昭和45年の経理課長
真田充は目を覚ますと、いつものジャンク屋のカウンターに突っ伏していた。秋葉原の片隅にある小さな中古店『真田無線』。父から継いだその店は、充が博士課程を諦めて戻ってきて以来、彼の居場所となっていた。
「寝ちゃったか……」
腕時計を見ると夜9時を過ぎている。外に出て伸びをした瞬間、充は強烈な違和感を覚えた。街灯の色合いや路地裏の風景が記憶にあるものと明らかに違う。自動販売機もコンビニも見当たらず、街全体が何か暗い。外国人観光客の姿はどこにも見当たらず、どこか古めかしい商店街が続いていた。
「えっ、なんで……?」
急いで店内に戻る。店内の棚は普段通りだが窓から見える外の風景は完全に別世界だった。まるで昭和を舞台にした映画のセットのようだ。
充の心臓がドクンと高鳴り、冷や汗が吹き出す。
「タイムスリップ……いや、まさか?」
焦りと困惑。しかし考えはそこにしか行き着かない。
少ない情報と乏しい解決策を頭の中でぐるぐる回していると、不意に店の扉が開いた。
「すんません、まだ開いてますか?」
戸惑いながら現れたのはくたびれたスーツを着た中年の男性だった。40代半ばほど、疲れ切った表情で肩を落としている。
「は、はい、らっしゃい。どうぞ……」
男は店内を見回し困惑した表情を見せた。
「あの、計算機が壊れてしまって。治せるかね?こいつなんだが」
「計算機ですか……拝見できますか?」
男は鞄から大きく重い電卓を取り出した。明らかに1960年代頃の古い電子計算機だ。
充は慎重にそれを受け取ったが、見た瞬間お手上げだと判った。かろうじてトランジスタは使っているようだが表示はニキシー管。それも、電源スイッチを入れても表示板が光らない。
「うーん、修理はちょっと……難しいかもですね……」
男は落胆した。
「困ったなあ、僕は会社じゃ経理やってるんだが、月末の締めが近くて。そろばんじゃ間に合わないんだよ」
「申し訳ないですが、今ここにこいつを治す部品がないんです」
「38万もしたのに2年しかもたないのか。しょうがない。明日、代理店に持ち込んでみるよ」
男は計算機を持ってきた大きな鞄にしまいながらボヤいた
「38万ですか……それはまた、高級品だったんですね」
「こいつがあれば、経理が楽になって、僕の課の連中全員の残業代が減るからすぐ元が取れるって算段だったんだ。妻も娘も、僕の帰りが早くなったと喜んでくれていたんだがね……」
「そうだったんですか……お役に立てず申し訳ありません」
充は電卓でもないかと店の棚を探してみたが、近頃は何でもタブレットでやっているせいか、電卓のでの字も見当たらない。
ふと目に止まったのは商品棚に文字通り売るほどある型落ちのノートPC。
( ……だが、これをこの時代に渡していいのか?
いやいや、もしこのままこの時代にずっといることになったらどうする?先立つものは必要だぞ?
うまく言いくるめて、この時代のお札だの硬貨だのを手に入れないと、菓子パン一つ買えずに困るのは俺のほうじゃないか?――)
数秒の逡巡の途中、充の腹がグゥとなったことで結論は一気に現実的な方に傾いた。
「あの、代わりにこういうのがあるんですけど……」
充が棚からPCを取り出し、電源を入れて見せると男は目を丸くした。
「なんだこれは……? テレビか?」
「ええと、米国でも最新式の電子計算機なんです。紙がなくても画面で計算できますし、文章や表計算も……」
男はますます困惑した顔で言った。
「君、冗談だろ? こんなもの、見たことないぞ」
「米国の最新式ですよ。ほら、打ち込むところが英文のタイプライターみたいでしょう?」
充は覚悟を決めて、男に見えるように表計算ソフトを立ち上げた。テンプレートから「経費精算書」を選択すると、どこかで見たような書類が起動する。
「たとえばですね、ここに、こう、費目と金額をいれるとですね、ここにほら、合計額が出るでしょう?」
画面を見ていた男の目の色が変わった。充にとっては中古PCに入っていた型遅れの表計算ソフトだが、この男にとっては50年以上後に発売される未来技術なのだからしょうがない。
「便利そうだけど、こんなもの使える気がしないよ。そもそもタイプライターなんて外国人が使うものだろう(*1)」
「しかし、使えたら便利そうでしょう?これが使えるようになったらお客さんの仕事は何倍も早く終わること請け合いです。なんでしたら週末を使って使い方を教えましょうか?特別サービスです。」
「それは助かるが……実際問題、こいつはいくらするんだね?」
「そいつなら、15000円です」
