昭和52年の移動販売(後編)
店の裏手には埃をかぶった大きな銀色の布がかけられた物があった。
充がその布を引きはがす。中から現れたのは三輪タイプの電動アシスト自転車だ。
車体はやや無骨なデザインだが、荷台は広く、後部には金属製の小さなキャリアが付いている。
バッテリー部分には古びたステッカーが何重にも貼られていたが、それでもフレームの溶接はしっかりしていて、タイヤのゴムもまだ新しさを保っていた。
「もともとうちの店で引き取り用に使ってた三輪車です。でも最近車を買っちまったんでこいつは物置で眠ってたままになってました」
戻ってきた充がそう言って、店先に三輪車を引いてくると、女性は目を丸くした。
「これ……なんだか変わった形ね」
「三輪で荷台付き、ちょっとした仕掛けがあります。漕いでる時に少しだけ力を足してくれる仕組みで。免許もガソリンも要りません。変な音もしないし、こっそり坂を登れる便利道具です」
女性は眉をひそめながらも、そっと車体を一周するように眺めた。
「運搬には良さそうだけど……電気? いや、まさかね……」
未来が横から覗き込み、小声でつぶやく。
(この時代の人、電動って言葉を自転車に使う感覚ないもんね)
(まあ、ここは俺が作ったことにしとこう)
女性はしばらく三輪車を見つめたまま、口元に手を当てていた。
「お察しの通り、電気の力をちょいと借りれる三輪車ですよ。ほら、ウチは電器屋でしょ?洗濯機のモーターをチョチョイとつけて、小さいバッテリーを組み込んだんです。ほら」
充はそう言ってACアダプタを取り出し、自転車に差し込んでみせた。
充電中の赤いランプが申し訳無さそうに光り、充電が始まる。
「乗らない時はこうやって充電するといいです。あんまりほっとくとバッテリーに良くないんで、ほどほどに充電したら外してください」
「え……ええ。なんだか凄いものを作れるのね、電器屋さんって。でもこれなら坂を登れるのかしら……?あ、えっと、コケたら重いわよね?」
「三輪なんで基本的には倒れません。逆に最初は曲がるときの感覚が独特ですけど、そこは慣れです」
「それ、乗ってみてもいいかしら?」
充はうなずき、三輪車のバッテリーを軽く確認すると女性をサドルへと促した。
「まずは店の前をぐるっと回ってみましょう。どうせなら、荷物も試しに載せてみませんか?」
女性はおずおずと荷台に自分の買い物袋を置き、サドルにまたがった。軽く踏み込むと、三輪車はゆっくりと滑るように動き出す。驚いたように振り返りながらも、彼女は笑っていた。
「こんなに軽いなんて……」
三輪車は真田無線の前の通りを、小さくひと回りした。
ぎこちないハンドル操作。右折がやや大回りになる。しかし女性の表情には、不安よりも好奇心が色濃く浮かんでいた。ペダルを踏むたび、背筋が少しずつ伸びていく。
「……なんだか、夫が後ろで押してくれてるみたい」
戻ってきた女性が少し照れたようにそう言うと、未来が優しく頷いた。
「あ、でもさすがに家は遠くてここから乗って帰るのは辛いわね……」
「だったら、その坂道とやらまで車で運びますから使えるかどうかテストしましょう」
「え?どうやって運ぶの?」
「お前さんも見ただろう。うちにはあんな三輪車一発で運べるスーパーロング・ワイドなバンがあるんだぜ?」
充は親指で車庫を指し、にんまりと笑った。
「なんか見慣れないものがあると思ったら……あれも買ったのね……?」
「おっとと。じゃあ、今日は一緒にご自宅まで。実地試験ですから」
「うちに来てくれるんなら、リアカーつけていいかしら?この後ろのカゴだけじゃお野菜入り切らないから」
* * * *
日が落ちかけたころ、バンはニュータウンに隣接する農道に止まっていた。
「ほんとうに、ありがとうございました。……あの坂が登れるなんて思ってもみませんでした」
女性はそう言って、三輪車のハンドルに触れた。その後部には小さく軽いリアカーが連結されており、中には黄色いメッシュコンテナが並べられている。
「夫とやっていたころ、畑で穫れた野菜を軽トラの荷台に積んで……この坂を何十回と上ったんです。……だけど自転車で、しかも一人じゃさすがに無理でした」
「たぶん私でも無理です」
未来が小さくつぶやいた。
「でも時代が進めば事情も変わります。その結果、状況がひっくり返ることもありますよ。今日、奥さんはちょうどその節目に出会ったんです。ただ、これ、法律的にOKかどうかは分かりません。なので俺が作ったことも含めていろいろ黙っておいてもらえますか」
女性は深くうなずいて、少しだけ空を見上げた。
「朝五時から畑に出て、午前中に荷を積んで、団地の坂を登って……暑くて、しんどくて、それでもお昼過ぎにはぜんぶ売れてた。あの頃は、体よりも声のほうが先に枯れてました」
