アイスウーマン
私が冬を嫌いな理由?
寒いからよ。
それ以外にある?
あるかな。
北風が嫌い。雪が嫌い。霜柱が嫌い。凍りついた水たまりが嫌い。冷たい雨が嫌い。手袋をしなきゃならないのが面倒くさい。マフラーを巻かなきゃならないのが嫌。空気が乾燥してるのも嫌。唇が荒れちゃう。暖房効きすぎの部屋が嫌い。暖房が効いていない部屋が嫌い。寒すぎる朝に起きなきゃならないのが嫌。雪かきが疲れる。大雪で交通ダイヤが乱れるのは大迷惑。凍りついた道路が怖い。転倒しそう。
冬が嫌いな理由、いっぱいあったわね。
もっと挙げられそうね。
もういらない?
そうね。
でももうひとつ挙げさせてもらう。
冬にはアイスウーマンが現れる。
それが私が冬を嫌いなもっとも大きな理由よ。
アイスウーマンを知ってる?
知らないか。
まあ知っているはずはないわよね。
この世で彼女を本当に知ってるのは私だけだもの。
アイスウーマンはね、青白い肌の氷のように冷たい女なの。
外気温が零下になり、わたしの部屋の温度が零度近くになると出現するのよ。
彼女の体温は冷凍庫みたいに低い。
それなのにワンピースの白い水着を着ているだけなのよ。
初めてアイスウーマンを見たのは、14歳の1月中旬のことだった。
深夜、私が微かな物音に気づいて目覚めると、私のベッドの横に女の子が立っていた。
私を見下ろしていたわ。
表情は実に乏しいの。その顔には喜びも怒りも哀しみも楽しみも見られない。
でもね、彼女が愛に飢えていることだけはなぜか伝わってくるのよ。
最初に見たときに直感的にそれはわかった。
彼女は私を愛していて、私の愛を得たいと切望しているのよ。
たぶん体温が低すぎて、表情筋がうまく動かせないのね。もし表情筋が動かせたとしたら、アイスウーマンは哀しみの表情を見せるでしょうね。なぜって、私は彼女を愛していないから。愛している人から愛されないのは哀しいでしょう?
アイスウーマンの正体はね、私の同級生なの。
彼女のお父さんは牛肉の流通業者で、巨大な冷凍倉庫をいくつも所有している。
そこは夏でもキンキンに冷えているのよ。皮を剥かれて冷凍された牛がいくつもぶら下げられているの。
私と彼女が13歳だった夏、彼女は行方不明になった。
その日の昼、私たちはウォーターパークで遊んでいた。彼女はワンピースの白い水着を着て、私は淡いピンクの水着を着ていた。水色のビキニの上にTシャツを着た私のお母さんが付き添っていた。
私たちはイルカの浮き輪に乗って流れるプールで流され、きゃーきゃー叫びながらウォータースライダーを滑り下りた。
お昼には焼きそばを食べたわ。食後にかき氷も食べた。私はレモンのシロップがかかったやつ。彼女はブルーハワイだった。ブルーハワイってどういう味がするのかしらね。ラムネみたいな味かしら。
午後3時にはウォーターパークから出て、電車に乗って私たちの家の最寄り駅へと帰ったわ。そこで彼女と別れた。さよなら、また今度ねって私は言った。あの子は明日も会いたいなって言った。
明日はだめよ。彼氏と会うから。そう私は答えた。
その日、彼女は家に戻らず、行方不明になった。
午後7時頃に私の家にあの子のお母さんから電話があったわ。
