ハイドの手帳
あの嫌いな教室の、窓際の席に僕が一人で立っている。
音は、何も聞こえない。ただ教室中の視線が僕に注がれている。
まるで非難するように。
つまらなさそうに。
反応を楽しむように。
廊下からも時折、物珍しそうな視線を下校する生徒が投げかけてくる。
そして、一際圧迫感の強い視線が僕の心を突き刺し、脳裏を見透かすようにじっとこちらを見ている。
その視線の主が僕に何かを問うが、まるで水中にいるかのように声はくぐもって僕の耳には入ってこない。
ただ、焦る気持ちを抑えて、パニックになりそうな頭を冷静にしなければ。
ドクドクと、自分の心臓の音が聞こえる。
ドクドクドクドク
ドクドクドクドク
頭の中が霞がかった様になり、少しずつ落ち着いてくる。
感情を表に出すまいと、気取られまいとして顔を無表情で取り繕う。
「おい! 聞いてんのか!」
「はい」
突然聞こえた怒鳴り声に一瞬躊躇するが、考える間もなく反射的に言葉が出た。
「やったのか?」
声の主は、腕時計をチラリと見て鋭い視線をこちらに投げかける。
顔を上げると、教室の視線は大半が飽きたように伏せられていた。時計を見る人もいる。これから遊ぶ予定がある人もいるだろうに。なぜ何も悪いことをしていない僕がこんなにも窮屈な思いをして、ありもしない罪悪感を感じながら周りの空気に押しつぶされなくてはいけないのだろうか。
「じゃもういいよ。とりあえずお前謝れ」
「ぃませんでした」
いつの間にか口が乾いて、声が思う様に出ない。少し咳をして、僕はもう一度言う。
「すいませんでした」
「ん。帰りの挨拶して」
起立という声が教室に響き、ガタガタと音を立てて生徒たちが立ち上がる。
一秒でも早くここから離れたい。次の声が響くと同時に僕は教室を出た。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
突然、ベッドの反対側の壁にある押入れからガタガタと言う音が聞こえてリクは目を開けた。
引き戸がガタガタと音をたてながら動き、少しずつ隙間が出来る。
引き戸は音をたてながら段々と開いて、中から黄色いクマのぬいぐるみがコロコロと出てくる。クマは床に転がって、じっと真っ黒な目で辺りを見回す。そしてそっと立ち上がり扉の方に向かって歩き始め、転んだ。
足を取られた。という方が正しいだろうか。右足だけが進むのを拒むように宙に浮き、クマは顔から床に倒れている。クマは自分の右足に何が起こったのかとその場に座ってしげしげと眺めて考えるが進めない理由がわからないようだ。
リクはぼんやりとした頭でそれを眺める。なんだか嫌な夢を見た気がするが、うまく思い出せない。
じっと体を動かさずにさっきまでの夢を思い出そうと朧げな記憶を辿る。
その間にぬいぐるみは勝手に動き、歩き回り始めた。しかも床に座り込んで何やら呟きながら考えているらしい。
普通の人間が見たらまず自分の目を疑うこれは、リクの能力である。もっとも彼自身も、なぜ物を動かすだけのサイコキネシスでぬいぐるみが勝手に動いているのかまだ理解していないのだが。
「おはようロマ」
横になったまま、夢を思い出すのを諦めたリクがクマに声をかける。
「あ、えーと。おはよう」
ロマはぎこちなく顔を上げ、気まずそうに返答する。
「何してるの?」
「あぁ、えぇと。散歩に行こうと思って」
わかりやすくおろおろとしながらロマが答える。彼にとっては脱走しようと飛び出した瞬間、看守に声をかけられたようなものだ。
「そっか。家の中だけなら良いけど」
「うんうん! もちろん家の中だけだよ」
ロマはニコニコして大きく頷く。
「今何時?」
リクはむっくりと起き上がり、うんと背伸びをした。
時計の針は十四時半を差している。日も傾き始めた猛暑の夏、かなり遅めのお目覚めだ。
「やばい、もうこんな時間じゃん。ソラが来ちゃうよ」
「あれ? ソラが来たのは…そっか。てっきりまだ今日だと思ってたな……」
間違えたぁという顔をしているロマを横目で見ながら、リクはなるべく長めにロマの足につけたピアノ線を切った。
