平成6年の手書き履歴書(後編)
「手書きの履歴書、ねえ…」
充はそう言って店の奥へと歩き出した。未来も黙ってそれに続く。店の奥にはジャンク品の詰まった段ボール箱が大量に置いてある。充はそれら大小の箱を開けては閉めを繰り返し、ついに目当てのものを探し始めた。
「これを使う」
充が探し出したのはかなり古めのノートPCと、ほぼ同時代のコンパクトなプリンタだった。プリンタはノートPC側のOSのバージョンを調整すればドライバ的にも問題なく使えるだろう。そして重要なのは充のNASに入っている特殊なソフトウェアと、それに付随するフォントデータだ。
「あったあった。これがあればなんとかなるだろ」
充が取り出したのは2000年代初頭に流行した個人の筆跡を再現するサービスで作成されたフォントデータと、それを扱うためのシンプルなフォント編集・印刷ソフトウェアだった。当時は有名人やアイドルが「ヘタ字フォント」などとしてリリースすることもあった、あれだ。
「お客さん、あなたの書く文字をいくつか見本として書いてもらえますか?」
青年は戸惑いながらも充に促されるまま、サンプルとして要求された400字を20分ほどかけて紙に書いた。充はそれを高性能スキャナで読み込み、ノートPCに取り込む。
「このソフトウェアであなたの筆跡の特徴を解析して、既存の手書き風フォントと組み合わせるか、あるいは部分的に修正してオリジナルのフォントデータを作ります」
「フォント……?」
「ああ、パソコン用の活字ですよ。お客さんの字をワープロで書こうって話です」
充は簡潔に説明した。青年の筆跡を完全に再現するわけではない。しかし、彼の文字の癖や特徴を捉え、自然な手書きに見えるフォントを作り出すことは可能だ。そしてそのフォントを使って履歴書やエントリーシートの内容をコンピュータで入力し、プリンタで印刷する。
この時代、ワープロ専用機は普及しているが、個人の手書き風フォントを作るような技術は一般的ではない。ましてやそれを履歴書用紙に違和感なく印刷するとなると相当な技術が必要になる。しかし2025年では、個人の筆跡を再現したフォントを作成したり、それを高精度で印刷したりすることは比較的容易だ。ただ誰もそんな面倒なことをしなくなっただけで。
「これなら何十枚でも何百枚でも同じ筆跡で、しかも疲れずに書類が作れます。あとはこのプリンタで、いかに履歴書用紙に綺麗に印刷できるか、ですが…」
充はノートPCとプリンタを接続しテスト印刷を始めた。用紙の位置合わせ、印字の濃度、滲み。何度か調整を繰り返すと自然な手書きに見える設定を割り出せた。
自分の文字がコンピュータの画面に表示され、プリンタから滑らかに印刷されていく。その様子を青年は信じられないものを見るような目で見つめていた。彼の顔にかすかな希望の光が宿る。
「これで…これで、まだ間に合うかも…」
彼は震える声で呟き、充は黙って頷いた。採用されるかどうかは彼の努力と企業の判断次第だ。しかし、少なくとも物理的な「手書きの壁」はこれで乗り越えられる。
「間に合うさ。解禁日は7月1日だろ?」
「あ、はい。どうも終わらない、間に合わないイメージが強すぎて。まさか解決できるとは思いませんでした」
それから数日。真田無線には連日その青年が訪れた。充は彼にノートPCとプリンタの使い方を教え、履歴書や企業別エントリーシートの作成を手伝った。未来も時折自分の就活の経験談を披露し、面接対策や書類の効果的な書き方をレクチャーした。
青年は驚くべき集中力で作業を進め、みるみるうちに大量の応募書類は完成。彼の顔から最初の絶望の色は消え、代わりに未来への希望と、戦う者の気迫が宿り始めていた。
* * *
彼が真田無線に来なくなってから数日が過ぎたが、充と未来は彼がどうなったのかは知らない。彼が秘密を守るためにも、余計な接触は避けるべきなのだ。
未だタイムスリップの「揺り戻し」が来ない平穏な日が続くある日、充は競馬新聞を広げていた。1994年6月下旬。この時期に開催されるG1レースといえば――
「ほれ未来さんや。馬券買いに行こう」
「G1があるのね?」
