昭和50年の野球部の部室(前編)
すいません。未来のルビ他、結構ミスがありました (17:00)
♬ぴぽぴぽぴんぽーん
充がガラスケースに中古のSSDを棚に並べていると軽やかな来客音が響いた。
午後の光が店の中に伸びる中、軽く欠伸を噛み殺しながら顔を上げる。
「らっしゃい。ああ、未来ちゃんか」
ドアから入ってきた未来は、バッグを片手に店内を見回しながら微笑んだ。
「こんちはサナッさん、相変わらず埃っぽい店ね」
「おいおい、上はともかく店は毎日掃除してるぞ? 埃っぽいならそれは外から持ち込まれたもんだ」
「私が埃っぽいって言いたいの?」
未来はくすりと笑いながらバッグから消臭ビーズの箱と空間消臭剤のスプレーボトルを取り出した。
透明な容器に詰まった丸い粒が陽光に透け、キラキラと輝く。
「前から気になってたんだけど、4階に泊まるときちょっと臭うのよね。今日は特別サービスで、空間消臭剤も持ってきたわ」
「特別サービスって……誰も頼んでないぞ」
充が呆れつつも笑うと、未来は消臭スプレーをシュッと店内に散布し始めた。
軽やかな柑橘系の香りが瞬く間に広がり、雑然とした店内が不思議と清々しく感じられる。
「おお、これはなかなか」
「でしょう? 部屋も店も、匂いがいいだけで印象がすごく変わるのよ」
未来が冗談めかしてくるくると店内を回り、スプレーをあちこちに散布する。
「ちょっとやり過ぎじゃないか?デリケートな電子機器を扱ってるんだぞうちは」
「でも、まんざらでもないんでしょう?」
充が笑いながらも未来を止めようと一歩踏み出した瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
次に気がついたときには、外から聞こえる雑踏の音が微妙に違っている。
充は慣れたように外の様子を確認しにドアを開けた。
街を歩く小学生たちが賑やかに嬌声を上げている。
「終身刑!」
「私アホやねん~♬」
充は聞き慣れないこれらのセンテンスを流行語だと割り切ってAI検索にかけた。
「ええと……昭和50年、か。ずいぶん昔に飛ばされたもんだ」
シャンデリアの館には今もあの可哀想な奥さんがいるのだろうか――ふと、そんな考えがよぎる。
「だいたいどんな時代?」
「おばちゃんに自転車を売っただろ。あれの2年前だ」
「……参考になったようなならないような……?」
* * *
♬ぴぽぴぽぴんぽーん
翌日の午後、店に入ってきた制服姿の高校生が戸惑ったように固まっていた。
「らっしゃい。何かお探しで?」
「あの……すみません。ここって電気屋さんですよね?」
「ジャンク屋だけど、まあ電気屋の範疇ですよ」
高校生は鼻をくんくんとさせながら、少し照れ臭そうに口を開いた。
「どうしました?」
「ラジオの電池を買いに寄ったんですけど、なんか、すごくいい匂いがして……あの、これ、売ってたりしませんか?」
充は思わず未来と目を見合わせた。未来は肩をすくめ、悪戯っぽく笑っている。
「うちは電器屋なんでそっちの方は売り物じゃないんですけど……」
「そうですか……実は僕、近くの高校の野球部なんですけど、ちょっと匂いのことで困ってまして……」
「ふうん?」
充は軽く息を吐いて高校生に丸椅子を勧め、自分も事務椅子に座る。
「立ち話もなんだし、まあどうぞ」
高校生は少し恥ずかしそうに、しかし真剣な表情で話し始めた。
「えー、ではあらためまして……僕は岡部といいます。外神田商業高校の3年生です」
「真田です、よろしく。こちらは沢村さん。で、困ってることって?」
未来が軽く会釈して充の横に立つ。
「ええと、実はうちの野球部、廃部の危機なんです。僕ら3年が抜けると、もう部員がほとんどいなくなっちゃって……。去年も今年も、新入生が何人か興味は持ってくれたんですけど、部室に一歩入るなり逃げ出してしまって」
