昭和40年の受験生 (前編)
「サナっさん、これってなんに使うの?」
5月、ゴールデンウィークも終わり、社会人の顔に疲れとそれ以上の何かが見える、そんなある日。
仕事終わりに店に寄った未来がレジ横に運び込まれていた段ボールを指さした。開口部から覗くのは、重そうな取っ手付きの黒い箱と、布で巻かれた細長いパネル。
「見ての通りソーラーパネルだ。それと非常時のポータブル電源。アウトドアや災害向けだな」
彼女はそのパネルを持ち上げ、窓の外を見た。が、既に日は暮れそうに傾いている。彼女は諦めてパネルを箱に仕舞い込んだ。
「こっちのバッテリーはめちゃくちゃ重いね……。でもなんか、かっこいい」
「持ち歩ける電柱って感じだな。先日、モバイルバッテリーが発火した事件あったの覚えてるか?」
作業台の前に座って、入荷した小型のUSB機器の箱をひっくり返す。
充がラベラーを上下に動かすだけで、商品には瞬く間に値札が貼られていった。
「ニュースで見た。怖いわね。EVなんかが燃えてる動画もよく見るし」
「キャンプブームの時に買ったのはいいけど、ああいうのを見て怖くなったって言う人結構多いんだよ。で、いくつか引き取ってきたんだ」
「災害用の非常電源か……これをガチで使う日だけは来ないほうがいいんだけどね」
「そうだな」
未来が悲しそうな顔をするのは、彼女もまた被災者だった過去を持つからだ。
「5月かぁ。あったかくなるといろいろ変な奴が増えるんだよな。げに恐ろしきは秋葉の木の芽時なり……ってか」
「ああ……うん、うちの会社では二人ほど新人が帰省先から退職届を送ってきたわ」
「おいなんだ。お前の会社って、結構なブラック企業なんじゃないか?」
「そんなことはないと思うんだけど。で、このバッテリーどうするの?」
「ああ、都内の大学は5月に結構イベントやるんだ。その時の出店で使うとかで、結構この手のものは売れるんだよ」
「ニッチな商売ねえ……」
空の色がオレンジからゆっくりと深い青に変っていく。外の通りを、人を避けてよろよろ進むEVやハイブリッド車の音は驚くほど静かで、本当にここが都心なのかと思うほどだ。
未来は店内展示用のPCでネット動画を見ていた。昭和をテーマにしたその動画の画面に映っているのは、どこか懐かしい質感のアパート。木枠の窓、畳、天井の裸電球。
彼女は動画を途中で停止し、画面を指差した。
「ここ、いいな。こういう家に住んでみたかった。ちょっと不便そうだけど、夜が静かそう」
「実際、昭和がそんなに静かだったってことはないだろ?車のエンジン音、バイクの排気音、あっちのほうがはるかにうるさいぞ」
「場所によるんじゃない?もう少し都心から離れればさぁ……」
「……?」
彼女の声が妙にハウリングしているように充には聞こえた。
言葉を返さず、未来が見ていたPCの画面を見る充。耳に手を当てて自分の聴覚を確かめようとした時、猛烈な眠気が充を襲う。
「んむ……くそ……眠い」
「あらどうしたの?……具合悪そう。店閉めとく?」
「すまん。頼めるか。やり方わかるよな?」
充はそう言うやいなや、作業台に突っ伏した。天井のライトがじわりと滲む。視界の端が揺れる。眠気というよりは、重力の感覚が遠ざかるようだった。
「あ……しまった」
遠くで未来の焦ったような声。
そして充は眠りに落ちた。
* * *
目が覚めると、耳に入って来るのは聞き慣れないざわめき。
あちこちから、リヤカーの軋む音や、遠慮のないクラクション音が風に乗って流れてくる。微かなドブの匂いに周辺の家屋から漂う味噌汁と魚を焼く匂い。空気が違う。
充は、眠気の残る身体を起こして時計を見たが、外の景色とはあからさまに時間が合っていない。
テレビを点けると、ニュースでベトナム戦争での米軍についての解説があった。
「……これは、来ちまったな」
彼は背筋を伸ばし、店の奥を見やる。未来が、ひとつくしゃみをした。
「う……くしゅ。ちょっと寒いね」
いつもより少しだけ年相応に見える声だった。
「一晩中ここにいたのか?」
「解んないけど、サナっさんがそっちで突っ伏してからすぐに、頭がぐわんぐわんってなって気がついたらこうなってた。ここって、昭和?」
「四十年くらいだろうな」
未来はカバンからメモ帳を取り出し、さらさらと何かを書き込むと、ちらりと充を見た。
「ねえ、今回も何日かはこちらに居るんでしょ?だったら、少し歩いてみてもいい?」
「歩く?」
「うん。土地勘つけておかないと買い物にも行けないし。どこに何があるかくらい把握しときたいの」
