平成7年の家庭教師(後編)
目が霞んで片目だけで二重に見えてきました
翌日から、少女――相田紗季の真田無線通いが始まった。
午前八時に現れて、店の裏の入口で原稿を差し出す。手書きの800字原稿用紙、時に3枚、時に4枚。それを充がスキャナに通し、OCRでテキストに変換してプロンプトと共にLLMに入力する。
午後に再び店にやって来てLLMからのフィードバックを受け取り、夜まで4階に設置した勉強机でひたすら作文の特訓。
土日ともなれば1日中、一刻の猶予もない。高いモチベーションとテンションがなければ到底乗り切れないスケジュールの中で紗季はひたすら頑張った。
「このスキャナで文章を読み込ませて、どんな指摘がくるかを確認する。指導内容はあくまでも電神様が決めている。俺は手も口も出していない。なあ?」
『そうだね。何か聞きたいことはある?』
ぬいぐるみからLLMの音声が再生される。音声はややこもっていて、性別も年齢も曖昧。ぬいぐるみの口元にはマイク、体内にはスピーカーが仕込まれており、紗季の声にはきちんと反応し、音声で返答を行った。
「こんにちは」
『こんにちは。君の作文を読んだよ。中学生活で体験した素晴らしい出来事をドラマチックに描こうとしてるんだね。これを僕と一緒にブラッシュアップしていく、で良いのかな?』
「はい、よろしくお願いします」
「ちなみに電神様は俺より数段賢く、司法試験も医師国家試験も合格出来るほどの知識はある。なので指導に関しては安心していい。質問はマイクで、書き直した作文はこのスキャナにいれて、このボタンを押す。押したら俺か未来を呼んでくれ」
充と未来は初日に20分ほどかけて操作説明を行い、紗季はこれを頭に入れたうえで手探りで作業に挑んだ。
原稿用紙をスキャンすると、読み取られたテキストが机に置かれたブラウン管の17インチディスプレイに現れる。紗季はそれが正しいか確認。間違いがなければ充に内線電話で次の処理を依頼する。
しばらくすると電神様からありがたいアドバイスが音声と画面に現れるので、指摘されたところの書き直し。このループを繰り返して1日の作業が終わる。
一連の作業はそのうちRPAで完全に自動化したいところだが、今のところはまだ充の介在が必要だった。
紗季が気に入ったのは、ぬいぐるみに同じことを繰り返して言わせる機能だ。
「もう一回言って」
そう言えば、ぬいぐるみは少しだけ間を置いて同じ話を繰り返す。
ただ、LLMのクセなのか、必ずしも同じようには話さず、同じ意味のことを違う表現で言うのが面白いらしい。
『この一文の感情の流れは、前段と繋がっていないように見えます。遠足の情景を語るなら、時間の流れに沿った記述の方が読者に届きやすいでしょう』
『最終段の結論に向かって、全体のテーマを強調する一文があると、まとまりが出ます』
『あなたが感じた"悔しさ"を、もう少し具体的に書けますか?』
紗季はメモを取りながら、時に悔しそうに唇を噛み、時に「なるほど……」と呟き、原稿を書き直す。
「これ、ほんとに真田さんがアドバイスを考えてるんじゃないんですか?」
「俺はずっと店番してるよ。それに、俺の国語の成績は多分君よりも悪かったと思う」
二日目の原稿は明らかに文章の構成が整理され、ドラマ性も出ていた。三日目には情感の表現に厚みが増し、四日目には一本目が完成、別テーマで二本目に取り掛かるような超ハイペースで作文特訓は続いた。
二日目の夜に自動化が完成し、三日目から充の作業が必要なくなったため、一気にペースが上がったのが勝因と言えるだろう。
「これ、……あの時の景色が、こんな風に言葉にできるなんて思わなかった」
先生からOKが出た一本目の作文のタイトルは『夕映えの音』。祖母が深刻な病気で入院し、家族がそれぞれの思いから衝突した直後の春の遠足で見た、帰り道の夕焼けを題材にしたものだった。電車の窓から見えた風景と、頭から離れない家族の会話。何気ない一日が実は大事な一日であり、自分の生き方を考えさせられた――そんなテーマを、紗季は初めて文章にできた。
二本目はクラブ活動で部長になった直後、ある出来事を通じて年下の子達を指導する難しさを痛感した、というようなテーマ。これはまだ締切が先なので気持ちにある程度余裕を持って書けたようだ。
「じゃあ、とりあえず一本目をあちこちに投稿しよう」
「あちこちに?」
「新聞社、教育雑誌、文科省の分も。あとは副賞が豪華そうなところを二つ。出すだけタダなんだ。出して損はない。二重投稿を認めているかどうかはコンテスト事務局にあらかじめ聞くといいよ。経験的に、入賞作品の著作権は主催者に帰属させる、みたいなところはダメだと思うけどね」
