昭和53年の幽霊トンネル(後編)
まだ薄暗くもならない夕方の峠のトンネルの中、充と未来は中台の後ろを歩いていた。
ジャッ……ジャッ……ジャッ……
歩く度に砂利を踏む音がトンネル内にこだまする。それが自分の足音だと分かっていても確かに何か雰囲気が出るものだ。
「車だ。端に寄れ」
外の蝉の声が遠い。中台の声とエンジン音だけが闇に消えていく。台数は少ないが車も通る道だ。充達の姿を見て徐行しているからには中を歩く人間も珍しくないのだろう。
「俺達を見て徐行してくれてるってことは、ちゃんと人間が見えてるってことだよな?」
「そうね。車に乗ってる人が白い着物を着た歩行者を見誤ったってのはなさそう」
排気ガスの匂いに少し喉をやられながらも現場検証は続く。
薄暗いトンネルの中で申し訳程度に灯るナトリウムランプの灯が、まるで夜を待ちきれない蛍火のように頼りなく揺れていた。
「むしろ、夜中にあっちから来たやつとこっちから行く奴が遠目に鉢合わせしたら幽霊だと勘違いするかも知れないな」
「結構暗いけど、中に灯りがあるから懐中電灯を使おうってほどでもなくて、その横着さが結果的に幽霊を生んでるのかも」
天井に据えられたオレンジ色の灯は足元すら照らさない。
ただ、このトンネルの構造が一直線であることだけは保証してくれている。
「で、姉ちゃん、それは何なんだい?」
「これ?これはファフニールっていう消臭剤よ」
「消臭剤?」
未来が透明なスプレー容器を持ち上げ中台に渡す。中台は試しにスプレーをシュッと一吹きしてみるが当然何も起こらない。
「いい匂いがするが、何も起こらんな。で、これが何の役に立つんだい?」」
「あー……それはですねえ」
21世紀初頭、ホラーゲームの開発現場で頻発する怪奇現象に悩まされていたスタッフがこのファフニールをシュッと吹いたところ現象が止まったとか、消臭成分のシクロデキストリンの分子構造が六芒星を形作っているため霊に強いとか、実に様々な情報を umma4 に教えてもらったのだ。
もちろん相手は霊なので再現可能な実験結果があるわけではないのだが。
「……というわけなんですよ」
「あながちデタラメでもないわけか。気分が爽やかになる分、テレビに出てる呪い師の戯言よりはマシかもな」
「で、これをこうします」
充が取り出したのは毎秒18000回転でファンを回す最強エアダスター。キーボードの間に入り込んだゴミから庭木の剪定で落ちた枝葉まで、何でも吹き飛ばす風力を持つ超小型扇風機だと思えば想像がつくだろうか。
未来がシュッと放った霧が微かなラベンダーの香りとなってトンネルの闇にふわりと溶けていく。それを充がエアダスターで舞わせるたび、二人はまるで悪戯を楽しむ子供のように小さく笑った。
「よし、もういいだろ」
「うぇえ……」
ファフニールのボトルが半分を切った当たりで作業は中断。
風に押し戻された霧がしっとりと二人のシャツを濡らしていた。互いに目が合い、未来は小さく舌を出し、充は照れ隠しに視線を逸らす。
充がエアダスターを未来に渡すと、未来は「弱」モードでシャツを乾かした。
「さて、次はこれかな」
充が次に取り出したのは形状的には何の変哲もない懐中電灯だった。
「さっきの消臭剤は解るんだけどよ、そいつぁ何だ?そんなもんで幽霊がどうにかなんのか?」
「いやあ、これは幽霊をどうにかするものじゃなくて、迷惑な肝試し連中をどうにかするものなんですよ、中台さん。ところで、ここのトンネルは何メートルくらいあるんですかね?」
「ええと、250メートルはなかったと思う」
「じゃ、大丈夫か」
充は懐中電灯を天井に向けてスイッチを押した。当たり一面が強烈な光に包まれる。
光軸をわずかに傾けるとトンネルの向こう側までが一瞬で白く眩しい世界へと変貌した。
充が持ってきたのはただの懐中電灯ではない。最大光量20万ルーメン、到達距離1618メートルの化け物のような懐中電灯なのだ。
「すげええええ!何だこりゃあ!」
「光あれ!うはははは」
充の大光量ショーは向こう側から自転車がやってくるまで続いた。
光に寄ってきた蛾が何匹か懐中電灯の大出力の熱にやられて煙を上げながら落ちていく。
その匂いを消すためにまた未来はファフニールを噴霧した。
「OK、だいたい想定通りだ。帰りましょう」
充が鼻息荒く中台に帰還を促すと、一行はやや薄暗くなった道を引き返していった。
* * *
「結局、どういうこったいあれは?」
夜営業を始めた中台が二人に夕食を出しながら、眉を八の字にして充に説明を求めた。
「つまりこういうことですよ」