「ほら、これで多分散歩できるよ。でも家の中だけね」
「あ、足が動くぞ! やったぁ!」
ロマは大喜びで廊下に駆け出して行った。
大方散歩というのは嘘だろうなと思いながらリクはリビングへ向かう。
ロマの脱走計画は今に始まった事ではなく、二年前に勝手に動き出してからほぼ毎日続いている。最初の方はなぜ脱走するのかわからず話し合おうとしていたが、いくら説得しても世界征服だなんだと言い出すので結局押し入れに部屋を作って閉じ込めているのだ。最初の頃はピアノ線もつけていなかったので好きに動き回り、危うく兄のカイに能力者であることがバレそうになったこともあった。
たまにかわいそうだとも思うが、自分のためにも、ロマのためにも、あのピアノ線はどうしても必要なのだ。
脱走して、捕獲されてバラバラにされでもしたら本当にかわいそうだし。
リビングに降りると、案の定ロマが引き出しを開けてゴソゴソ物を漁っているが、気にせずにキッチンへと向かう。
ラーメンを食べようと思って棚を見ると、インスタント麺が切れて空の袋が散乱していた。
どうやら昨日食べたのが最後の一つだったらしい。仕方がないのでリクはポテトチップスを朝ご飯にすることにした。
時計は十五時前。あと三十分もすればソラが来てしまうので、それまでにはロマを押し入れに戻さなくてはいけない。時間もないから能力の練習も……。何かやろうかと思考を巡らせるが寝起きの頭では何かする気にもなれず、結局リクはロマを眺めながらポテチを食べる。
少し頭が重く感じて、リクは額に手を当ててみる。
熱いような。寝ぼけているだけだろうか。
「ロマ、体温計ちょうだい」
「たいおんけい?」
ロマは引き出しという引き出しを開けまくり、大量のペンが入った引き出しに足を突っ込んで何かを探している。
「そう。先っぽが銀色の、熱を測る時に使うやつ」
「あれか! わかった探してみるね」
そう言ってロマは、また引き出しを漁り始めた。静かなリビングに、ペンのぶつかるカチャカチャという音と、ポテトチップスを食べる音だけが広がる。時折、外から鳥の声が聞こえてくる。暖かい陽光を浴びながら、リクはソファで静かに目を閉じた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
カーテンの閉め切った暗い部屋に真っ白なデスクライトが一つ。机に向かう少年の後ろでは何かが走り回っている。
少年はそれを気にする事もなく、ただ黙々と何かを作っている。
プラスチックのフレームからニッパーでパーツを切り取り、机に一つずつ並べていく。
フレームから全てを切り取り終えると、別のフレームを手にしてまたパーツを切り出していく。
一つ一つのパーツには、フレームとの接合部分が短く残っている。
大まかに切り出してから、後で綺麗にするのだろう。
少年はフレームから全てを切り終えると、今度は前のよりも一回り小さいニッパーを手にして、パーツから接合部分を切り落としていく。ニッパーのパチ、パチ、という音と共に一センチにも満たないプラスチックの欠片が机上に積もる。
手元に神経を注ぐ少年の背後では、相変わらず何かが走り回っている。普通、走り回るという行為には耳障りなドタドタという音が聞こえてくるはずだが、この部屋では少年のニッパーの音以外何も聞こえない。ただ、音もなく何かが走り回っている。
突然、ガチャリと部屋のドアが開いた。同時に、走り回っていた何かが突然死んだように床に転がる。
「リク。来たよ」
コンビニ袋を持ってガサガサという音を立てながら、少女が部屋に入ってくる。
「何してんの?何これ」
少女は少年の手元をチラリと見てから、床に転がっていた箱を取り上げて眺める。箱の上面にはアニメのロボットの絵が大きくプリントされている。
「プラモデル? へー。珍しく男の子っぽいことしてるじゃん」
突然の訪問客にも少年は集中を切らすことなく全く反応を示さない。今はパーツに残った小さな切り残しをヤスリで削っている。
「まぁ人形ってところは一緒だけど」
