昭和57年の口述筆記(後編)
充は椅子の背から体を起こし、ゆっくりと立ち上がった。
レジカウンターの下──先ほどまで未来が積んでいた段ボールの山の中から、ひとつの細長い黒い筐体を取り出し、未来に渡して見せる。
「これだ」
「……それって?」
岡崎の目が細められる。未来がすぐそばで小さくうなずいた。
「ICレコーダー。……ちょっと、試してみますね」
未来は手際よくレコーダーの電源を入れ、マイクに向けて話しかけた。
「はい、こちら未来、試験中です。こちら未来、試験中です」
録音を止め、すぐさま再生モードに切り替える。スイッチを指先で押すと、レコーダーから静かに音が流れた。
「ハイ、コチラ未来、試験中デス。コチラ未来、試験中デス」
岡崎は一瞬、眉をひそめた。
「音が遅い……けど妙にはっきり聞こえる……?」
「8割の速度で再生してます。時間はかかるけど、そのぶん聴き取りやすい。しかも、声の高さは変わらないんです」
未来が説明する。
「普通のテープレコーダーだと、遅くすると声も低くなって、何言ってるか分からなくなるんですよ。でもこれは違います。ちゃんと、言葉の輪郭が残るんです」
ニヤリと笑って説明を追加する充。
「このボタンを押せば、10秒だけ巻き戻せる。テープみたいにガチャガチャしなくていい。文章の途中で聞き逃しても、そこだけ戻してもう一度聞ける。毎回巻き戻して怒鳴られるより、ずっといいだろ?」
「すごい……これなら……!」
「マイクは内蔵。単三電池2本で10時間は録れる」
岡崎は震える手でそっとレコーダーを持ち上げ、その軽さと質感に驚いたように、何度も手のひらを返した。
「これなら確かに……でも、お高いんでしょう?」
「まあ、うちの店では処分価格だ。……2000円でいい。気に入らなかったら返品も可だ」
未来が笑って言葉を添える。
「ちょっと事情がある商品でね。あまり大っぴらに売れないのよ」
岡崎は一瞬躊躇したが、意を決したように鞄から財布を取り出した。
「い……いただきます!というか、ありがとうございます。こんな凄いものを……」
「ああそうだ。注意点がひとつ。これをあまり人に見せないようにして欲しい。特に作家本人には。興味を持たれて出処を探られると困るんだよ」
「……はい、わかりました」
「カムフラージュ用にマイクロカセットのレコーダーでも使ってくれ。そっちを机に出しておいて、本体は膝の上でも筆立ての中にでも。とにかく見せるな。使うのはあくまで裏方の作業のときだけ」
岡崎はこくりとうなずいた。
「これで、なんとかなるかもしれない……本当にありがとうございます……」
「お礼はいらないよ。使えるかどうかはそっちで判断してくれ。保証はできないが、応援はしてる」
「でも……このこと、誰にも……」
「言わないでくれ。俺達に多大な迷惑がかかる。あんたも無事ではすまないだろうな」
「……えっ?あの……これ、もしかして?」
充は肩をすくめた。
「詳しいことは言えないし、聞かれても答えられない。まあ、何かのスパイ道具だと思っておいてくれた方が辻褄は合うかもしれないな」
岡崎はなにか納得したように、静かにふかぶかと頭を下げた。
「諸々承知しました。ありがとうございます」
「くれぐれも……使い方には注意してくれよ」
「はい……誰にも見せません、絶対に」
そして、2000円を渡すと、岡崎はその小さなICレコーダーを胸の内ポケットに滑り込ませ、店をあとにした。
「……岡崎さん、絶対なにか勘違いして帰っていったよね?」
「それくらいの方がいいだろ」
「だったらメーカー名くらい削るなりして渡せばよかったのに……」
未来が眉をひそめる。
「メーカーに問い合わせて、逆に『知らない、うちではそんなもの出してない』って言われたほうがミステリアスだろ?」
充はクックと小さく笑ったあと、伸びをした。
