昭和57年の口述筆記(前編)
ぴぽぴんぽーん♬
作業台の脇に置いた段ボールの山を前に、充は工具を置いて顔を上げた。
「らっしゃい」
昼下がりの真田無線。外では梅雨の合間の晴れ間に、軒並みの雑貨屋が段ボールを日干ししていた。
入ってきたのは未来だ。オフィスカジュアルな装いのまま、片手にアイスコーヒーのカップをぶら下げている。
「どうも、お疲れ様でーす。……おっ何だ何だ?」
彼女の目が止まったのは、レジ横に積まれた箱。中には、細長いリモコンのような形をした機械がぎっしりと詰まっている。
「ICレコーダーだ。会議や取材でよく使われてたな」
「へー、なつかし。新人の頃、議事録取るのに使ったことあるわ」
未来はひとつ手に取り、液晶画面や十字キーをしげしげと眺めた。
「最近うちの会社では、リモート会議ソフトが音声認識で自動的に議事録を生成して、出席者全員に要約送ってくれるのよ。だからもう、新人が議事録取ったりしないの」
「まあ、当時としては結構便利なもんだったんだよ」
充は笑いながら、ラベラーで「処分品 2000円」と値段をつける。
「こいつはこいつで悪くない。再生速度が0.5倍から2倍まで自由に変えられるんだ。音程はそのままってのがミソでな」
「ふーん?」
「ピッチコントローラは高機能モデルから下りてきたんだな。実は最近の録音アプリでも、この機能入ってないやつ多いんだぞ」
興味を引かれた未来は、ICレコーダーを手に取り、スイッチをいれた。
「さなっさん、さなっさん、私未来、しゃべってるよー」
ひとしきり録音した後、再生ボタンを押す。速度を0.8倍に落とすと、のっそりとした間延びした声が聞こえるかと思いきや、意外にクリアな音声が機械から流れた。
「……でも、やっぱり変な感じね」
「自分の声ってそう聞こえるもんさ。ちょっと貸せ」
充が速度2倍で再生すると、未来の声が
「シャ・シャ・シャ・シャ・しゃべってるよーぉぉぉ?」
と早口で怒涛のように流れ出す。それを何度も早戻ししては再生し、二人は笑った。
「まあ、特に使い道があるわけじゃないけどさ、いいだろこういうのも」
「そうね。今はスマホがあるから出番は少ないと思うけど」
未来が何かを言いかけた、そのとき。
ぐらり。
視界が波打った。店内の光景が滲み、音が遠のく。
「……っく」
「サナっさん?」
反射的に作業台に手をつく充。 天井の電球が歪み、店内の奥が一瞬だけ暗くなったかと思えば──
次の瞬間、昭和の街特有の煙と湿気の混ざった冷たい空気が、充の頬をなでた。
「……秋、だな」
「うそ、また……」
店の外を覗くと、焼き栗の屋台の匂い。コートを着た中年のサラリーマンが通り過ぎ、街角には冬のボーナス商戦に向けた新発売のCDプレーヤーの宣伝。新聞の見出しには“ソ連、ア書記長死去”とあった。
「昭和……57年か。1982年の11月だな」
未来が目を丸くして言う。
「梅雨時だったじゃない、さっきまで」
「地球だって太陽の周り回ってるし、太陽だって銀河の中ぐるぐるしてる。同じ地球の上に着陸できただけでもありがたいと思えって」
充が肩をすくめると、未来は鼻を鳴らした。
「理屈で納得する気はないけど、まあ、いつものパターンだもんね」
そんな言葉の直後だった。
ぴぽぴぽぴんぽーん♬
チャイムの音に、二人の視線が入口に向く。
入ってきたのは、くたびれたコートに身を包んだ女性だった。30代前半、目の下にはくっきりとした隈。ワープロらしき機械を抱えてしきりに棚を覗いている。
「……すみません、こちら……電気屋さん、ですよね?」
「ええ、まあ……。らっしゃい。なにかお探しで?」
女性はうつむいたまま、ワープロをレジの前に置いた。
「この……ワープロの使い勝手を少しでも良くしたいんです。何か、周辺機器とか、拡張できるものとか……」
彼女の表情は疲労の色で固まっていたが、視線は泳ぎ、口元には力がなかった。
未来が目を見交わし、充がゆっくりと椅子を勧める。
「申し訳ありませんが、この機種の拡張パーツは当店では取り扱いがございません……が、お見受けしたところ、何かよほどお困りの事がおありなのではありませんか?よろしければお話をお聞かせください」
