昭和55年の数値演算(後編)
「計算資源が乏しい中での数値演算やシミュレーションはしんどいでしょうね。ましてやそれで期間内に論文を仕上げろなんて……」
「論文に関しては、そこで生きていくならしょうがないでしょう」
常住は相談者、山口に同情的だが充は淡々とコーヒーを啜っている。
これが場数の差というやつか。
「で、お客さんの悩み、どう解決します?まさか昭和55年にノートPC置いていく気じゃないですよね?」
「そんなことしたら、そのノートをどこかに売り飛ばしてひと財産です。論文なんて頭から消し飛びますよ。で、そんなことにならないように今回はこれを使おうかと」
「そういうことも考えないといけないんですね……」
「相手が理系の場合は特に、売るものを考えないとあとあと恐ろしいですよね」
「まずはいろんなロゴを削り取っていきましょうか……」
二人タッグの「人助け」、準備は深夜まで続く。さながらサバトであった。
* * *
♬ぴぽぴぽぴんぽーん
「らっしゃい」
山口がやって来たのは翌日の夕方。常住は日用品や衣服の買い出しで留守だった。
「すいません。遅れてしまいまして」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
軽い挨拶をして、店の真ん中にセットアップした小さなテーブルに向かう二人。そこには小綺麗な14インチのTVと、豆腐半丁ほどの大きさの黒い箱、そして黒いキーボードがケーブルで繋がっていた。
「あの……これが Pineapple II のクローンだとおっしゃるんですか?」
「はい」
山口が露骨に訝しげな顔をしはじめたが無理もない。偽物やクローンを売るにしてももう少し本物に似せて売るのがこの手の商売では定石だ。そして本物と違うところを苦笑しながら使い、愛用するのが偽物買いの矜持というやつである。
しかし、目の前にあるのは黒いプラスチックの箱に入ったよくわからないシロモノだ。
「いや、だってこれ、動くんですか?僕が頼んだのはパソコンですよ?メモリ64キロ積んでないと困るんですよ?」
「だからここで動かそうって言ってるんじゃないですか」
充がそういいながら、黒い豆腐にminiUSBケーブルを指すと画面にさっとノイズが入った。
「電源ボタンすらないぃぃ!」
嘆く山口をよそに黒い豆腐は起動チェックの文字列を次々と出していく。
充と常住が夜遅くまで作っていたのは初心者学習用のボードコンピュータ、47π だ。初心者用とはいえ4GBのRAMに4K対応、1.5GHzのCPUを4つも積んでいる。端的に言うとこの黒豆腐はこの時代、世界最速のコンピュータなのだ。
もちろんこんなオーパーツをそのまま売るわけには行かない。モニタはテレビで代用、起動したら有無を言わさず Pineapple II エミュレータが起動するようになっている。ただ、数値演算をするということなのでそれなりのスピードで動くようにしたのは御愛嬌だ。
「Pineapple IIなら電源ボタン入れたらすぐにカーソルがチカチカするんだよ?これは何だよ?おかしなメッセージがいっぱい出て」
「まあまあお客さん、プログラムコード持ってきていただけました?」
「持ってきたけど、俺はこんなもの買う気ないぞ? Pineapple IIとは似ても似つかん。いくらクローンだからって客をバカにしてる」
「とりあえず一番重そうな計算プログラム貸してくださいよ。こっちだってこいつを準備するのに手間暇かけてるんですし」
充はひったくるように山口の持ってきたプログラムリストを受け取ると、猛烈な勢いでそれを打ち込み始めた。
「ぐああ目が痛い。15kHzのモニタ辛すぎ!」
充のタイピングスピードに驚愕する山口。一方、画面に向かって直接ソースコードを打ち込む充のストレスはマッハで増えていく。昨晩と違って、今日は山口が隣でぎゃあぎゃあ騒ぐのでどこにも楽しい要素がない。
「はーできた。じゃ、行きますよー。ポチっとな」
山口は驚愕した。充が RUN (実行)コマンドを打った数秒後に結果が表示され次のコマンド待ちの状態になったのだ。
「え?これは普通の Pineapple IIで実行したら25分はかかるプログラムだぞ?」
「おかしいですねえ……数秒で終わりましたが?」
「メモリは何キロバイト積んであるんだ?」
「そりゃまあ、8bitパソコンの限界までですよ」
本当はその6万5千倍積んであるのだが、そんなことがバレたら山口は論文を書くよりもこの黒箱をどこかに売り飛ばすだろう。さっきのコードの実行時間だって本当は1秒もかからないはずだがウェイトをかなり仕込んであったのだ。あと100倍は必要だったみたいだが。