「さあて、時期的には秋競馬だな。未来さんや、お前さんも自分の食い扶持くらいは稼いでもらうぞ」
それから数日後の午後、真田無線のチャイムが小さく鳴った。
ぴぽぴんぽーん♬
「こんにちは……!」
入ってきたのは、岡崎だった。服装こそ変わっていないが、頬のこわばりは和らぎ、目には光が宿っている。
「……らっしゃい。あれからどうです?」
充が促すと、岡崎はゆっくりとカウンター前の椅子に腰を下ろした。鞄を膝に乗せたまま、彼女は少し息を整える。
「原稿、間に合いました。こちらで買ったレコーダーのおかげです。余裕すらありました。先生も『ふん、やればできるじゃないか』って。無傷で済んだのは久しぶりです」
充は、一つ頷いた。
「編集部も驚いてて……次回もよろしくって。初めて、ちゃんと期待されてるって感じました」
「そりゃ、いい話だ」
彼女は鞄の中身──例のICレコーダー──をちらりと見せる。
「これ、本当にありがたくて。でも……返さなくて大丈夫ですか?」
「持っててくれ。……それは君の道具だ」
「ありがとうございます」
岡崎は、少し目を潤ませながら、深く頭を下げた。その仕草は、丁寧で、清々しい。
充が湯を沸かしに奥へ立ち上がると、未来がふと思い出したように言った。
「そういえば、サナっさん。競馬あたった話、彼女にも聞かせてあげたら?」
「……ああ」
充は思い出したように笑った。
「先日の菊花賞、俺は複勝で19番人気、未来は単勝で9番人気の馬に賭けたんだ。10万円ずつ」
「まるでお金をドブに捨てるような賭け方ですね。で、結果は……?」
岡崎が不思議そうに問いかけると、未来がニヤリと笑った。
「単勝19倍、複勝38倍。両方当たり」
「そんなこともあるんですね……!」
「人生も同じさ。誰にも期待されてなかった伏兵が、大穴をあける。――そういう瞬間は、ある」
充の言葉に、岡崎はゆっくりうなずいた。岡崎は少し考え込むように視線を落としたあと、小さな声で言った。
「実は、私も……自分の作品に手を付け始めたんです。まだ途中だけど……なにかこう、手応えみたいなものを感じるんです」
「じゃあ、それを走らせてみればいい」
未来が、少し照れたように微笑む。
「岡崎さんの人生です。誰に賭けられなくたって、自分で賭けて、自分で走ればいいんです」
「……ありがとうございます」
岡崎はもう一度、深く頭を下げると、ICレコーダーを胸に抱え、真田無線を後にした。
チャイムの音とともに扉が閉まると、店内には再び静けさが戻った。
「あんな旧式のレコーダーが人を救うなんて……」
「……俺の商売、わかってきたか?」
「こっちの方も、辞められないわね」
財布を開き中を見てにやりと笑う未来。
中には、競馬で儲けた1万円札がぎゅうぎゅうに詰まっていた。
──2025年、真田無線。
「まあ、今回は少し胸糞悪い話だったけど、なんとかいい方向に転がったな」
「うん……よかったね。岡崎さん、ちゃんと逃げずに踏ん張った」
数日後、ネットで記事を読んでいた未来が、ぽつりとつぶやいた。
「さなっさん、あの藤堂って作家……数年前に亡くなってた。最後は孤独死だって」
「……そうか。どのみち、今の世の中であんなことしてたら出版社も本人もネットリンチにあって社会的には死んでるよな」
「そうね。最近、そんなニュース多いもの」
ネットでは毎日が祭りのように、立場の強いものが弱いものへ性加害や虐待をしたニュースが流れている。加害者側のその後の人生が、どれも犯してきた罪を贖うに相応しいものであることを願うばかりだ。
「岡崎さんの方はどうなったんだろうな」
「岡崎さんはね、小さな文学賞を取ってた。そのあとしばらく、スパイ小説書いて人気出てたみたい」
充は少しだけ目を細め、どこか懐かしげに呟いた。
「……それ、あのレコーダーのせいだな」
未来はニヤリと笑った。
「いや、出処不明の機器を売る謎の二人のせいでしょ?」