少女は部屋の電気を付け、ベットの下から折り畳み机を出すと座布団に座る。そして、リュックを漁って筆箱と教科書を取り出し始める。少女はため息をつき、つまらなそうに何も言わない少年の背に目をやる。
「アイス食べる? 買ってきたんだけど」
手元に集中している少年には聞こえていないのだろう。少女の問いかけに何も反応を示すことなくひたすらにパーツをやすっている。そんな反応は慣れっこなのだろうか。返答を待つことなく、少女は袋からカップアイスを取り出して一人で食べ始めた。
「もう人形はいいの?」
床に転がされた黒い犬の人形を拾って少女が言う。返答は無いが少女は気にせずに話す。
「あんなに騒いでたのに。いつだっけ、中三の時だったよね確か。リクが学校に人形持ってきて訳わかんないこと言い出してさ。それくらいからリク学校来なくなったけど」
少女が口をつぐむと、やすりでパーツを削る小さな音だけが部屋に広がる。
「こんな可愛いのに。ねぇ、わんわん。君は喋らないのかな?」
そう言いながら少女は黒犬の顔を両手でむぎゅむぎゅと触る。嬉しそうな顔をして開いた口が閉じ、顔が横に伸びる。
「ふわふわじゃん。良いな、いらないならもらって良い?」
「だめ」
ようやく全てのパーツを綺麗にした少年が短く答える。
「こんないっぱいいるのに?」
「だめ。あとそいつはわんわんじゃなくてクロ」
「クロくん。ネーミングセンス終わってるね、リクって」
「じゃあ何か思いつくの」
そう言いながら少年はパーツを組み上げ始める。
「うーん。笑ってるしラッフィーとか?」
「じゃあラッフィー」
「え、改名早くない? それはなんか、良いの?」
少女は犬の人形を抱き上げて、少年の肩に乗せる。
「良いよ。特に思いつかないからクロって呼んでただけだし。今日からお前はラッフィー」
少年はラッフィーを持って立ち上がると、本棚に向かう。ちょうど机と反対側の壁一面に広がる本棚には、本来入るべき本ではなくさまざまな人形たちがいる。ネコやクマといったものから、ドラゴンやライオン、雪だるま。ありとあらゆる布製の人形、いわゆるぬいぐるみが並べられている。
「お、犬はラッフィーだけじゃん」
「うん。みんな違う種類だから」
そう言いながら少年は本棚の隅にちょこんと黒犬を座らせた。
「え? でもこれとこれは一緒でしょ?」
少女が二匹のオレンジ色の狐のような人形を指差して言う。どちらも耳をツンと立たせ、凛々しい顔で立っている。
「いや、こっちはアカギツネのアキ。こっちはキタキツネのコン」
「キツネ代表で一匹って訳じゃ無いんだ」
「うん。でも同じ種類のやつはいない」
少年はつまらなそうに言って机に戻った。ロボットのプラモデルが腕だけ出来ている。少女はそれを追うように袋からアイスを取り出し、ロボットの腕の隣に置く。
「気が向いたら食べな」
「ありがとう」
僕はそう言って笑った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ソラが、リクの兄であるカイから頼まれてこの坂を登り始めてもう半年くらい経つ。
今日も日差しにうんざりしながらソラはリクの家の前の坂を登っていた。
いつも登っているとはいえ、真夏の練習終わりにこの坂道は結構きつい。
木陰を歩きながらしばらく坂を登っていると、大きな家が見えてくる。
和洋折衷というやつなのか、ソラは何回もこの家にきているが他にこんな雰囲気の家を見たことがない。
家のまえに撒かれた砂利を避けて石の道を歩き、いつものように小さなインターホンを鳴らす。
家はしんとしていて、何の音も聞こえない。まぁいつものリクを考えれば聞こえてくる方が変なのだけれど。
「あれ? 出ない」
ソラはもう一度インターホンを鳴らしてみるが、誰かが降りてくる気配はない。
「寝てんのかな……」
二階にあるリクの部屋の窓を見てみるが、カーテンが締め切られていて起きているのかどうかわからない。
どうしよう。報告のメールを書かなければカイさんからバイト代はもらえないのに。
