昭和47年の温泉旅館(後編)
作業台に置いてあった段ボールを引っ張り出した充は、少しだけ不敵な笑顔を浮かべ、大きな銀色の筐体を取り出して見せた。
「こいつでなら、なんとかなりませんかね」
女将の目の前に据えたそれは、銀色に光る見慣れない形状の炊飯器だった。無骨だが品のあるボディにパネル式の操作部。内釜には妙な光沢。
和服姿の女将は目を細めて観察する。
「……電気釜ですか。けれど、この大きさ……二升? いや、三升炊きかしら」
「二升炊きの業務用高性能モデルです。調整もいろいろ利く。たとえば、銘柄に合わせた炊き分けなんかも」
女将の眉がぴくりと動いた。
「銘柄炊き……?」
「新潟のコシヒカリ、仙台のササニシキ、とかね。米の個性に合わせて最適な炊き方ができる」
「……なるほど。そこまできましたか、電気釜も」
「まあ、百聞は一見にしかず。炊いてみましょうよ」
「それじゃ、未来さんや、電源頼む」
「はいなー」
未来がコンセントにプラグを差し込むと、小さな電子音と共に炊飯器が起動し、操作パネルが点灯した。
二階に置いてあった無洗米のあきたこまちをセットし、ペットボトルの水を入れる。表示されたメニューから『やわらかめ』『甘み強め』『冷めてもおいしい』をセット。フラグが一つずつ光り、炊飯の準備が整っていく。
表示部には『高速炊飯』の文字が浮かび上がった。
女将は無言で、その様子をただ見つめている。
「これでそこそこ合格の味になる。名人芸には劣っても、ダメ出しを食らうほどでは無いはずです」
「そんなに……ですか」
「逆にいえば、これで飯がまずければ水か米、研ぎ方、炊き方、保存方法が悪いって話です。後は原因を一つずつ潰していけばいいでしょう」
数十分後、湯気とともに甘い米の香りが店内に広がった。
「──炊けました」
「こんなに早く!?」
よそった飯を女将に差し出す。充は冷蔵庫から自分用に隠しておいたやわらぎの漬物を添えた。
女将は箸を手に取ると、一口、ゆっくりと口に運ぶ。
噛んだ瞬間、目に光が宿り、次の瞬間には涙が浮かんでいた。
「……甘い……やわらかいのに……粒が立ってる……!」
夢中で二杯、三杯と平らげた女将は、湯呑の冷茶をぐいと飲み干して、ぶはぁっと大きく息を吐いた。
「いけます!これなら お客様をがっかりさせずに済みます!」
「それはよかった。ですが……」
充は声を低くした。
「この釜、表には出せません。変に目立つと厄介なことになります。特注の電気釜だと言い張ってください」
「三上様からもそのあたり少し伺っておりましたが、どういうことなのでしょう」
「世の中、大っぴらに出来ないことは多々あります。ここは外神田。千代田区です。わかりますね?」
女将はハッと息を呑み、周囲を見回す。
「大丈夫ですよ。ほどほどにお目溢しはあるんで。ですが一点。くれぐれもこの炊飯器をどこで手に入れたかは秘密にしてください。吹聴なさらないように」
女将は深く頷いたが、その肩は少し震えている。
飯が不味いと相談をしたら得体の知れない組織に目をつけられるとか、確かに悪い冗談だ。
しかし、女将も自分の舌に嘘はつけない。夢中で平らげた三杯の白飯、それが全てを物語っている。
「わかりました。これは……そう、何かの『ご縁』ということで」
「そういうことにしておきましょう」
女将の決意の眼差しに、充は軽く肩をすくめた。
炊飯器をポンと叩いて話を続ける。
「こちらとしては、返品不可のがらくたという扱いです。調子が悪くなったらそれまで。私達にも修理はできません。それまでに今の釜で同じくらいの飯が炊けるようにしておいてください。まあ、滅多なことで壊れはしませんが、ちゃんと手入れはして下さいね」
女将は、炊飯器のハンドルをそっと握りしめた。
「本当に……ありがとうございます」
「そうだ。三上さんには、あんまりこういうことするなって言っておいてくださいよ」
女将は一礼すると炊飯器の段ボールをタクシーに乗せ、東京駅の方へ去って行った。
その日の夜。
真田無線の店内にはLEDの光が灯っていた。
窓にはカーテンの向こうで未来がうきうきと踊っている影が見える。
「単勝四・七倍! 枠連八倍! 凄いじゃない、サナっさんの記憶力!よくこんな昔の競馬の結果まで覚えてるもんよね?」
「杉原って大学の同期がな、頼みもしないのに延々と『伝説のレース』だの『奇跡の復活』だのと動画を再生しながら語ってくれるんだよ。そりゃあ少しは覚えるわ。まあ、今回はそんなに倍率も高くなかったけど」
「でも、ダービー取れたのは嬉しいよ!」
未来は小躍りして喜んでいる。
「前の菊花賞の時の万札が使えたのは良かったな。買い物に行くたびヒヤヒヤするんだ」
「そうね。この伊藤博文さんの千円札使う時は番号の色に私も気をつけるわ」
