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昭和60年の苦学生

徐々に完成度を上げるスタイル

「このあいだ街であいつを見かけたよ。柳瀬」


杉原がそう言ったのは、久しぶりに真田無線に顔を出した午後のことだ。


「柳瀬……ああ、学費払えなくて中退したんだっけか」


棚の奥から雑に巻かれた長いLANケーブルを引っ張り出しながら、充は声のトーンを落とす。


「そう。昔はけっこう羽振りよかったのにな。たしか親が建設系の仕事で。バイトもしないで毎日遊んでたろ?」


「親の会社、たしか建設資材の製造で食ってたとかでさ。アベノミクス前の超円高で、輸入品に価格競争で負けて、仕事も減って資金繰りが一気に悪化したらしい。奨学金も追いつかなかったって」


店の空気が少しだけ重くなった。

充は自分の大学院時代を思い出していた。夜な夜な研究室で安いインスタントの焼きそばを啜りながら書類の束に囲まれていた日々。資料印刷にプリンタを独り占めして怒られたこともある。

横目で見ていた柳瀬の派手な生活に、羨ましさを感じなかったわけではない。ただ、単位と進捗に追われるあの日々を共にした彼は、もはや友人というより戦友だった。


「……ま、人生ってのはそういうもんか」


杉原が煙草に火をつけようとして、充に手で制される。


「ここ、禁煙な」


「へいへい。今どきはどこに行ってもそうだよな」


「店で吸おうとするとか、頭おかしいだろ」


「お前だって、コーヒーを店で飲むなって言われたら発狂するくせに……」


軽口を叩き合いながらも、柳瀬の話が充の心に引っかかっていた。何か、もっとできることがあったんじゃないか。そんな思いが夕暮れの倉庫にぼんやりと染み込んでいく。

そしてその夜。充はまた、店の奥でうたた寝してしまった。


*  *  *


「ん?朝か……」


目が覚めると、外の景色が違っていた。

ケバブの代わりにタバコの匂いが混じった空気、大きなオーディオ機器の看板が争うように掲げられた通り、歩く人の服装――そして決定的な朝刊の記事。


「……阪神が優勝している……つまり1985年か……もう慣れた。慣れたよ。店で寝てた俺が悪いんだろ。はいはい」


充は苦笑しながらも、店に戻って照明をつけ、開店の準備を始める。


「良く考えたら、何も真面目に店を開ける必要はないよな?」 


そうつぶやきながらも、店を開けてしまう充であった。

普段から、そんなに客は来ない店だ。だが、長く離れていると店だけが元の時代に戻ってしまうかもしれない。だから、充は店の中にとどまることにした。

そしてどうせ店にいるのだったら、知り合いのいないこの世界だ、客と話でもできた方がいい。


そんなことを考えていた矢先、ひとりの青年がふらりと店にやってきた。

痩せぎすで、目元には寝不足の影。手には日雇いの現場で使うらしい工具袋。

一通り店の中を歩き、物珍しそうに時間をかけて店内を歩く青年に充は話しかけた。


「らっしゃい。何か、お探しで?」


「……何か、稼ぎになりそうなものって、ありませんかね?」


声は弱々しかったが、眼だけは真っ直ぐだった。

彼の名は桐原。どこか柳瀬と雰囲気が似ている。


「今どきだと、プログラミングができれば時給はいいんじゃないかな? 独学でもなんとかなるだろうし」


充が軽く勧めると、桐原は小さく首を横に振った。


「パソコン、触ったことないです……あと、ああいうのって頭いい人がやるもんだと思ってて」


「そうか……じゃあ、どんな仕事ならやってみたいと思う?」」


「今は、工事現場で日雇いしてますが、これよりは体が楽なのがいいです。朝から晩まで働いて、ようやく飯と家賃だけ払えるくらい。親にはもう頼れないし……せっかく大学に入ったのに、生活費と学費を作ることに精一杯。授業にはほとんど出れないんですよ」


桐原の言葉は断続的だったが、とても嘘とは思えない重みがあった。


「予算はどれくらいで?」


「分かりませんが、3万円くらいなら……」


しばらく脳内でさまざまな案を出しては引っ込めていた充は、やがて一つの結論にたどり着いた。


「ちょっと待っててくれ。考えがある」


エレベータで3階に上がる。倉庫の古い什器の奥、段ボールの山の向こうにそれはあった。

さして古びてもいない、白くて大きな複合機――エコタンク式。ビジネス向け。現行機種ではないし紙埃にまみれてはいるが、まだまだ現役で使える。

数か月前に倒産した小さな学習塾から引き取ったものだ。

経費削減のためだろうか、安い中国製の互換インクがなんと百本以上も未開封のまま添えられていた。

今の時代、互換品は純正より格段に安いが、少しでも不安があると個人ではなかなか手が出しにくい。塾のプリントには確かにこちらのほうが良いかも知れないが――。


最近はペーパーレスだのなんだので、学習塾みたいな業界でなければ、紙に何かを印刷すること自体が避けられる傾向にある。そんなわけでこの複合機は真田無線の奥で在庫として眠っていたのだ。