うちの子が帰ってこないんですけど、まだお宅で遊んでいるのでしょうかって。でももちろんそんなことはない。3時に別れたっきり、あの子とは会っていない。
夜の10時に彼女のお父さんが警察に届け出た。
彼女の両親、私と私の両親、数人の警察官があの子を懸命に探したわ。だけど見つからなかった。
翌朝の8時30分、第4冷凍倉庫から牛肉を出荷しようとしていた倉庫の係員がかちこちに凍ったあの子を発見した。どうしてそんなところにいたのかわからない。第4冷凍倉庫は私たちの家からはだいぶ離れていて、徒歩だったら1時間くらいかかる。でもとにかくあの子はそこにいて、全身凍りついていた。なぜかわからないけれど、ウォーターパークで着ていた水着姿だった。救急車が呼ばれて、救急隊員が来て、隊員は搬送先の候補の病院に連絡した。
そこでどういうやりとりがあったのか知らないけれど、なぜか医師が冷凍倉庫までやってきて、彼女を診断したの。心臓が完全に止まっていて、凍死と判定された。
彼女の両親が急いで駆けつけた。医師は言ったそうよ。
お気の毒ですが、お嬢さんは凍死しています。現在の医学では蘇生は不可能です。ですが未来の医学だったら、蘇らせることができるかもしれません。なぜなら、彼女は完全な形で凍っているからです。
それ以来、彼女はずっと第4冷凍倉庫にいるの。特別室がつくられて、そこに安置されている。そこ以外のどこにも移されたことはないわ。家に連れ帰られたことはないし、別の冷凍倉庫へ移送されたこともない。
お通夜もお葬式もなかったわ。彼女の両親は彼女を生きているものとして扱ったの。一時的に凍っているだけでいずれ目を覚ます。娘は死んではいないってことにしたの。医師も死亡診断書を書かなかった。
どうしてそんなことになったのか、私には理解できない。死亡届を提出したら、蘇生したときに困ると考えたのかもしれないわね。
夏は過ぎ、秋が来て、やがて冬になった。私は14歳になっていた。あの子も生きていたら14歳になったはずだった。
1月中旬の深夜に、突然あの子は私の部屋に現れた。
私が眠っているときに窓から侵入したの。鍵を閉め忘れていたのね。窓を開けてあの子は入ってきた。私が目を開けたとき、びゅうっと冷たい風が窓から吹き込んだ。
あの子はベッドの傍らに立っていて、私を見下ろしていた。無表情なんだけど、愛に飢えているとはっきりわかる顔で。
ひいっと私はのどを鳴らしたわ。
あの子は無言だった。口を動かすこともできないのよ。でもなぜか手足を動かすことはできるの。彼女は跪いて、私の頬に手で触れた。氷のように冷たい手だった。どうして動いているのかわからない。
私は言った。どうやって来たの? 生きているの? ねえなんか言ってよ。
あの子はしゃべらなかった。
30分ばかり私の部屋にいて、窓から去っていったわ。
その翌朝、私は第4冷凍倉庫に電話をかけた。もしもし、特別室になにか異常はありませんかって。私と顔見知りの倉庫番に訊いたのよ。私はその頃、たまに倉庫へ彼女のようすを見に行っていたの。奇跡が起きて蘇らないかって微かに思っていたのよ。そんなわけで、倉庫番と知り合っていたの。
彼は確かめてかけ直すと答えた。しばらく後で、なにも異常はないよという返答をもらった。
彼女はそこにいるの?