嘘のメールを書いてもいいけどーー。いや、それだともしリクに何かあった場合怒られるのは私になってしまう。
ちゃんと体調を崩さずに元気に家にいることさえわかればいいのだ。
わかればいいのだがーー。
この時代に電話を持っていなくて困るのは、持っていない人ではなくその周りの人だということをなんでわからないのだろうか。ソラは頭の中で、引きこもりだから電話いらないし。と弁解を始めたリクに悪態をつきながらカバンを漁り始めた。
「あぁ、もう。どこ入れたっけな。確かこの辺に入れたと思ったんだけど……」
カバンの前についたポケットを漁るとレシートや単語帳の奥に鍵らしきものが指に触れた。
中からは映画に出てくる宝箱の鍵見たいなものが出てきた。
こんな銀色の鍵見たことないな。いや、これが本物だとしたらカイさんにもらった時に一度は見てるはず。
ソラはとりあえず試してみようと思って、鍵穴に差し込む。古そうな引き戸は、宝箱の鍵でカチャリと音を立てて開いた。ソラはカバンを持ち、鍵をポケットに入れて家に入る。別に入っていいはずなのだが、何となく悪いことをしているような気がして、なるべく静かに靴を脱ぐ。
「リクー? 来たよー」
がらんとした廊下に、声が響く。
「やっぱ寝てんのかな」
玄関に靴が出された様子もない。ソラはリクの様子を見に部屋に行くことにした。日の光が差す廊下を歩き、突き当たりを曲がると廊下の両側にリビングの扉と階段がある。ソラは右にある階段を上がって、一番手前のリクの部屋の扉を開けた。
「リク? 寝てんの?」
部屋は薄暗く、窓から傾きかけた日の光が誰もいないベッドに落ちている。
いないのか。そう思ってソラが部屋を出ようとすると、ふと視線を感じた。
机の上に、スッと四本足で立った凛々しい牡鹿のぬいぐるみがいる。
「お、君はシカくんかな?」
ソラは何となくそのぬいぐるみを持ち上げて話しかけた。半年もリクにこの部屋中のぬいぐるみを紹介されたことで、ソラもすっかりぬいぐるみに話しかけるのが当たり前になってきてしまった。
「君は、ニホンジカかな。君はトナカイだもんね」
そう言ってソラは本棚に鹿をちょこんと立たせる。キュッと口を結び、少し上を見ている。黒い目の中に日の光が入って青く輝いている。ぬいぐるみにしては結構かっこいい。
部屋にいないということはおそらくリビングだろう。
「バイバイ。また後でね」
ソラはシカのぬいぐるみにそう言って、部屋を出た。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
何か透き通った歌が聞こえて、リクは目を覚ます。
あくびを噛み殺して、歌の正体を知るべく頭をもたげた。体は重いが、さっきより頭はすっきりとしている気がする。
時計を見ると、十八時を過ぎている。まずい、いつの間にかかなり寝てしまった。
リクは慌てて立ち上がるが、お腹がギュルギュルと鳴り途端に立ち上がる気力がなくなってペタンとソファに座り込む。
「あ、お腹すいた? 今晩御飯作ってるから待ってて」
ふと、キッチンの方から声がかかる。
「うん」
リクはあくびを一つすると、ロマのことを思い出して引き出しの方を振り返った。引き出しは綺麗に全部しまわれていて、棚の上にロマが置かれている。
あれ?と思ってキッチンを見るとソラが立っていた。
「あれ、ソラじゃん」
「おう。おはよ」
ジュージューという音と共に、何やら良い匂いがしてくる。
「あれ?僕寝てたけど入れたの」
「あぁ、うん。なんか裏の扉開いてたから」
裏の扉、あの恐ろしく立て付けが悪くて鍵がかからない扉だろうか。でもあそこはそもそも開くのすら無理だと思ってたけどーー。
「え、あれ開けたの? すごいね」
「うん。鍵はかかんなかったけど、一応閉めといたよ」
僕が開けようとした時はびくともしなかったのに……。
リクは少しだけ自分の体力の衰えを悲しみつつ、様子を見ようとキッチンを挟んでソラの前に歩み寄る。
リクはソラのご飯にはかなり世話になっているのでその美味しさはわかっている。何を作っているのか気になったのだ。