「にぎやかだったんですね」
「ええ。あの人は声が大きい人だったから。『スイカあるよー』って、坂の下からでも聞こえるくらい」
女性の目が細くなる。ノスタルジアと静かな決意とが混じり合うやさしい光。
彼女は何度も礼を言いながら、リアカーを引いた三輪車で夕暮れの坂を登っていった。
* * * *
数日後の午後、店内の空気はいつもより静かだった。
充はカウンター奥でスティックタイプのドリップコーヒーをマグカップに差し込みながら、ふと壁際のブラウン管テレビに目をやる。ちょうどローカルニュースの特集が終わりかけていた。
『ニュータウンの坂を登る、ひときわ目立つ三輪の移動販売車。旬の味を届ける姿が注目を集めています——』
画面に映るのはリアカーを引いた三輪車。ハンドルを握るのはあの女性だった。
汗をぬぐいながらも子どもににんじんを渡し、おつりを丁寧に返すその仕草、そして弾けるような笑顔が彼女の充実感を物語っている。
「お、出てるね」
充がテレビを指さして言うと、未来がアイスコーヒーのグラスを片手に、カウンターに腰掛けた。
「しかも、けっこういい扱いで映ってた」
「まあ、リアカーつけて団地の坂を登れば、そりゃ目立つさ」
「自転車メーカーの名前が出たら不味いんじゃない?」
「そこはちゃんと、塗装と似たような色のステッカーで見えないようにしてある」
画面が次の話題に切り替わる。
代わりに、店内には湯沸かしポットが沸騰を告げる音だけが響いた。
「そのうち、あのへんにもスーパーができちゃうんだろうな」
充がつぶやくように言うと、未来が少し間を置いて答えた。
「うん。でも、いま必要とされてるのは、あのおばちゃんの声なんだと思う」
「声か」
「うん。『今日はスイカが甘いでー』って叫んでる声。買いに行くんじゃなくて、呼ばれて気づく。そういうのが、今はまだ必要なんじゃないかな」
充は、しばらく何も言わなかった。
カップに湯を落とす。香りが立つ。
「……8月って、G1なかったよな」
「え?」
未来が不思議そうに首をかしげる。
「いや、ちょっと思い出しただけ。今回は儲け損なったな、と」
未来は氷の音を鳴らしながら、ちらと窓の外を見た。
「そういえば、あのニュータウンの掲示板に『生協が秋に開店予定』って張り紙出てたよ」
「やっぱりか。私鉄の駅もできるだろうから、系列スーパーとの食い合いになるな。けど、それでもおばちゃんにとっては今、坂道を登って売りに行く充実感と達成感が必要なんだろう」
「うん。しんどいのに、やってみるって言える人は強いね」
充はうなずくと、机の引き出しからスティックをもう一本取り出し、手早く封を切った。
「俺が我慢できるのはコーヒーの熱さくらいのもんだな」
湯気の向こうで、未来も小さく笑った。
* * * *
——2025年の8月。
午後の日差しは容赦なく、店の裏口から入る風もぬるい。湿気を含んだ空気がじわじわと店内に広がっていて、扇風機はただ温い空気をかき回すだけになっている。
「もどってきたどー」
未来は首筋にハンカチを当てながら、ぐったりと椅子にもたれていた。日焼け止めの匂いと汗のにおいが入り混じるこの時期の空気は、いつもより肌にまとわりつく。
充は店内に戻るなり、タオルで首をぬぐいながらぼやいた。
「あ”、あっつい……暑い!やっぱ温暖化ハンパねえな」
「これは実感できるレベルで地球ヤバいわ」
未来が冷蔵庫からマイ・ジュースを取り出しながら頷く。
「ヤバいと言えば、俺達、あのバンで都内を走ってしまったけど大丈夫かな?」
充が半分ふざけた調子で言うと、缶ジュースを開けながら首を傾げた。
「なんで?大丈夫でしょ?」
「いや、今の俺のバンについてるナンバー、品川300〜とか、地名の後ろが3桁なんだよ。周りの車みんな2桁だったからさあ……」
「……ああ、周りの車が妙にこっちをジロジロ見てたのはそのせいだったのね……」
未来は思い出し笑いをしながら、うちわで顔をあおぐ。
「もうしょうがないんじゃない?みんなスマホ持ってないしSNSもないもの。『おかしなナンバーだなあ。偽造かなあ』って言いながら通り過ぎるだけでしょ」
「まあな。携帯電話ないから110番通報もできんか」
「そうね。気にするだけ無駄よ」
ようやく店のクーラーが気の利いた温度の冷気を出し始めた時、遠くの空で雷が光った。
20秒ほどして、くぐもった音が聞こえてくる。
「積乱雲か……そういやこっちでもお盆だったな……親父も帰ってきてるかな……」
降り始めた雨の音に混じって店の風鈴がちりんと鳴った。
* 感想欄をこっそり開けていたのですが、面白半分でモチベーションをへし折りに来る感想がちょいちょい来るので、勝手ながら再度感想欄は閉めさせていただきます