「えーと……そのう……これのお値段は?」
「あれ?あれだけ色々おっしゃってたのにお買い上げですか?ご冗談でしょう」
山口の目の色が変わっていることに充は気がついた。
次元の違う実行速度を見せられた山口は気がついてしまったのだ。「こいつは何かが違う」と。
こうなっては具合が悪い。笑って騙される器量のないやつに未来道具は渡せない。
「山口さん、とりあえずこれはやめときましょう。せっかくウラモノを出したのにこうまでケチがついたんじゃあ、ウチとしてもお出しするわけにはいきません」
「そんな!僕の論文はどうなるんだ!」
取り乱す山口の前で黒箱のケーブルを引き抜く充。しかし悪いのは山口だ。一般の商品とは違う、裏ルートの品物を店員の気まぐれとお情けで出してもらっているのにケチを付けた時点で彼の負けなのだ。
しかし充も鬼ではない。理系相手の商談なのだからこんなこともあろうかと用意していたものがある。
プランBの発動だ。
「山口さん、秘密、ほんとに守れますか?」
「昨日も聞きましたよねそれ?そんなヤバい筋のものなんですか?」
充は手を口にあてながら,声をひそめて山口に問いかける。
「某大企業の試作品流れが1台だけあります。OSはBSD。使えますか?」
「どんなやつで、いくらすんの……?」
「壊れても修理も保証もできないことをご承知いただいて、メモリ16MB, 40MHzのCPUを積んで、本体価格36万8000円いただきます」
「やすっ!買う!買う!」
「お渡しする条件は幾つかありますが、まず秘密厳守。売却禁止。そしてもう一度言いますが、無保証、修理もできません」
「守る!買わせてくれ!」
そう言うと充はあらかじめセットアップしておいた、2025年なら猫でも避けるようなPCを奥から持ってきた。小型の除湿機くらいの大きさの、クリーム色の機体は朝から綺麗に磨いておいただけあってピカピカだ。HDDは大容量130メガバイト!もちろんCPUもこの時点で世界最速である。
充はこれまた古いブラウン管モニタにこのPCを繋いで電源を入れた。先程の黒い豆腐と似たようなメッセージが次々と出てはスクロールして行き、ついに "login: " というプロンプトが現れる。
「ちゃんと動きましたね。root パスワードは "kissme" です。では、末永く大事にしてやって下さい」
「はい!うおおおすげえやった!」
「解ってると思いますが、これ、人目についたらその筋の人が来ますからね。去年の密輸事件くらいの規模になっても知りませんからね?」
「解ってます!解ってます!」
充はポストイットに "kissme" と書いて山口に渡すと、山口は郵便局の封筒を鞄から取り出し、全額一括、耳を揃えて支払った。
「では、タクシー拾って帰ります!」
言うが早いかPCを抱えて店から出てく山口。夏の暑さを感じさせない軽快な足取りで人混みに消えていく。
「……良い論文書けよ」
窓越しにPCを抱えて去っていく山口を見つめる充の口から、ポロリと言葉が落ちた。
自分の論文のために決して安くない金額を、身銭を切って支払った山口を充は素直に応援していたのだ。
* * *
♬ぴぽぴぽぴんぽーん
入れ替わりで常住が戻ってきたのはなんともタイミングが良いやら悪いやら。
「ただいまー。どうだった?」
「47πの方はやっぱり駄目だった。なんか目の色変えちゃって。なのでプランBのほうで」
「あー、やっぱりセットアップしといてよかったねえ」
二人して徹夜仕事をしたため打ち解けたのか、お互いの言葉から敬語が消えている。
充とて未来に対して後ろめたい気持ちは大いにあるが、二人ギクシャクしていたり、一人で過去に飛ばされるよりはよほどマシだ。
「さて、7月は大きなレースもないが、金は入ったし」
「お腹すいた!なんかない?」
「昨日はふらふらだったのに、今日は妙に元気だな。じゃ、飯にするか。今日はもう閉めるよ」
充が閉店作業をし始めたちょうどその時、ちりん、と店の風鈴が鳴った。遠くにあったはずの入道雲がやけに近い。ひんやりと涼しい風が吹き始め、やがて始まった夕立が灼けたアスファルトを小さな黒い丸で染めていく。
周囲の店舗がウキウキと傘を売り始める中、充はシャッターを下ろし、夕食のメニューに心を馳せていた。
* 密輸事件……1979年に時の政権を揺るがす贈賄事件があり、その資金は大企業による密輸によって作られていたのが報じられました。
* スペック的に後からでてきたPCは1989年から1990年くらいのPC-AT互換機くらいだと思いねえ