「お、なんか美味しそう。何作ってるの?」
フライパンの上には肉と野菜が炒められており、素朴だが美味しそうな匂いがしている。
「肉野菜炒め。どうせ今日も食べてないんだろうと思って、簡単にね」
ソラはフライパンから目を離さずに言う。
「ありがとう。ソラも食べてくでしょ?」
「いや、私はいいよ。あんまり食材とか使うの悪いし」
「そう? 別に僕は気にしないけど」
ソラは火を止めると、慣れた手つきで皿を取り出しご飯とおかずを机に並べる。
「はい。冷めないうちに食えよ」
「ありがとう」
ソラがリクにご飯を作るのには好意とは別にきちんとした理由がある。それはリクがよく体調を崩す原因がリクの食生活にあったからだ。と言うのもこの引きこもり、放っておけば何も食べないし酷い時は何も飲まない。それで一日過ごしてしまうのだから栄養不足で体調が悪くなるのは必然なのだ。まぁ大抵は空腹で倒れているのだが。
胃と脳が繋がっていないのか。ソラは仲が悪いのだろうと思っているが、どうやら空腹の知らせに気付かないらしい。
カイから、寝込みがちなリクの看病をしてくれと頼まれた時は驚いたが、毎日一食作って話をするだけなのだから案外楽だとソラは思っている。だからこうしてソラがリクにご飯を作るのは、リクが知らないソラのバイトの一環に過ぎないのだ。もっとも、リクがどう考えているかはわからないが。
美味しい美味しいと言いながら食べるリクを見ながら、ソラはさっき見た異様な光景について考える。
引き出しという引き出しが全て開けられ、大量のペンが散乱したリビングとソファで何事もなかったかのように寝ているリク。はっきり言って怖い、というか気味が悪かった。ソラは泥棒でも入ったのかと思って家中の戸締りを確認したが、結果裏口の扉以外全て鍵がかかっていた。その扉も全く開かなかったのだが。
とりあえず片付けてみたものの、リクがやったのか、それとも泥棒か。言うべきか言わないべきかソラは悩む。
「なんか難しい顔して、どうしたの?」
「いや、何でもない」
とりあえずこれはリクには言わないでおこう。とソラは考えるのをやめ、棚の上にある人形に目をやった。
あれはペンに紛れて床に落ちていたのを、ソラが置いたのだ。黄色いクマはふわふわしていてかわいい。
「リク、あのクマってなんて名前なの?」
リクはピタッと食べる手を止め、振り返ってクマを見る。
「あぁ。ロマだよ」
「ロマ? 変な名前」
「僕がつけたんじゃないよ。子供の頃からいるんだけどその時からロマだった」
「ふーん」
リクが名前をつけていないぬいぐるみか。お父さんかカイさん?いや、子供の頃ってことはお母さんかな。
ソラは黄色いクマにちょっとだけ異質な印象を覚えた。
人形だらけのリクの生活の中で、初めて会ったリク以外が名付けた人形だからだろうか。
それともリクの亡くなったお母さんが名付けた人形だと想像したからだろうか。
何となくどちらも違う様なーー。
「でも、いつもはあの棚にはいないよね」
リクは黙ったまま皿に残った最後の肉を食べる。
「なんか、理由とかあんの?」
リクはモグモグと口を動かしながら机を見ている。何だろうか。
「いや、特にないよ」
「無いの?」
「うん。たまたま、クローゼットに入ってたのを見つけたからリビングに持ってきただけ」
「そっか」
考え過ぎだな。とソラは思った。
多分あの乱雑に荒らされた棚が原因でロマへの印象が悪くなってしまっただけだろう。
だとすると、ロマにはちょっとかわいそうなことをした。
ごちそうさまと言ってリクは食器を片付け始める。
何だか質問攻めにして少し気まずくしてしまっただろうか。
「あぁ、私やっとくよ」
「いや、いつも作ってくれてるし。今日はやるよ」
リクは真剣な顔をして流しの前に立っている。
「えぇ? できんの?」
「できるし」
「料理作れないのに?」
「ラーメンなら作れるし」
「具なしのインスタント麺は料理とは言わないよ?」
リクは口を結んで顔をしかめる。ちょっとからかい過ぎたかな、とソラが口を開こうとすると、リクがハッとした顔で
