昭和55年の数値演算(前編)
苦言や非難がある方はメッセージでお送り下さい。
「すいません……どうやら気を失っていたようで……地震があったようですがお店は無事ですか?」
追ってきたのは当然常住だ。顔色が真っ青なのはエレベータの照明が暗いからだけでなく、本当に調子が悪そうに見える。タイムスリップ酔いとでも言うのだろうか、
「店は無事です。貴方が急に倒れたのでとりあえず寝かせようと運んできたんですよ。大丈夫です?頭とか、打ってないですか?」
言われてはたと気が付き、自分の頭を撫で回す常住。
「大丈夫。打撲その他の痛みはありません。ただ、酷く空気が悪いですね。喉が痛くてたまりません……」
タイムスリップ先は昭和55年、おそらくは7月中旬か下旬。表の通りのボーナスセールの看板がそれを示している。そして7月ならば光化学スモッグが発生していてもおかしくない。わずかでも光化学スモッグが出ていたのなら平成令和の子女にはきついはずだ。
(むしろ、すっかり馴れている自分は何なんだ……)
充は自らを疑問に思う。だが、彼の昭和での滞在時間はすでに150日を超えているのだ。空気の悪さに体が馴れていたとしても不思議ではない。
「喉の方は部屋に戻って空気清浄機を使いましょう。あとでマスクを下から持ってきます。とにかく今は安静にして下さい」
「ご迷惑をおかけして本当にすいません。昔から呼吸器系が弱くて……」
充はその後4階と1階を何度も往復しつつ、起き上がって何かをしようとする常住を寝かしつけた。
* * *
結構揺れた気がしたが店舗は無事、倒壊した棚や備品もない。
充はいつものように過去世界ではオーパーツとなるような商品をバックヤードに移動させた後、TVを見ながら店番をしていた。
「ふぁあ。そろそろ店閉めるか……」
♬ぴぽぴぽぴんぽーん
そろそろ日も暮れようかという頃になってドアのチャイムが鳴った。。
「……らっしゃい」
店に入ってきたのは少し小柄な若者だ。武道でもやっているのか、背筋がえらくしゃきっとしている。
その背筋とは裏腹に若者は何か酷く追い詰められたような顔をしていた。
「へんなケーブル……こっちは……何がなんだか分からん……ここも駄目かなあ。ないなあ」
若者はプラケースの底をあさりながら何かを探しているが、その間もずっとブツブツと独り言を言っている。こういう客にうっかり話しかけるとだいたいは無理難題が来るので充はしばらく若者の様子を遠巻きに見ていた。
しかし、若者はいつまで経っても出ていかない。
閉店のタイミングを伺っていた充としては状況を前に進めるしかない。
「なにかお探しで?」
「あ、探しているといえば探しているんですが、なくて当然というか……」
「あったらいいな、というものでしょうか?」
「ええと……その……Pineapple II のクローンで、クロックを上げられるようなやつはありませんか?」
「あー……」
この年から遡ること3年、米国で作られたPineapple IIは世界的に大ブームを巻き起こした「パソコン」だ。当時は香港や台湾、秋葉原でも回路を真似て作られたクローン品が数多く出回っていた。
これらコピー品はメモリやCPUをオリジナルのよりも良いものを使っていて、3倍近くの速度で動くものさえあったため、レア物を探して歩き回る初期のPCマニアがそこそこいたと言われる。
「うちはそういうグレーなのはちょっと置いてないですね。すいません」
「そうですか……やっぱり、よく知りもしないで当てずっぽうに歩き回っても駄目ですかねえ」
「昔っからそういうのはガード下って言いますけどね。ナショナルエレクトロニクスのNE-8001じゃ駄目なんですか?あれは4MHzですからPineapple IIといい勝負しますよ」
「いや……アイログのA80は1命令あたりのクロック数がやたら多いんで……それに僕はその……研究で使うんで、グラフの描画や浮動小数点演算性能を気にするんですよ」
この年代、半導体技術が日本人の凝り性のお陰で爆発的に進み始めたのだが、一方で研究者の計算機環境はというとお粗末なもので、一人が1MIPSの演算能力を手に入れたら凄いと言われる時代だった。
Pineapple IIを規定動作周波数の3倍、3MHzで動かすことができれば確かに1MIPS近くの速さにはなるが、同時に周辺機器との同期が取れなくなったり画面が乱れたり、下手したらメモリが煙を吹くリスクさえあったのだ。
「うーん……そうですか。それではお力になれませんね。早いだけのパソコンならお力になれるかと思ったんですが」
「えと、あの、僕が望んでいるのはメモリが64キロバイトも載っていて、ちゃんと多体問題とか非線形問題とかがFORTRANでプログラムできるものですよ?拡張カード使って動かすやつです」
「あの……もしかして、のっぴきならない事情でもおありで?」