「なるほど。やっていい事ならやったもん勝ちですね」
「その通り、だがまずは締切厳守だ。締切を破った原稿なんて誰も読んでくれないからな」
「……はい!」
六日目の午後、紗季は作文のコピーを封筒に入れながら、何度も頭を下げた。
紗季は文芸部の部長だという。この手の作品制作や賞への応募は部活動として認められそうだと聞いて、今回の投稿を思いついたのだそうだ。
「二本目ができたらそれはそれであちこち投稿しよう。世の中にはこんな、公募情報を集めた月刊雑誌があるんだ。ここに『学生向け』って書いてるだろ?こういうところに夏休み中バンバン応募するんだよ。文章の練り方はもう、だいぶ判ってきただろう?」
充が書店で買ってきた月刊誌を紗季に渡す。
意外に多い作文募集の記事に紗季の目は輝きを増した。
若者特有の間違った万能感か、それともやる気の現われか――。
「はい。何かコツを掴めたような気がします」
充と未来はまるで孫を見守る老夫婦のように目を細めて頷いてみせた。
「俺も君の志望校の推薦の要項を見てみたんだよ。推薦入試って、小論文の試験があるみたいじゃないか。そういうのも、行き当たりばったりじゃなくて事前にある程度文章を組み立てておいて、現地で書き下すといいよ」
「なるほど……テーマが事前に判っているなら現地で考えるのは単に準備不足ってだけですもんね。うん!本当にありがとうございました!これがダメでも、頑張れたって思える気がします!」
「結果は知らんけどな」
充が肩をすくめた時、ぬいぐるみが唐突に喋り出した。
『結果はあとからついてきます。あなたはすでに、価値のある挑戦を終えました』
一瞬の静寂のあと、紗季は噴き出した。
「うわ……ずるいな、これ……最後の一言が一番沁みた」
未来がにこりと笑い、ぬいぐるみを撫でる。
「お疲れさま。これで紗季ちゃんの戦いは一段落だね」
その日、紗季は何度も礼を言い、プリントアウトされた大量の作業ログを紙袋に入れて真田無線を後にした。
「それにしても……いいの? 結局、正体はバレてないけど、あれAIの作文添削だったんでしょ?」
「仮に紗季ちゃんがAIの存在に気がついてて、AIの助けを借りたと誰かに言っても信じてもらえないさ。そんな技術はこの時代にはないからな。それに、そもそも作品の土台はあの娘の体験記だ。他の誰かの作品をパクったわけじゃなし。自分で書いたものだと胸張って言えるだろ。そのためにキーボードじゃなくて手書きで書かせたんだ」
「でも、ちょっと感動したな。サナっさん、ジャンク屋やめて塾やったら?」
「やめろよ。俺が今まで何件潰れた塾の機材を引き取ったと思ってるんだ」
「へえ?」
「あれはあれで難しいんだよ。多分だけど」
% shutdown -h now
充がポケットサーバーの電源を落とすと、ぬいぐるみは沈黙したまま、店の片隅で眠りについた。
* * *
――2025年、現代の真田無線。
未来がスマホで何かを見つけて叫んだのは、その朝のことだった。
「さなっさん! 見てこれ! 相田紗季って子、1995年の作文コンクールで優秀賞とってる!」
「へえ、どこで?」
「全国新聞教育協会! あとこっち、文科省の夏休み作文コンテストでも入選だって!」
「……そうか、やったな」
充は頬をかすかに緩ませた。
「それじゃ、推薦の方もなんとかなったかもしれんな」
「うん、やっぱあの子、根性あったね」
「1995年で15歳なら、今は45歳かあ……どんな人生歩んだんだろうな」
「案外、あれがAIだってことに気がついててAIの研究のために留学とかしてるかも?」
「若者には実りある人生を送ってほしいよな。俺達のほうが年下だけど」
二人の乾いた笑いが、客の居ない店に響いた。
「まあ、今回も現地での滞在費用は電神様のおかげで稼げたし、めでたしめでたし、でいいのよね?」
「だな。馬連43.4倍で大勝利。ところで滞在費といえば未来さんや、もう4階に私物だいぶ持ち込んでるけど、あれはどうするつもりだ?」
「そうねえ。もういっそ、ここでサナっさんと一緒に住んじゃおうか?」
「……この辺、最近あまり治安は良くないぞ?女性の一人暮らしには向かないと思うが……」
「一人暮らし……ねえ」
未来の大きなため息が、窓際に飾ってあった風鈴をちりんと鳴らす。
値札のついていないぬいぐるみの黒い目が静かにそれを見上げていた。
* RAGの実装形式によっては高いヒット率はそうそうでないのですが、充は「そういう研究」をしていた人間だとご理解ください。
* 学校やコンテスト、製品などの特徴はいくつかの母体を混ぜていることがあります。「あの製品だったらこの性能は出ない」と思った時は、何か別のものが混じっていると思ってください。