「料理と洗い物関係無いし!」
と言った。
久々にソラは声を出して笑った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
リクの洗い物が終わるのを見届けて、ソラはすぐに帰った。
にしても結構危なかった。
ロマのことを聞いてきた時は心臓が口から飛び出るかと思ったけど、何とか気づかれずに済んだらしい。
いや、勘違いでも良いからそうであってほしい。
見送りを終えてリクがリビングに戻ると、ロマが引き出しの取っ手に足をかけて棚から降りようとしていた。
「飛び降りれば良いのに」
リクはロマを両手で持って、地面に下ろしてやる。
「怖いもん。そんなことできないよ!」
ロマは短い両手を振り上げて抗議してくる。
「はいはい。ほら、部屋戻るよ」
ロマを追い立てながら階段を登る。このクマは階段を降りるのは得意なのに階段を登るのは苦手なのだ。
結局片手でロマを抱えてリクは自室に戻った。
ロマを地面に下ろし、机にいたはずのシカのぬいぐるみを棚に見つける。
「あれ、こいつはまだテストしてなかったはずだけど」
昨日の夜、リクは能力のテストをしようと思って届いたばかりのシカのぬいぐるみを机の上に置き、やる気が出ないまま結局寝たのだ。他の、一度能力をかけたこのあるぬいぐるみが動いたのならわかるが、届いたばかりのぬいぐるみが動いたのはどう言うことだろうか。
「ロマ、こいつ動かした?」
「ううん。知らないよ?」
だとすると、このシカは勝手に動いたのだろうか。能力を寝ている間にかけたとか?
いやいや、流石に考えにくい。それに朝は机にいたはずだ。多分。
リクはシカをジッと見ながら、ふと前にも似たようなことがあったのを思い出した。
「そういえばロマ、君もいきなり動き出したよね」
「うん? そうだっけ?」
ロマは右手を頭にやって、考えるような仕草をする。
「そうだよ。確か僕が中三の時だったかな?学校から帰ってきて、いつもみたいに遊ぼうと思ったら勝手に動き出してさ。あれ結構びっくりしたんだけど」
「違うよ。僕は確か、急にすっごい悲しい気持ちになって、それで動かなきゃって思って。うーん。僕っていきなり動いたの?」
聞かれても困る。動き出したのはロマであって、リクに動かした覚えはないのだから。
「わかんない。僕にはそう見えたけどなぁ」
「そっかぁ」
「でも、サイコキネシスでいきなり動き始めるなんて変だよね」
リクはシカに目を移しながら言った。シカは四本の足でスッと立ち、黒い目でこちらを見つめている。
このぬいぐるみもロマと同じように喋るのだろうか?
「あの、もし動けるなら動いていいよ。君の仲間もここにいるし」
リクはロマを指差して言った。
一瞬シカの目が光った気がしたが、返答はない。
「寝てる間にまた移動したりしないかな」
だとしたら少し怖い。ほぼお化けだ。リクがそんなことを考えていると、ロマが話し始めた。
「うーん。僕はリクくんが考えてることがわかんないんだけど、でもリクくんの能力はサイコキネシスじゃないよ」
「え?」
「サイコキネシスって、思った通りに物を動かす能力でしょ?じゃあリクくんのは違うと思うよ」
「え、じゃあ。じゃあ何なの」
「いや、君は物に感情を与えて動かすでしょ?だから、ちょっとだけ違うと思ったんだけど……」
信じられないと言う顔をしたリクの顔を見て、ロマはだんだんと声が小さくなる。
「なんか、僕変なこと言っちゃったのかな」
ロマはリクの足元に近づいて、不安そうに顔を見上げる。
「じゃあ、さっき言ってたすっごい悲しい気持ちって」
「うん」
「ロマの気持ち?」
「そうだけど、そうじゃないと思う」
リクはその瞬間、今まで立っていた足場が全て崩れ落ちたかのような気がした。
それはそうだ。サイコキネシスは思った通りに動かす能力でしかない。
思ってもいないのに、勝手にぬいぐるみが動き出すなんてあり得ないのだ。
それでもリクはサイコキネシスだと信じて疑わなかった。
じゃあ、中三の時僕はそんな悲しい気持ちで家に帰ってきたのか?