充は思わず顔をしかめた。
「その原因が匂い?そんなに酷いの?」
岡部はうつむき加減に頷いた。話は続く。
「汗と泥、先輩たちが吸ったタバコや買い食いの残りにネズミの死骸……そんな匂いが蓄積して、それをなんとかしようと強力な芳香剤をいくつも使った結果、もう言葉では言い表せない悪臭になってしまったんです。僕らですら入るのが嫌になるくらいで」
未来は想像してしまったのか、小さく肩を震わせている。
(この時代は、臭い匂いにはもっと強い匂いをぶつけて解決してたって何かで読んだことあるわ。消臭なんて概念がなかったみたいね)
未来が充に囁く。
岡部は心底困り切った様子だ。
「それで、来月の文化祭が最後のチャンスなんです。部員の総力を上げて掃除と消臭をし、部室の前でたこ焼きでも焼こうかと思います。興味を持ってもらった下級生に部室を見てもらえれば……」
「それはまた挑戦的な計画だな。それで匂いの対策がしたいのか」
岡部が真剣に頷いた。
「はい。さっき嗅いだ、この店の匂いみたいに爽やかで清潔な香りなら、もしかしたら新入生も嫌がらずに入ってきてくれるんじゃないかと思って」
未来が充に視線を送り、小さく頷く。
充は少し考え込むように天井を見上げてから、岡部に向き直った。
「じゃあ、岡部君、これは電器屋の主人がお客さんにするアドバイスじゃなくて、大人の俺がまだケツの青い若者に対して言う言葉だと思って聞いてくれ」
「はい……」
岡部は神妙な顔で椅子に座り直す。
「消臭も必要だが、それ以上に必要なのは掃除と洗濯の習慣だ。薬剤を振りまくだけでは何も解決しないぞ。まずは君ら3年生のこれまでの部室の使い方を反省するところから始めないと、せっかく入った部員もまた出て行ってしまうからな」
「……そうですね……」
「順番的には、まず部室全体の徹底的な掃除が先だな。それをやった上で、最後に仕上げの薬剤だ。やり切る覚悟があるならそこまで手伝ってもいいが、どうする?」
岡部は拳を握りしめ、意を決したように立ち上がった。
「もちろんです! 野球部は絶対に俺達の代では潰しません!俺達3年生はもう試合には出られませんが、これだけはやり切って引退したいんです!」
その熱意に、充も未来も思わず微笑んだ。
「じゃあ、文化祭まではまだ時間があるし、掃除の作戦を立てるところから始めようか。明日、部室の様子がわかる写真を何枚か撮ってきてくれ。床、壁、ロッカー、あとできれば換気扇のあたりも。構造が分かれば、ちゃんとした手順を考えてやれる」
「わかりました!写真部の連中の力を借りて、すぐにでも写真を用意します!」
迸る熱意。写真部の連中にとってはいい迷惑だろう。
日がそろそろ暮れようとしていたころ、岡部は申し訳程度に電池を2本買い、真田無線を後にした。
「ねえ、サナッさん。本気でやるの?あの子、学生服も凄い匂いしてたわよ。まずあの子にファビョリーズか何かをかけて、嗅覚を正常に戻さないといけないんじゃない?」
未来が鼻をつまんで手をひらひらと降ってみせる。
「例の部室で着替えたりしてたからそうなったんだろうな。まあ、若者が本気で来てるんだ。大人としては本気で迎えてやらないと……って、それよりすまん。持ってきてくれた消臭剤とビーズ、あいつらに渡すことになりそうだ」
「いいわよ。だけど今晩はそれ、4階で使うからね?」
その日の晩、未来は4階の部屋で鞄の中から出した香水をシュッと手首にかけた。
「気づけよ……バカ充」
* 「死刑」「私馬鹿よね~」と書きたかったけど書けないチキン。
* 今も自動車用などでありますが、当時は消臭剤より芳香剤の時代。より強い香りを出すことで嗅覚を麻痺させるような狙いもあったようです。消臭剤の登場以来、芳香剤はかなり存在感が薄くなりましたね。