いるよ。いつものとおりかちんこちんに凍っている。異常はない。相変わらず死んでいる。倉庫番はそう言ったわ。
どうして彼女は私の部屋に現れたんだろう。
彼女が私のことを好きなのはなんとなくわかっていた。
だからもし生き返ったら、私のところに来るのは不思議じゃない。
でもあの子は生き返ったわけじゃない。手足を動かしていたけれど、体温は冷凍倉庫並みの零下で、人間なら生きていられる温度じゃない。わけがわからなかった。
もしあの子が生きているのだとしたら、人間ではないわね。言うなればアイスウーマンよ。
極めて低温の時期にだけ行動可能な特別な生き物、アイスウーマン。
私は窓の鍵を閉めないで眠ることにした。2階だし、泥棒が入ってくる可能性は低い。来るとしたらアイスウーマンだけよ。
次の夜、私は深夜まで起きていた。
家の壁を攀じ登る者の気配を感じ取ることができた。あの子だ。アイスウーマンが雨樋をつかんで登ってこようとしている。
私の部屋の外は屋根になっていて、ついにあの子はそこに現れた。屋根の上に立ち、窓を開け、私の部屋に侵入した。
私は目を開けて寝転んでいた。
あの子はまたベッドの横に立った。アイスウーマンの目的は私の愛を得ることだと直感的にわかっていたけれど、私にはあの子に対する恋愛感情はなかった。かつては友情を持っていたけれど、いまやそれがあるかも怪しいものだった。だって、彼女はもう人間ではないんだもの。アイスウーマンなんだから。
あの子にできるのは手を伸ばして私に触れることだけだった。笑いかけることはできないし、言葉を交わすこともできない。そんなものに愛情を感じることはできないし、友情だってむずかしい。そしてあの子の手はとても冷たい。
その頃、私には2番目の彼氏がいて、恋をしていた。
そんなときにアイスウーマンを愛するのは、冬の期末試験で学年1位になるよりむずかしい。
彼女は毎晩ではないにせよ、頻繁に私の部屋を訪れた。2月末までその来訪はつづいた。
彼女はずっと第4冷凍倉庫にいると思われているけれど、例外がある。あの子は私の部屋へやってくるのよ。
私はアイスウーマンのことを誰にも話さなかった。信じてもらえるとは思えなかったし、私はなぜか彼女が来訪するのを楽しみにしていたから。なぜだろう。
彼女からは嫉妬の感情が伝わってきた。アイスウーマンは私の愛を得たいと切望し、私の彼氏を妬んでいた。彼氏を愛する私にも捻じれた嫉妬の感情を持っていた。私にはそれがわかった。
私はあの子の嫉妬を心地よいと思っていたの。嫉妬されるのが気持ちよかった。私の部屋に来て、私の頬に触れる以外なにもできないかわいそうなあの子を見るのが好きだった。もしかしたら私はかなり捻じれた愛情をあの子に持つようになっていたのかもしれない。ふつうの恋愛感情ではないわ。
私はそれを秘かにストレインジラブと呼ぶようになった。それがどういう感情が他人に伝えるのはむずかしい。
あの子の冷たいカラダの中で燃えている嫉妬の炎を感じ、ほくそ笑み、あなたなんて受け入れないよと弄んで歓ぶ愛なんだけど、理解できる? できないでしょ。理解されようとは思わない。
えっ、変態? そうかもしれない。否定はしない。
毎年冬が深まると、あの子は私の部屋を訪れる。
冷凍倉庫から脱け出して、深夜の道をひたひたと歩いてやってくる。
自分でもなぜそうなったのかよくわからないんだけど、ストレインジラブは深まっていったわ。
あの子に嫉妬されるのが快感だった。
高校卒業までに私は7人の男性とつきあい、5人と肉体関係を持った。私はセックスではあまり快楽を得ることができなかった。精神的な交流が私の楽しみだった。愛されていると感じることが快感だったの。嫉妬されるのはもっと快感だった。だから私は頻繁に浮気した。
7人目の恋人から手ひどい暴行を加えられた。浮気を咎められ、殴る蹴るの暴力を受けたの。それで私は男の人とつきあうのが嫌になってしまった。交際で得られる快楽なんて吹き飛んでしまうほどの苦痛を与えられて、男性が怖くなってしまったの。
でもアイスウーマンに嫉妬されるために恋人が必要だった。
それで大学時代にあなたを落とし、つきあってもらうことにしたのよ。女の子のあなたを。
大丈夫、安心して、ちゃんとあなたを愛しているわ。
あの子に対するストレインジラブもあるんだけどね。
嫌? ごめんね、私にはあなたとアイスウーマンのふたりとも必要なの。