リクは懸命に中学校時代の記憶を呼び起こそうとするが、それはひどく断片的でぼんやりとしていて出てくる人たちは皆顔がない。
忘れたのだろうか。
「感情を与えて、何で動くの?」
「え?わかんないけど、君が言ってたのは、悪い感情を与えたらそれを良くするために動き始めるって言ってたよ」
「僕が言ったの?」
「うん」
リク自身、そんなことを言った覚えはない。ロマはある日突然動き始めたはずだ。
相変わらずロマは不安そうにこちらを見上げている。
リクはベッドに座り、ロマを膝の上に座らせて向かい合ってから聞いた。
「じゃあ君は、そのすっごい悲しい気持ちを、どう良くしようとしてるの?」
「世界征服だよ」
リクはもう口の中がカラカラだった。もうこのままベッドに入って眠ってしまいたい。瞼はだんだんと重くなっているし、体が倦怠感を訴え、どこからか寝てしまえ。寝て忘れてしまえという声が聞こえる気さえする。
「それは君が考えたの?」
「ううん。リクくんが考えたんだよ?なんか変だよ、一緒に考えたの全部忘れちゃったの?」
僕が世界征服を一緒に考えた?あり得ない、どうしてそんなこと。
自分が考えもしないようなことを自分が考えたと言われ、リクは戸惑った。
これが他の人間、例えばソラや彼の兄なんかだったら冗談だと考えることができただろう。
だが、それを言っているのは自分で動かしたぬいぐるみなのだ。
自分で動かした?
リクはいきなり立ち上がり、一番近くにあった黒犬のぬいぐるみを両手で持った。
「おはよう。ラッフィー」
「わん!」
今までくたっとしていたぬいぐるみが急に生気を帯び、まるで本物の犬のように尻尾を振って吠えた。
「なんだ、やっぱり覚えてるんだ。よかったぁ」
ロマはそう言って、ベッドの上で一人安堵している。
おかしい。自分は人形を動かす方法を知らないはずなのだ。感情を与えて、物を動かすなんて。
それじゃあまるで、僕が世界征服を望んでるようじゃないか。
リクは尻尾を振り、クリクリとした目でこちらを見ている黒犬を見た。ロマの言ってることは、合っている。
リクは黒犬を元の棚に置いて、ロマに話しかけた。
「世界征服って言ってたけど、どんなことするの?」
「え? 誰にも言うなってリク君に言われたんだけど。でも、リク君に言うのは良いかな。リク君が考えたことだし」
頭を抱えるロマをじれったく思いながらリクはロマの言葉を待つ。
「でも、誰にもって言ってたし。リク君覚えてないみたいだし……」
「忘れちゃったから、確認したいんだよ。だから教えてくれる?」
リクは、えへへと取り繕いながらロマに頼む。ぬいぐるみの動かし方は思い出せたが、止め方はまだわからない。
それに、どんな世界にしたいのかを聞いてからでも自己嫌悪に陥るのは遅くないかもしれない。
「うーん。じゃあ良いか」
そう言ってロマはベッドを降りていそいそとクローゼットへと向かう。
「そこで待ってて」
そう言ってロマはクローゼットの中へ入っていった。何か持ってくるのだろうか。
リクは少し不安になって部屋を見回すと、本棚でラッフィーがスンスンと小さな声で鳴きながら床を見ている。
この黒犬もロマと同じように高いのが怖いのだろうか。
リクはラッフィーを抱き上げてベッドに座らせてから、自分もベッドに座った。
途端にラッフィーは嬉しそうにベッドを跳ね回り始める。リクは不安な気持ちを抑えるように、ラッフィーを眺める。
しばらくすると、ロマが一冊の手帳を持ってきた。
「ほら、これだよ」
「ありがとう」
リクが手帳を取ろうとすると、ロマが止める。
「だめだよ。これ触って良いのは僕だけなんだから」
かわいい顔に似つかず、今日はロマが少し怖い。
「ごめんごめん。そうだったね」
「うん。じゃあ、まず何を聞きたいんだっけ?」
「えっと、どんな世界にしたいか」
