【九】もういいじゃないか
この世に生まれた意味を見出されない子供、
それがシオンという人間の始まり(オリジン)だった。
貧しい地区、それも現代と違い食料の奪い合いもある頃、
母子で肩を寄せ合ってなんとか明日を食いつなぐ生活。
貧しさは当たり前のものだった。
喧嘩や病も、ネズミのような不衛生な生き物に囲まれてもいた。
しかし、それは苦ではなかった。
ひもじくて眠れない時は、
母が後ろから自分を抱きかかえて揺り籠のようにあやしながら
優しく囁いてくれたものだった。
「あなたは誰よりも立派になるのよ」
そこに荒々しく踏み入ってくる騎士たち。
テーブルクロス代わりだったボロボロの布巾に足跡がつき、
寝床は甲冑を着た重騎士の歩みで無惨に踏み砕かれた。
「この者達が、いやこの御方達がそうなのか」
面を外すと、薄い唇が酷薄で暴力的なプレッシャーを発する男の顔が出てきた、
後にわかることだが、男はエルロンド公爵であり、
未来で自分の許婚になる女の親だった。
王の庶子として城に引き取られたが、
そこは幸福に引き上げられたのではなく、
より長く続く苦境の始まりだった。
庶民上がり少年は貴族からも平民からも嫌われ、
虐げられても王位継承の予備の予備の予備という扱いから、
助けてもらえるわけでもない。
そこに少年の居場所がなかった。
同じ様な境遇の子供はいたが、
互いに接触することもなかった。
毎日が教養と訓練だった。
全身に青痣ができ、詰め込んだ知識がろくに物事を考えなくさせていた。
母に会えるのは僅かな時しかなかった。
使用人に足を引っ掛けられ、
貴族の子供によってたかって殴られた。
帰ると、母は自分を抱き寄せ、背中を撫でながら言った。
「あなたは誰よりも立派な人になるわ」
シオンの母はいつもそう言っていた。
命の火が消えようという時も。
だから彼は国を変えようと思った。
戦争をしなくてもいいようにし、
人々が飢えないようにし、
誰もが望む人生を歩めるようにしたかった。
そのために地下で志を共有する仲間を集めた。
計画も完璧なものを練った。
気づけば許嫁とやらがなにか妙なことをしていたが、
そんな道楽は自分の使命とはまるで違う。
あれは身勝手な、子供の遊びで、何も結果を残さない──
国が変えられていく。
ジェーン・エルロンドによって、彼が望んでいた方へ。
それでも計画は計画であり、必ず成し遂げられなければならない。
なのに同志は一人、また一人と彼から離れていく。
どうしてかわからない、いや、わかってもそこを無視していた。
「もういいじゃないか。ジェーンが君のやりたいことを全部やってくれた。
君は次の人生に進むべきだと、私は思うよ」
同志のクレオが師匠のシスマと一緒に諭した。
「でも…………」
散らばった書類、埃ひとつ、塵もない磨かれた使われることのない武器、
誰も来なくなった地下基地で、シオンは指を組み、一人、椅子に腰掛けて考え込む。
「誰かがみんなのために何かをしないと──誰かが──」
──俺がやらないと。