充はさっきトンネル内で使った「最強」懐中電灯をしまい、代わりにそれなりにゴツい懐中電灯を鞄から取り出した。
充が言うにはこういうことだ。
夜営業中に肝試しをしようとする輩が来たときは魔除けと称してファフニールのスプレーを服に噴いてやる。
そして、こちらの懐中電灯を貸してやればいいと言うのだ。
最強ではないにしても2万ルーメン、到達距離は500メートル。250メートルもないトンネルならば十分視界を快適に照らせるだろう。
照らした視界の明るさに、肝試しの連中は白けてしまうに違いない。加えて、スプレーを時折シュッシュとやってみろと言って渡してやればそれなりにいい匂いがする分、霊がどうこうより花火でもしようという気になるだろう。
「そんなにうまくいくかねえ?」
「とりあえず、こっちの懐中電灯を2つ、置いていきます。充電式なんで大事に扱って下さい。」
「いくらだい?」
「消臭剤は詰め替えセットが1袋2000円、懐中電灯は4000円が2個で8000円、合計1万円です。効果がなければお代は要りませんから、とりあえず置いてみて下さい。うまく行ったらお慰みってことで」
中台がその場で支払を済ませようとするのを固辞し、充と未来は帰りを急いだ。
なにせカーナビがない上に知らない土地だ。街の灯りがあるうちに都心に帰らないと迷子になりかねない。
急ぎ車を出す充と未来を見送る中台の背後で、川辺に浮かぶ蛍の光が優しくまたたいていた。
「蛍、初めて見た……」
「綺麗なもんだなあ……シーズン的にはもう最後の方なんだろうけど」
「うん。また見たいね」
* * *
3日後、真田無線の電話が鳴った。中台だ。
ファフニールの追加注文が出来ないかという問い合わせだった。
近隣の常連の多くが肉体労働者なのだが、ファフニールの消臭効果で汗臭さが軽減されることを知った彼らが使いまくってしまったとかで、補充をしてほしいということだ。
「幽霊撃退用が、おっさんの加齢臭対策に消えたか……」
真田無線には店内用のファフニール業務用30回詰替セットが1箱ある。充はとりあえず備蓄を送る約束をし、舶来のものなので自分もこれ以上は手元にないと説明し、中台も渋々納得した。
「これだけあれば、新トンネル開通まで持つかな……?とりあえずまたラベル剥がししないとだなあ」
中台がメーカーに問い合わせしないように、パッケージやラベルからその手の情報を剥がさなくてはならない。
充はこの作業が嫌いだ。一人でこの手の作業をしていると途中で酷い虚無感に襲われるらしく、未来が手伝ってくれるのは本当に心の支えになっている。
肝心の怪奇肝試しツアーは目論見通り、明るすぎる懐中電灯を前にやる気を削がれてつまらなそうに帰る連中が続出したそうだ。
中台は最初、まるで自分が連中を撃退したかのように語っていたが、充にも大いに感謝を伝えて電話を切った。
「ところで、どうしてあの大きな方の懐中電灯を置いていかなかったの?」
「あれはジャンクじゃなくて俺のコレクション。最新鋭機種なんだよ。今買っても10万円はするはずだ。迷惑駐車を追い払うために出す金額じゃないだろ?」
「なるほどね……てことはサナっさん、10万円を懐中電灯に使ったわけ?」
信じられないという顔で充を見る未来。だが、その目はどこか優しさが籠もっている。
用意された阿吽の呼吸のようなものが心地よい。
「ところでさあ、未来さんや。中台さんところから帰る時、俺達蛍見たよね?」
「うん。綺麗だったわね。それがどうしたの?」
思い出を懐かしむような未来に、充は少し困った顔をして続ける。
「東京都西部で見られる蛍は7月上旬が限界らしいよ」
「え……じゃあ私達が見たあれは何だったの?」
未来の血の気がさあっと引いた。コーヒーカップとソーサーがカタカタと鳴っている。
「今度、二課に相談してみよう。心配ないよ。超常現象は俺達の日常みたいなもんじゃないか」
充の柔らかな声を聞いて、未来はふぅっと息を吐く。
二人の間にゆったりと漂い始めたコーヒーの香りが、静かな真田無線のバックルームを満たしていった。
* 私は4000円の懐中電灯と最強エアダスターを持っていますが、どれも笑えるくらいの出力です。
* 除霊に消臭剤、というのは現在は都市伝説として広く知られるところです。名前は少々アレですが。
* この後10年以内に新トンネルは開通します。たぶん。
* 普通の懐中電灯は 50~300ルーメンくらいです。
* シクロデキストリンはグルコース分子数によってα、Β、γがあり、六芒星をこじつけるならα(分子973)です。




