平成8年の腱鞘炎
「それでそんなところにカメラをつけてたわけね」
「ああ、せっかく向かいのビルに取り付けたのを引っ剥がして持って来るの、何気に大変だったよ。向こうのビルのオーナーにも『いきなりキャンセルってどういうことだ』って根掘り葉掘り聞かれてさ」
店を訪れた未来が目にしたのは、真田ビル2階の窓枠から見下ろすように監視カメラを設置している充の姿。
充は二度手間の愚痴を混ぜつつ、その経緯を未来に説明した。
「確かに、過去に行ってる間の客足は悪かったんだよ。だから、通りの客にはこの店がどんなふうに見えているのかこの際はっきりしたほうがいい」
未来が頷く。
「それに、もしカメラ映像に親父や母さんが写ってたら俺達のほうが亡霊みたいな存在ってことになるよな。そこもはっきりさせたいんだ」
「ファフニールを撒いたら消えちゃうのかしら、私達」
消臭剤で成仏するかはさておき、充も未来も、自分たちの言葉がジョークになりきれていないことは判っている。
「まあ、確かに気になるところではあったのよね。特に私なんか、過去に行ってる間は四階を使わせてもらってる居候でしょ?サナっさんのご両親にばったり出くわしたらちゃんとご挨拶しなきゃって、ちょっとは緊張してたわよ」
「ご挨拶って……」
「変な意味に取らないでよ。『充さんとお付き合いさせてもらってます』とか、そんな挨拶じゃないからね?」
「あ……ああそうか」
恋愛偏差値の低さから未だにこの手のキーワードに過剰に反応してしまう充を、未来は愛おしいと思えるようになっていた。口の端を少し上げながら充の話を聞く彼女の顔は、余裕と慈愛を含んで幸せそうに見える。
「そもそもそんなことになっていたら、サナっさんが過去の自分と出会うことになってたかも知れないわけで」
「そうなったらタイムパラドックスが発動して俺という存在が次元潮流の中に放り出されてしまう……とか、そんな小説読んだことあるな」
「ちょっと、冗談でもそんなこと言うのはやめてよ」
その可能性がゼロどころか、おおいにある状況なのだ。冗談では済まされない。
小説や映画よりはるかに深刻な事態に身をおいているという自覚が充には欠けている。
未来はそれを環境の差と割り切ることにした。言って治るものではないからだ。
「うん……ごめん……」
二人の間に軽い沈黙が流れ、店内に流していた有線放送の曲が途切れた時、umma4の冷却器が激しく動き出した。
「来るかな」
「来るわよね」
店の奥に設置した24インチモニタに映る監視カメラ映像にちらりと目をやる充。
その視界が一瞬、軽くぐらつくと、店の外の光景はガラリと変わっていた。
◇ ◇ ◇
「ええっと、何年だ?」
窓越しに見える、通りの派手なセール広告と鉛色の空。道行く若者達がゲーム機の箱を抱えて歩いている光景が目に付く。TVを点けると年末の特番が目に入った。
「冬かな。ボーナスシーズンぽい」
「そうね。少し寒いかも」
情報を統合すると1996年12月、ということらしい。
「この年代だと有馬記念の売上はでかかったらしいし、ちょっと多目の小遣いが狙えるかな」
「来た早々それ? そんなことよりさっさと店先の商品入れ替えましょうよ」
この時代だと、ジャンク屋で売っているディスプレイはブラウン管が主流だ。24インチ超のHD液晶モニタが中古で存在するはずもないのでそそくさと引っ込める。
USB機器なんてもってのほか。SSDやDIMMなどのパーツも引っ込めておかないと、この時代のPCには取り付けられない。
普通の街ならそんな怪しい機器やパーツは手に取られることもないが、ここは秋葉原。「人柱」と呼ばれる人々が奥義・自爆の呼吸で謎のパーツを買って試し、笑いを取る文化がある。
未来はそのあたりを判っているようで、実に的確に商品の入れ替えをしていた。
「大したもんだね」
「そりゃ、これだけ何回もやってれば嫌でも覚えるわよ」
「あ、そうだ。今回はこれもあるんだった」
無頓着に監視カメラの録画ボタンを押す充。
その指先を見つめる未来の表情は冴えなかった。
◇ ◇ ◇
♬ぴぽぴぽぴんぽーん
「らっしゃい」
店のチャイムとともにやってきたのは暗い顔をした事務員ふうの女性。
店の棚を見ては深い溜め息をつく女性の右手首には包帯が巻かれている。
すかさずそれを察知し、しかめた顔で充にアイコンタクトをする未来だったが、充はそれを受け止め、ゆっくり頷いてから女性の方に歩を進めた。
「お客様、何かお探しですか?」
「あ、はい。あの……マウスを」
「マウスですね。このメーカー、このモデルじゃないと、というのがおありですか?」