私は大学を卒業し、あの子のお父さんの会社に就職した。そこで第4冷凍倉庫の係員に志願した。
特別室の管理に私はうってつけだと社長は判断したみたいね。私の希望は通り、第4冷凍倉庫管理係に配属された。係長と私のふたりだけの係よ。
仕事はけっこういろいろとあるのよ。毎日見回りをしなきゃならないし、特別室には1日に4回行って、彼女の状態を観察し、記録簿に記入しなければならないの。倉庫の温度管理のやり方は春夏秋冬で変化していくし、毎日微妙な調整をしているのよ。冷凍装置や冷暖房、クレーン、シャッター、非常電源などの機器の保守業務、清掃なんかは委託しているけれど、その委託会社との契約業務やつきあいも意外と忙しいものなのよ。
私はこの仕事が好きだけどね。
なんといっても、毎日彼女と会えるわけだし。
私はアイスウーマンの生態をしだいに知るようになったわ。
特別室の温度は零下10度に保たれている。彼女は寝台の上に横たえられている。カプセルとかに入っているわけではなくて、室内でベッドの上に寝かされているだけよ。
室温零下10度のとき、彼女はぴくりとも動かない。アイスウーマンはまったく動けない。
春、夏、秋には特別室の温度は特にきびしく管理されていて、冷凍装置は目一杯働いている。夏の方が寒いくらいなのよ。外気温が高いとき、特別室の温度は低めにすることってマニュアルに書いてあるの。低めってだけで、何度にせよとは書かれていないんだけどね。私は用心深くでマイナス15度くらい、係長はマイナス12度くらいにしているわ。
冬はね、逆に温度管理がいいかげんになるの。特に1月と2月にはね。
外気温が低いから、まあ大丈夫だろうって感じになるのよ。特別室の温度が零下9度とか8度とかになったりするの。すると、アイスウーマンは動き出すのよ。
零下であることに変わりはないから、カラダは凍っているし、血液もかちんこちんのはずだけど、なぜだか彼女は動けるようになるの。なぜ動けるのか、本当に生きていると言えるのか、死んではいないのか、そこらへんのことはよくわからない。アイスウーマンは人間じゃないからね。ふつうの医学とか生物学は通用しないの。
とにかく冬になると特別室の温度は少し上がって、アイスウーマンは動き出す。
もちろん彼女は、動けることを巧妙に慎重に隠しているわ。
私は係長と交代で休みを取っているの。私が出勤するとき、係長は休んでいることが多い。ふたり勤務の日はとても少ないの。
係長がいなければ、特別室に入れるのは私だけ。特別室の開閉はすごく厳格に管理されているのよ。
冬、私は意図的に特別室の温度を上げる。だいたいマイナス7度くらいにする。アイスウーマンは自由に手足を動かせるようになる。
アイスウーマンは私の前では動けることを隠さないわ。ずっと以前から彼女が動けることを知っているわけだしね。私には隠す必要はない。
彼女はもう危険を冒して私の家まで来る必要もない。特別室にいながらにして会えるんだもの。
私はベッドで寝転んでいる彼女を見下ろすのよ。すると彼女は目を開けて、手を伸ばし、私の頬に触れるの。すごく冷たい。私は少しの間触れさせてあげて、しばらくすると逃げる。彼女は微かに哀しげな顔をするようになったわ。表情筋を動かせるようになったの。ほんの少しだけね。
アイスウーマンは立ちあがり、私を抱きしめようとすることがある。そこまではさせない。私は逃げる。手足を動かせると言っても動きは遅いから、彼女に捕まることはない。
私はあなたとの関係をときどきアイスウーマンに話して聞かせる。あなたと食事に行った。ドライブをした。キスした。カラダを重ね合った。アイスウーマンは嫉妬する。わずかに憎しみの表情を見せることもある。最近少しずつ表情が豊かになってきているようなの。あの子があなたを妬み、私に捻じれた嫉妬心を向けるとき、私は14歳のときと変わらぬ気持ちを抱くことができる。
あの子の姿は13歳のときと変わらない。
とても可愛いのよ。
いまでもワンピースの白い水着を着ているわ。きっと死に装束のつもりだったんでしょうね。彼女は自殺した。でも妙な形で存在しつづけることとなった。アイスウーマンとして。
私はあの子を特殊な形で愛している。私はそれをストレインジラブと呼んでいる。
さて、もうわかっていると思うけど、私が冬を嫌いというのは大噓よ。
冬は大好き。
アイスウーマンが活動する季節なんだもの。