「聞いてくれますか? この冬の国際学会に論文を出さないといけなくて、締切がすぐそこなんです。これに論文が出せないと1年無駄にしてしまうんですよ。大学の計算機センターは時間いくらで大型計算機使えって言うけど、俺にはそんな予算ないから手元で計算しなきゃいけないし、今から始めないと間に合わないんです」
こればかりは充も同情せざるを得ない。この当時の大学の計算機センターというやつは景気よくスパコンを導入するが、利用者の応分負担を原則としていたため、貧乏な研究室はせっかく買ったそのコンピュータを使えなかったのだ。
純粋数学や存在しない高分子のシミュレーションをやっている研究室なんかはもともと予算が少ない。かなり苦労したのではないだろうか。
「お客さん……秘密守れます?」
若者は一瞬怯み、そして笑顔を見せた。そう、ここは秋葉原。ヤバいものがあったとしても堂々と店頭に並べるのはご法度。ゆえに、日頃から店との信頼関係をキープしている一部の人間にしか「面白い」ものは提供されないのである。
今、若者はその信頼関係を問われている。ここでYesと言えば、彼は望みのものを手に入れられるかもしれない。
「あ……あるんですか、 Pineapple IIの高速クローン?」
「……他で売ってるのと同じかは分からないけど、あるっちゃありますね」
「あの、3MHz……3MHzでます?出るんなら買います!売って下さい!」
「あー……余裕で出ると思いますよ。問題は周辺機器への出力なんですよね……画面に結果が出るだけではなく、何かしらプリントアウト出来ないといけないんでしょう?そっちがね……」
「なるほど、周辺機器の互換性が怪しいということですね」
「そうですね。たぶん駄目だと思います。その時どうするかですね……結果を全部紙に書き写します?」
「どうせプログラムの時も全部入力するわけですから、苦にはなりませんけど……」
話をしていると内線電話が鳴った。常住が起きたのだ。水が飲みたいらしい。
充は常住がすぐ寝ると思い込み、4階のエアコンのリモコンの使い方やらトイレの場所やらも教えていなかったのだ。
「すいません。今ちょっと病人がおりまして、明日また、というわけにはいきませんか?」
「それはいいんですが、納期とか、あとお値段もできれば聞いておきたいなと」
「すいませんが、そういうのもできたら明日お願いします。あ、そうだ。プログラムコードを持ってきてもらえます?動かなかったら買う意味ないですよね?あ、お名前を」
会話だけを見れば店員と客の会話だが、充は水やマスク、氷嚢を用意しながらの会話だ。流石に若者も事情が事情だけにこれ以上店に居座るのも居心地が悪くなってしまった。
「山口です。では明日来ます!また!」
挨拶もそこそこに充は閉店作業を済ませ、看病セットを持って4階へと向かった。
常住は虫の息という程ではないが結構弱っている。
これはタイムスリップ酔いと光化学スモッグのダブルパンチのせいか、それとも4階の住環境が合わなかったのか。
「常住さん、水と、あといろいろ持ってきましたよ」
常住は氷の入ったグラスにやかんから水を注ぎ込むと一気に3杯も飲み干した。やはり喉が乾いていたのと、痛かったのだろう。
「お客さんが来てたんですね。すいません本当に。そろそろ帰ります」
「落ち着いてからでいいですよ。というか、残念ですが常住さん、あなた今はお家に帰れません」
「……そう聞いては落ち着けるものも落ち着けないですね」
充がアナログテレビのリモコンの緑のボタンを押すと、テレビからはニュース番組が流れてきた。
『7月15日、午後7時のニュースです。牛丼チェーン大手の熊野屋は15日、東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請しました。これにより熊野屋は事実上の経営破綻となり、負債総額は約120億円に上るものと……』
TV画面を見る常住の瞳がみるみる大きくなっていく。
「これは、ビデオを再生しているのではなく、今現在放送されているものです?」
「ですね」
「7月?」
「はい」
「……今日は終電を気にせずお話を伺えそうですね」
常住の弱々しかった声が、少しだけハリを取り戻していた。
* 1MIPS……今のちょっといいPCの30万分の1くらいの計算能力だと思いねえ(正確なところは算出できません)
* この年の各大学の計算機センターがどこの会社のどんな大型計算機を買っていて、その計算力がどれくらいだったか、全部資料があるんですけどね。やっぱりこの業界は陳腐化が早いなと思いました。
* PineappleIIとかNE-9001とか、Aログとか、もう書いてて苦しいですよ。ええ。
* ガード下……と言われる、クローン商品や軍の廃棄品なんかを売ってる一角があったと思いねえ