そう答えた瞬間、充は手で口を抑えた。2025年の秋葉原で15000円で売っている中古のノートPCは、おそらくこの時代のコンピュータの数万倍の性能を持っているはずなのだ。
「15000円か……結構な値段だが、こいつよりは断然安いな」(*2)
男は計算機を入れた鞄をブラブラと揺らして見せながら、苦笑した。
「そうだな。明日こいつを代理店に持っていってもその場ですぐ治るかどうかもわからんし、ダメ元でお願いしよう」
「ありがとうございます、では週末にお待ちしています」
ノートPCの表面に日本のメーカーのロゴがないことを何度も何度も確認した後、梱包して男に渡す。代金として受け取ったのは厩戸皇子の顔が描かれた札だった。
* * *
週末土曜日の午後(*3)、男――三上と名乗った――は再び店を訪れた。充はまずキーボードやマウスから説明を始める。
「このキーボードで文字を入力します。このマウスという機械で画面の中の矢印を動かして、項目を選択するんです」
三上はマウスを触りながら、初めはまるで異次元の物に触れるかのように怯えていたが、徐々に慣れていった。
「文字を入力するときは、ローマ字で『けいり』と打つと、こうして『経理』という漢字に変換できます」
三上は不思議そうに、しかし嬉しそうに目を輝かせた。
「すごいな、これは……魔法みたいだ」
充はさらに表計算ソフトの基本操作を教え始めた。セルや計算式の概念を伝えるのに苦労したが、三上は真剣にメモを取りながら覚えていく。二日間に渡る特訓が終わった日曜日の夕方、三上はすっかり表計算ソフトで簡単な表計算をこなせるようになっていた。
「さすがモーレツ社員の三上さんだ、飲み込みの速さが違うわ」
「はははは。任せたまえ。それに今日買ったこの『ぷりんたー』があれば鬼に金棒だ。そうだろ?」
近くの電気店から聞き覚えのあるアニメソングが流れてくる道を、三上は大荷物を抱えながら満足そうに帰っていった。
* * *
数日後、三上は目を輝かせながら店にやって来た。
「驚いたよ! あれのおかげで残業が随分減った。月末も乗り切れたし、早く帰れて家族からも感謝されたよ。ははっどうなんってんだありゃあ?」
「いえ、役に立ててよかったです」
充は微笑んだ。それは充にとっても久しぶりの笑顔だった。
元の時代に帰る目処は全く立たないが、とりあえず三上が払ってくれた金で一ヶ月は食うに困らない。
今、店と倉庫の中にあるものを然るべき筋に売り飛ばせばもしかしたら億万長者になれるかもしれないが、そんなことをして歴史が変わってしまうとそれこそ自分が生まれてこない未来なんてのもあるかもしれない。
(超テクノロジーを持っているからと、異星人扱いされて、米軍に連れて行かれて解剖されるかもしれない。そんなのはまっぴらごめんだ……)
生来ビビリの充はさまざまな憶測と仮説にか細い神経を削られ続けていたのだ。
「三上さん、一つお願いがあるんですがいいですか」
上機嫌の三上に、充が真剣な顔で話しかける。
「何だい?もしかして、ぴーしーとやらの出処を聞くなとか、他人に話すなとか、そういうことかい?」
「えっ……?」
古い特撮番組でしか聞いたことのないような話し方で三上が返す。的を射た返事に充は驚愕した。
「うちは貿易商社だからね、アメリカさんがどれくらい日本より進んでるかくらいはちょっと調べれば判るのさ。畢竟、あのぴーしーってのがどれくらいとんでもないモンなのかも判るってもんだがね……」
「う……」
「お前さんが俺を助けようとしてくれたことは間違いないし、事実、大助かりだったわけだ。これからは社内、社外のライバル達を向こうに回して出世争いで大立ち回りもできるってもんさ。そのための俺だけの秘密兵器ってわけだ」
「……恩に着ます」
「なんだか訳ありなんだろう?この店のぴーしーの時計が2015年になってたのと多分関係があるんだろうな。安心しな。この店のことは信頼できるやつにしか言わねえよ。特に電機の連中には黙っとくさ」
三上が店を出ていくと、充は改めて店の外を見つめた。
「昭和45年、か……」
一体どうしてこんなことが起きたのか。謎は深まるばかりだが、充は漠然と、この店が自分に与えた不思議な使命のようなものだと感じていた。
「まあ、こういうのも悪くないか……しばらくは三上さんにプリンターのインクを売りつけてればいいや」
充は小さく呟き、店の奥に戻って行った。
(*1) 昔はタイプライターを打つための「タイピスト」という職業があり、手紙や文書作成はこの人たちがやっていました。多くは女性でした。
(*2) この時代の大卒初任給は4万円前後でした。
(*3) この時代、週休2日制はまだなく、土曜日は午後から休みという企業が大半でした。俗に「半ドン」と呼ばれていました。