リクの質問を聞いて、ロマがページを捲り始める。ロマは目的の場所を見つけると、優しい声で言った。
「能力者が支配する世界」
ロマが続けて手帳を読む。
「みんながバラバラの方向を向いて、好き勝手に進む社会ではなく、社会に夢を与えてそれをみんなに目指してもらう。僕が考える能力者が支配する世界は、人間の進化と言う夢を世界に与える。能力者の能力を研究し、非能力者と能力者の垣根を無くして現存する差別を無くし、人間を次の段階へと移行させる」
確かに、能力者への差別は根深い。非能力者と能力者との間で戦争が起きたのは昔のことだが、それで両者の確執が解消されたわけでは無く、見た目による能力者への差別は今でも目に余るものがある。だが、夢とは何を言っているんだろうか。
「夢って何?」
「みんながより良い世界を目指すための指標のようなものって書いてある。僕もちょっとわかってはないんだけど」
そうだ、やり方。世界征服を自分が考えたなどと言われて驚いてしまったが、やり方さえ平和的ならば言っていることは良いことのように聞こえるし、そこまで悪いことでもないんじゃないだろうか。
「じゃあ、どうやって世界征服するの?」
「能力者を蔑視する非能力者を、急速にまとめて支配下に置くにはできるだけ効果的に反抗心を与える隙もないほどの恐怖を与えることが必要である」
本当にこれを自分が書いたんだろうか。あまりにも突拍子もない考えで、リクは小さく笑ってしまった。だが本当だとしたら、考える余地すらないほど最低だ。結局は立場が変わるだけじゃないか。
「でもそれだと、少数派と多数派の立場が変わるだけじゃない?」
「あぁ、それは僕もリク君に聞いたよ。でも、リク君が死ぬまでに本気で人間の進化を達成するにはこれしかないんだって」
あくまで能力者は人間の進化だとこの手帳を書いた僕は考えているらしいが、今の自分の中にはその考えに対して一ミリも共感できる思いが無いから可笑しい。
「でも、無理やりすぎて僕は良くないと思うな」
「そう思う?」
「ごめんねロマ。僕が君に手帳を渡して、どんな感情を君に込めたのか僕はもう覚えてないんだ」
リクがそう言うと、ロマは耳をペタンとしてすごく悲しそうな顔で手帳を見た。
「僕も、何となく気づいてたよ。家から出られないし、引き出しのハサミは何回探しても見つからないし……」
「だからさ、そんなのを目指すのはもう止めよう?もっと、みんなが笑顔になることをしようよ。ロマも泣いてるより笑ってる方が好きでしょ?」
ロマはコクコクと頷く。
「うん。じゃあこの手帳は返してもらうね?」
「うん」
手帳を渡すロマは、少し寂しそうだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
薄暗い部屋で、リクは鳥の声を聞いて目を覚ました。
時計に目をやると、六時。昨日話し疲れて早く寝たせいだろうか、こんなに早く目を覚ましてしまった。
体を起こし、伸びをすると机の上でラッフィーが丸まって寝ている。ふとロマのことが気になって、リクはベッドを降りてクローゼットに向かう。
ロマは段ボールの箱の中で、ブランケットにくるまっていた。リクは安心して扉を閉め、今日は何をしようかと考える。
朝ご飯を作るのも良い。久々に本でも読もうかとも思ったが、リクはみんなを起こすことにした。
「おはよう。トラ」
リクの声に反応して、黄色い縞々のネコのぬいぐるみが目を開く。
「おはよう。くまさん」
続いて、小指くらいの小さなクマのぬいぐるみが動き出す。
「おはよう。りゅーくん」
緑色のドラゴンのぬいぐるみは体を震わせて軽く羽ばたき
「おはよう。らいくん」
四足歩行のライオンは大きくあくびをした。
そうしてリクは一匹ずつに声をかけてみんなを起こしていく。
今までとは違うような、新しい一日が始まるような、そんな気がした。
(了)