女性はハッとした顔をし、充の顔を見た。
「当店ではお客様のお悩みを解決することを第一としております。我々にも何かお力添えできる事があるかも知れません。ここで聞いた話はここ限りにしておきますので、いかがでしょうか?」
──そうして語られたのが、彼女の過酷な日々だった。
「……このままじゃ、私自身が壊れそうなんです」
女性の声は掠れていたが、その一言には切実な重みがこもっていた。
充と未来は黙って彼女の言葉を聞き、彼女の次の言葉を待つ。が、彼女はなかなか口を開こうとしなかった。
「あの……?」
充の呼びかけに、女性はおずおずと頷いた。
──彼女は、岡崎と名乗った。
岡崎は、今をときめく人気推理作家・藤堂の専属口述筆記者をしているという。
だがその実態は、想像を絶する苛酷なものだった。
「カセットテープに録音はしてます。でも……巻き戻すと怒鳴られる。ちょっとでも聞き逃すと、すぐ『使えない』って、1時間はなじるんです。『辻褄が合わない』と指摘したらへそを曲げる、ストレスが溜まりに溜まったら暴力です」
岡崎の手は、握りしめた膝の上で震えていた。こめかみのあたりに、最近できたであろう傷が見える。
「編集部には『もう少しでウチの原稿が上がるから、それまでは我慢して』って……。でも、このままじゃ本当に……」
「……潰れる、か」
充の口調は淡々としていたが、目は鋭く光っていた。
「録音してるのに間に合わないってことはどういうことかな」
岡崎が頷く。
「口述筆記者は、筆記をしながら最初の読者でもあります。藤堂は私の反応を見て、その話がウケたかどうかを見定めながら次の1行を話すんです」
「書きながら、同時に反応を見せなくちゃいけないわけだ」
「そうですね。そして反応してると書く時間がなくなるでしょう?藤堂は同じことを2度言いません。書くのが追いつかない時は、全部終わった後でテープを聞き直して書き起こすしかないんです。でも、藤堂は興が乗ると早口になりますからテープを何回聞いても巻き戻しの手間ばかりで全然進みません。作業が難航しているとあの男はまた怒鳴り込んできて、私を嬲るんです。聞き取りで殴られ、書き起こしで蹴られ……挙げ句に……」
岡崎は堰を切ったように話し始めた。目には涙が滲んでいる。
「酷い話だな……」
未来は、じっと岡崎の様子を見ていたが、ふと何かを思いついたように充の耳元で囁いた。
(それって、音声認識で文字起こしできれば解決できそうなんだけど……)
充が小さく首を横に振る。
(ダメだ。それをネットのないこの時代でやるには、それなりのパワーを持ったPCが必要だ)
(じゃあ、せめてPCにワープロ載せて、予測変換だけでも)
(それも難しい。あのワープロの画面見ろ。カラー液晶つきのPCなんか見せたら大騒ぎになっちまう)
未来は悔しそうに唇を噛んだ。
岡崎は困惑して二人のやりとりを見つめていたが、やがてまた、力なく俯いた。
「編集部も酷いんです。『君さえ黙って殴られていてくれたら、丸く収まるんだ。もし辞めたらどうなるかわかってるだろうな』って言われました。私が作家志望ってこと知ってて……」
その言葉に、未来が思わず息を呑んだ。
「……耐えるのも、逃げるのも、もう分からなくて」
充は椅子に背を預け、腕を組む。
沈黙。
重苦しい時間が流れる中、未来がそっと囁いた。
「サナっさん……何か、ないの?」
充はしばらく考え込んでいたが、やがて、ゆっくりと前傾姿勢を取り直した。
「……あるには、ある」
そして机の下に目をやり、指先で何かを探りながら、口元に小さな苦笑を浮かべた。
「でも……今回は慎重にやらないとな。人前で使える機器となると制限はデカい」
場の空気が、ほんの少しだけ、変わった。
──次の手が、ぼんやり見えかけていた。
* 私も昔、口述筆記をやらされたことがありますが、結構病みます。 文章を正確に書くだけでなく、話す本人と同等の知識が前もって要求されるなど、非常に過酷でした。あれを他人に要求する側にはならないでおきたいものです。