「おうさ。宝塚記念だ。馬連12倍。ドバっと100万円くらい賭けてもオッズはピクリとも動かないぞ」
邪悪な微笑みが、ふたつ。真田無線の臨時休業の札を入口に残して駅へと向かう。
この時代の場外馬券売り場に行き、ひっそりと勝馬投票券を購入。数日後、充と未来はレースの結果を確認し、楽しげなステップを踏みながら賞金を手にしていた。
「よし!」「っしゃあ!」
充は小さくガッツポーズ。未来も負けじと声を揚げる。
その日の夕方、未来が店番をしていると、見覚えのある若い男性が真田無線の前を通りかかった。スーツ姿で、顔には晴れやかな表情を浮かべている。彼は店の前で立ち止まると店の奥にいる充と未来に視線を向け深々と頭を下げ、雑踏の中に消えて行った。
「サナっさん、あれ、あの時の……」
充はコーヒーを飲みながら頷く。
「ありゃあ、相当いいとこの面接にでも呼ばれたんだろう。山一や拓殖じゃなきゃいいけどな」
「そういえばノートPC、あげちゃってよかったの?」
「ちゃんと口止めして金は取ったよ、3000円。メモリ64MBにHDDが4GBだからね。現代じゃ2000円でも売れるかどうかって品だし、おいといてもスペース食うだけだ。売れて良かったよ」
彼がどうなったのか。それは彼自身の物語。充と未来はその物語のほんの一瞬に立ち会い、少しだけ手助けをしたに過ぎない。
しかし、その手助けが、彼の未来を、そして彼の一家を救ったのかもしれない。
* * *
昼間の梅雨の蒸し暑さがまだ肌に残る中、真田無線にはいつものように静寂が訪れた。
充はあの青年の顔に浮かんだ絶望の色を思い出す。
履歴書は手書きが必須という2025年では意味不明な、しかし彼にとっては絶望的な壁。
情弱の老害が言い出した迷信のようなしきたりが当たり前のように世の中に蔓延っていても誰も疑問を感じないことへの恐怖と怒り。
時代が30年違うとこここまで違うのか――充はため息を付いた。
「いかんな。これも俺達の時代の礎となった人たちの生きた時代なんだ。蔑んではいかん」
窓の外を眺めながらあれこれと考え、自分の中に湧き出てくる万能感や超越感のようなものを振り払う充。たまにこうしないと自分でも恐ろしくなるほど店の在庫を使って何かをしてやろうという考えが出てきてしまうのだ。
しばらくすると建物全体が揺れるような奇妙な感覚。タイムスリップに似ていたが以前のような激しい唸りや認知の歪みは伴わない。ただ、すとん、と何かが切り替わるような静かな変化だった。
充は自分が見ていた窓の外の景色が先ほどまでとは違うことに気づく。見慣れた2025年のネオンサインが瞬いていた。
「……戻ったのか」
充は独り言ちた。身体にタイムスリップ特有の不快感はない。ただ意識が過去から現在へと滑らかに移行しただけのような不思議な感覚だった。
二階から未来が降りてきた。シャワーを浴びたばかりなのか髪が少し湿っている。彼女もまた店の変化に気づいたようだ。
「あれ?サナっさん、いつの間に戻ったの?」
未来が不思議そうに充を見る。
「今、みたいだ。気づかなかった」
充は立ち上がり店内を見回した。見慣れた2025年の真田無線がある。
「今回は静かだったねえ、タイムスリップ」
「いつもみたいに、店が揺れたり変な音したりしなかった」
「ああ。まあ、静かな方が助かるな」
(人間だったら、だんだん上達してコツでも掴んだようなもんだろうか?)
充は何かしら考えては見たが、正解など求めるべくもない。
温くなったコーヒーの湯気と静寂の中で過去は夢のように薄れてゆく。
充はカップを置き、目の前のキーボードに手を伸ばした。
* メモリ64MBにHDDが4GBだと、WindowsMeでも余裕で動きます。まして、Windows95は1995年11月発売。青年はそれなりのハイスペックPCを3000円で手に入れたわけです。
* 私もヘタ字をいくつか持っていますが、ユーモラスでいいですね。
* 手書き風でもあんまり上手だとバレちゃいますよね
( https://fonts.google.com/specimen/Zen+Kurenaido )
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