「ええと、職場がちょっとアレで、机の上にホコリや切削した金属片がやたら飛んでくるんですよ。それをマウスボールが拾っちゃってすぐ使えなくなるんです。なので、そういうことのないマウスはないものかと……」
「なるほど」
この時代のマウスは硬質のゴムボールを底面で転がすタイプの、ボールマウスと言われるものだ。このマウスは定期的に掃除してやらないと、ゴムがホコリやゴミを巻きこんで動きが悪くなる。
ある程度掃除された環境なら半年や1年はメンテナンスしなくても大丈夫だが、そうではない環境もあるということだ。
「いつもマウスが動かなったり引っかかったりするんで、腱鞘炎がひどくて」
「思い通りに動かないとそうなりますよね。なるほど、その包帯はそれで……」
「ええ、もうサポーターじゃ痛みを止められなくて、包帯をちょっときつめに巻いてるんです。物々しくなるし周囲の目も痛いんですが背に腹は変えられず……」
キーボードやマウスの不調は、それに長時間触れている人間の体への影響が大きい。
もちろん、この問題を解決するのは容易い。光学式マウス、中でもレーザーマウスを使えばほぼ問題はなくなる。
だが光学マウスが一般に販売され始めたのは1999年。96年の年末である現在からはあと2年以上先だ。
「トラックボールではダメなんですか?」
「ええ……やってみたんですが、事務作業はともかくCADを使うとなるとちょっと私の不器用さでは手に負えなくて」
「そうなると……これですかねえ」
充が取り出したのは何の変哲もないバルクのレーザーマウス。
2025年の秋葉原ではお買い得品として店頭で1000円ほどで並ぶようなものだ。
「これは?」
「ボールを使わないマウスなんですよ。これならホコリもゴミも問題ないとは言いませんが、かなりマシにはなるんじゃないでしょうか」
「え……でも、お高いんでしょう?」
「いえ、これは開発中のプロトタイプ流れですから、3000円てとこですかね」
「え!安い?買います!」
充が出したマウスはセンターホイールがついているタイプだ。これは当時としては高級機の証。相場は5000円といったところか。
「このマウスを使うにはこのアダプタが要ります。これが980円。なくさないようにしてください。それと、出どころは言わないでくださいよ。数が揃わないものなので、お客さんを選んで売ってるんです」
「あ、はい!誰にも言いません!」
「あと、できればマウスは低速で動かしてください。びゅんびゅんカーソルが動きますから」
「了解です!ほんとに助かります!」
マウスと緑色の USB-PS/2 アダプタを受け取ってにこやかに帰る女性。
未来と充はそれを見送りながら微妙な顔をしていた。
「やけに……あっさり終わったわね。解せないわ」
「たまにはこんなこともあっていいだろ。炊飯器や消臭剤売るよりはよほどウチの商売ぽいじゃないか」
「でも、大丈夫?あのマウスをPCに接続したらメーカーの名前とか出てくるんじゃないの?」
「この年代のPCでは『標準PS/2マウス』としか表示されないよ。さっきのマウスは PS/2互換ファームも入ってるやつだからそのへんは大丈夫だと信じたい。ホイールは……そのままだと動かないかもな」
「そっか……」
そいういうことを話したかったわけではなかったのだろう。未来は背を翻してバックルームのPCの前に座り、背景が灰色一色のポータルサイトの画面を無表情に眺めていた。
そこに貼られたリンクを意味なく辿ろうとしては「保護されていない通信です」とたびたびアドレスバーに表示してくるブラウザにため息をつく。その顔はどこか寂しげですらあった。
充はそれが分からぬほど鈍いわけではない。しかし、こういう時に女性に掛ける言葉を知らないのだ。
それから2週間、気がつけば未来はずっと西の空を見上げていた。
充はそんな未来の顔を、ずっと横目で気遣っていた。
(*) 実際、1996年の有馬記念の売上は歴代で最高額の875億104万2400円でした。(2024年は約550億円)
(*) PCの接続機器の名前が表示されるようになったのは PnPが広く普及してからです。今でもマウスやキーボードは「標準HID]のように木で鼻をくくったような表記がされることが多いです。
(*) 私は長年マイクロソフトのNatural Wireless Laser Mouse 6000 69K-00004というやつを使ってましたが、もう作られてないようです。
(*)本作では「プロトタイプ流れ」がちょいちょい登場しますが、私もアキバにいた頃はそのプロトタイプ流れのキーボードとか使ってました。
(*) 当時はhttp接続のサイトばっかりですので、2025年のブラウザで開こうとすると「保護されていない」警告が出ます