(言われてみればその通り。自分は馬券売り場まで何度か行っていたのに、未来を店に閉じ込めておかなければいけない理由はないよな……)
実際、客はまだ現れていない。そして充の手元には伊藤博文の千円札と聖徳太子の1万円札がいくらか残っている。
「……まあ、ついてこい。昔の秋葉原ってやつを見せてやるよ」
二人は通りに出た。
再開発に呑まれて消えた昔の建物がいくつも並んでいる。青果市場に出入りするトラックの列、膝まである青果箱、店先に吊るされた電飾の看板──“電気街”というにはまだ粗削りで、商いと肉体が混じった雑多なにおいが街を包んでいる。
「……すごい、なんか、生きてるって感じ」
未来は感嘆するように呟いた。鼻をひくつかせ、両手をポケットに突っ込んで歩く姿が妙に馴染んでいる。
万世橋のたもとに継いた頃には空はすっかり夕暮れ色に染まっていた。昼の喧騒が遠のき、街が一瞬、息を潜めるような時間帯だった。
「なんか、ここ、好きかも」
未来が欄干に肘をついて川面を見つめている。そのすぐ隣で、橋の反対側に目をやっていた充が、ふと足を止めた。
古びた鞄を背負った青年が一人、欄干の端に腰を下ろしていた。学生服の上着は埃っぽく、靴のかかとはすり減り、手元に広げた参考書は風に揺れている。顔色は悪く、視線が宙を漂っていた。
「……なあ、未来」
「うん?」
「ちょっと寄り道するぞ」
「……? いいけど?」
充が青年に向けて歩を進める。
「ちょいと兄さん、受験生かい?勉強熱心だね」
声をかけると、青年がわずかに顔を上げた。焦点の合わない目が充の姿をとらえ、警戒と怯懦の表情を見せる。
「何か困ってるのか?良かったら相談にのるぞ」
「いえ、別に……何でもありません」
「何でもなくてこんなところで参考書を広げてる奴はいないよ。どうした?親に家を追い出されでもしたか?」
青年は黙っていたが、やがて参考書を閉じ、鞄にしまった。首をうなだれ、肩を落とし、重い口を開く。
「似たようなもんですよ……住んでるアパート、追い出されそうなんです」
「理由を聞いてもいいか?」
「……うちのアパートは一棟の電気代全部を各戸で割り勘するんです。で。俺、夜勉強するじゃないですか。一人だけ夜中に派手に電気使ってるって、他の部屋から苦情が出て」
「そりゃあ、受験生なら夜に勉強するわなぁ。蛍の光、窓の雪だ」
「電灯はもちろん、スタンド、夏は扇風機、冬は電気アンカとか……。でも、他の人は朝早い仕事の人ばかりで、電気代が最近高いのは全部俺のせいだって。今じゃ両隣どころかアパート全員で僕を追い出そうって話になってて、もうどうしたらいいのか……親は無理して僕を東京に送り出してくれているのに……」
無理もない、と充は思った。昭和のアパートは簡素で壁は薄く、誰が何時まで起きていて、何時までテレビを見ていたかも全部隣人に把握されているのが普通なのだ。そこに来て検針も共用メーターが当たり前。魔女狩りされるのは目に見えている。
「そうか……大変だったな。で、勉強は進んでるのか?」
「してます。……三回目の受験なんです。俺、北海道から出てきて、今度こそって思ってたんですけど、なんか、もう……」
「5月か……しんどいよな。先に合格した連中の笑顔が一番キツい時期だ」
「ちょっとサナっさん、傷口に塩刷り込んでるわよ!」
未来のツッコミに青年は、喉の奥で小さく笑ってみせたが、すぐにその表情が崩れた。小さなため息が川風に吸われていく。
「兄さん、名前を聞いてもいいか?」
「宮本……宏です」
「宮本君か。では宮本君、明日の昼頃でいい。うちの店に来られるか?真田無線って言うんだが」
「……店?」
「名前の通りの電気屋だ。変わった品も置いてる。今の君の役に立つ道具があるかもしれない」
宮本は戸惑った顔をしたが、やがて、うなずいた。
「……行きます」
その返事はどこか頼りなかったが、それでも、彼の目にうっすらと力が戻った気がした。
「じゃあ、明日な、店はこの通りを真っすぐ行って、4つ目の交差点を左に……」
言い終わると充はくるりと背を向け歩き出す。
「おまたせ」
未来は小さくうなずくと、充の後ろについて歩き出した。
「……やっぱり、こういうことが起こるのね」
「何がだ」
「んー……わからない。でも、なんとなく、そういう気がしてた」
その声は、日が沈む川面に柔らかく吸い込まれていった。
(後編へ続く)
* でかいバッテリーは家まで持って帰るのが大変です。重くて。
* 昭和の田舎は夜はウシガエル、朝は山鳩の鳴き声が無限ループして、殺意さえ芽生えます。
* 1964年の理系数学は詐欺みたいなもんですから、純真な受験生はコロっと騙されますね。