(まあ、どうせ今じゃ中古市場でも1万、2万てとこだろ……コンビニでコピーしたら1枚20円とかだったから……)


埃を払って台車に載せ、店に降ろす。


「インク式のコピー機だ。インクもある。100本。1枚1円以下で印刷できる。1枚20円で請け負えば充分やっていけると思うけど……全部で3万円。これでどうだ?」


桐原は目を丸くした。


「でも、そんな……コピー機なんてすごく高いんじゃ……」


「いいんだよ。どうせ倉庫の肥やしだし、インクもまとめて処分するつもりだった。それよりウチはジャンク屋、壊れてしまったらそれきりでサポートはできないから大事に扱ってくれ。こいつはビジネス用だから少しはタフに出来てるはずだけどな」


「こ……このインク1本で何枚くらい印刷できますか?」


「真っ黒な原稿でなければ6000枚、だそうだ。インク1本で10万円以上の利益が出る。大学にいればテスト前にコピーの依頼なんて死ぬほど来るだろう。国立大なら学費が出るな」


その言い方はぶっきらぼうだったが、充の心には別の思いが渦巻いていた。

充は一瞬、桐原のやせた頬と、くたびれたシャツに目を落とす。


(柳瀬には何もできなかった。せめて、こいつには……)


桐原は何度も頭を下げた。深く、繰り返すように礼を述べながら、時折こらえきれずに唇を噛みしめていた。


「ありがとう、ありがとうございます……」


「金で学校諦めるほど、自分にとっても親にとっても辛いことはないからな。応援させてもらうよ」


「ちゃんと学費を稼いで卒業します。二度と、お金で道を閉ざされたくありません」


「その意気だ。あまりカネカネと人前で言うのは辞めたほうが良いけどな」


桐原の決意に気圧される充は、しかし何か見落としがないかと頭を巡らせる。


「そうそう、これだけは守ってくれ」


充は神妙な顔で桐原の顔の前で指を1本立てた。


「OHP用のコピーは断ること。専用フィルムが必要で、こっちじゃ用意できないから」


「……はい!」


その返事には、久々に聞く学生らしい勢いが感じられた。



*  *  *


それから数日後、タイムスリップは自然と解け、充は2025年に戻っていた。

LEDの看板が目に刺さる。アニメとフィギュアの看板が雑多に並ぶ様子に、秋葉原の日常が戻ってきたことを改めて感じる。


桐原のその後がどうなったのか、充はふと気になってネットで検索してみた。

大学名と桐原という名字しか知らなかったが、意外に早く結果が出る。

彼は外資系の投資ファンド企業の日本法人の会長になっていたのだ。顔に当時の面影があるので、彼で間違いないだろう。

流れで柳瀬のことも検索してみたが、こちらもすぐに見つかった。IT系のスタートアップでバックエンドエンジニアとして忙しい毎日を送っているらしい。


「よかったなあ、桐原……よかったなあ、柳瀬……」


不思議な充実感と、かつての学友の無事を喜ぶ感情が心の中で入り乱れ、熱くなる目頭。

頬を涙がつたう前に、充は湯気の立つコーヒーをひとくち含み、静かに息をつく。

香ばしい苦味が、胸の奥に染みわたっていった。



大学生向けコピーが1枚20円なのはこの年からせいぜいあと2年ほどで、その後、大学の周囲にはコピー屋が乱立、1990年を過ぎると15円→10円→6円とどんどんコピー単価は下がっていきました。

この話では、桐原君は2,3年で荒稼ぎでき、その後も価格競争で勝利できたという想定にしてあります。


この話は当初、柳瀬の親は円高なのに輸入品の高騰で商売が回らなくなるという謎話でしたが、読者様からのご指摘で設定をちょっとだけ変えました。ありがとうございました。

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アベノミクス前の超円高で、輸入品が高騰して…… 本筋とは関係ないんですが、輸入品の価格が高騰するなら円安なのではないかと思いました。 100円で2ドルのものが買えるのが超円高で、100円で0.5ドルの…
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