないうちに名医になってるわよ」
「医者より手早く治すジャンク屋ってか」
「ブラック・ジャンク?」
どちらからともなく、ふっと笑いが漏れた。
♬ぴんぽんぴんぽーん
真田無線のドアが開いた。チャイムが鳴り、春の光が差し込む。
「らっしゃい」
* * *
翌日、未来は真田無線の四階で、干した布団にもたれかかりながら目を覚ました。
畳のような木の香りと、鼻の奥に残る昭和の埃っぽい空気。それでも、どこか落ち着く。
階段を軋ませて上がってきた足音に、目だけで振り返る。
「紅茶淹れた。ほらよ」
「気が利くわね」
差し出された湯呑には、ティーバッグのタグがひょっこりと覗いていた。
真田が自分用に買い置いていた安物にしては、妙に優しい味がする。
「……ねえ」
「ん?」
「また……来れるかな、ここ」
充は、窓の外で泳ぐように揺れている洗濯物を見ながら、鼻をすすった。
「それは俺にも分からない」
それがどういう意味なのかを未来は訊かない。
ふと、天井の蛍光灯がちらつく。耳の奥がふわりと浮くような感覚に変わった。
「……来るぞ」
一瞬だけ、視界が滲んだ。
* * *
次に目を開けたとき、目に入って来たのは2025年の秋葉原の景色。
真田無線の二階。棚の配置も、空気の匂いも、見慣れた場所に戻っていた。
未来は無言のまま、スマホを取り出し検索窓に単語を打ち込む。
そこにはあの白い空気清浄機の画像が表示されていた。
「この型、やっぱりもう出回ってないんだ」
充は鼻をすすりながら、競馬の出走表を片手にしている。
「今度出物があったら、取り置きしておいてやるよ」
「あーあ、さっさとどこかのカラオケ屋、潰れないかしら?」
二人の軽口が、いつもの店内に妙に響く。
ぴぽぴぽぴんぽーん♬
クシュンと鼻をならし、充は未来を見送った。
ちなみに、充の声は諏訪部順一さんの声で脳内再生してください。
未来の声は木村千秋さんの声でお願いします。