「頼む。偽札だと言われたら大変だからな。今回の稼ぎはいっぱい千円札にしておこう」
この時代の千円札は昭和51年で番号が一巡して、番号表記が黒から青になっている。つまり、今充たちがいる昭和47年に番号が青いインクで印刷された千円札は存在しない。これを知らずに青いインクで番号が書かれた千円札を市中で使えば、ほぼ確実にニセ札騒動になる。
あくまで本物なのだが、この時代の人にとってはインクの色以外完璧なニセ札の登場だ。その経済的インパクトは計り知れないだろう。
「それはそうと、伊豆の旅館どうなったかな」
「……わからん。客が求めてるのがどのレベルかにも寄るよな。名人芸と比較して味が落ちたんならあの炊飯器じゃ何の役にも立たんはずだが、女将のあの顔見てると、まあなんとかなりそうではあったよ」
「ダメでもともとって割り切ってもらえないと、こちらも怖くて商品渡せないよね」
「そういうこった。お前さんもだいぶ分かってきたな」
空になったやわらぎの小瓶を見つめ、充は大きなため息をつく。
「また、ガード下行って買ってくるか……」
──数日後、再び真田無線のチャイムが鳴った。
♬ぴんぽんぴんぽーん
「らっしゃい……と、お久しぶりで」
「ぷりんたのインクはあるかい?あるだけ欲しいんだが」
声の主は三上だった。例のスーツに中折れ帽。今日も煙草の匂いが漂う。
「ああ、奥にあります。ちょっと待っててください」
充が奥の棚からカラフルな小箱を腕にいっぱい抱えて持ってくると、三上はニヤリと笑った。
「女将、泣いて喜んでたぜ。追い回しの若い兄ちゃんもなんとか辞めずに済んだってさ。……だがな、あれじゃあのクソガキの技術は伸びねえよな」
「まあ、多分、研ぎか蒸らしの技術が拙いんじゃないかとは思いますがね。どうなることやら」
充は何かを拝むように眼の前で両手を擦り合わせた。拝み洗いのつもりらしい。
「言うじゃないか」
三上は鼻で笑った。
「今じゃまかないの時間は飯の争奪戦だとよ。宮様の飯がどうとか言ってるらしいが、どういうこったい?」
「ああ……それっぽいことを言って誤魔化したつもりだったんですが」
「女将にはきつく口止めしておいた。『黙ってないと、いつその筋の人間がその飯炊き釜を引き上げに来るか分からんぞ』って言ってな」
充は乾いた笑いを漏らしつつ、三上の顔をまっすぐ見た。三上もまた、愉快そうに笑っている。
「で……三上さん、その後、出世したんですか?」
三上はわざとらしく顎をしゃくった。
「あたりきしゃりきよ。お前のおかげでなコンチキショー」
「恩を返してくれるつもりなら、変な客をよこすのはやめてくださいよ。俺がいなかったらどうするつもりだったんです?」
「わかったわかった。もうしねえよ。それより何だ、そっちの姉ちゃんはお前さんのコレかい?」
きょとんとしている未来を前に、二人はしばらく笑い、ふざけていた。
――2025年7月、うだるほど暑い夏の午後。
真田無線の店内は、冷房の効いた静けさの中に小さな生活音だけが漂っていた。
充はジャンク品のPCを分解しながら、ちらりと店の奥を見やる。
未来が、手持ち無沙汰にバックヤードのPCで遊んでいた。
「ねえ、サナっさん。あの炊飯器……ああいうのまた出物ないかな?」
「何だ急に。うちの商売じゃあまりああいうのの買い取りはやってないけど」
「いや、なんか……高校の部活の合宿思い出して。でっかい炊飯器でさ、カレーの日はもう、みんな殺気立ってて」
「なるほどな。でも俺の大学の学食の飯もあんな感じの炊飯器で炊いてたけど、さほど美味くはなかったぞ……この差はなんだ?」
未来と充の間に小さな笑い声が起きた。
「後でガード下に行って、白飯に合うおかずを買ってくるか。塩辛とやわらぎが最強だな」
「塩辛は鉄板よねえ」
未来が頷く。そして、ふと思い出したようにPCの画面をのぞき込んだ。
「サナっさん、これ……」
「なんだ」
「なんか、umma4?ってウインドウ見ると、サナっさんと誰かが競馬関係チャットしてるみたいに見えるんだけど、これ誰?」
「げ……!」
頭を抱える充。未来が見ていたのは統合LLMランタイムのUI画面。
それは、充が自宅でLLMサービスを稼働させていたことを意味していた。
* ササニシキ、最近では作付面積随分減ったそうですね。
* 昭和47年は馬インフルエンザが猛威を振るった年で、全国の馬に厳しい移動制限がかかりました。日本ダービーはこの年7月に開催されています。その意味でも47年のダービーは特別なのです。
* 女将は東海道線に業務用の炊飯器乗せて運んだのか、という疑問が湧くと思いますが、チッキというサービスがありました。
* 拝み洗いは米の研ぎ方の一種です。
* 要するに、ChatGPTのWebの入力画面みたいなのが見えてたってことです




