閑話 混乱の中で(クリエ視点)
良いお話と悪いお話は一度にやってきました。
かつて私が寝食をしていた倉庫の片隅で、怪我の薬を作っていたときの事です。
「ジル殿を一旦釈放することになった」
すり鉢に棒を押しつけていた私のもとへウルグ様がやってきて言いました。
ウルグ様はスタンピードに際し、独房の人達の一時釈放を王から許可されたのだそうです。
「そうなのですね」
私は嬉しくなりました。
ガリガリと薬草をすりつぶす手をとめて、私は立ち上がります。
「もともと独房にいる者の大部分は、無理矢理な投獄であったゆえ、その部分をつつくことで許可がおりた」
「ジル……様もですか?」
以前から気になっていたことです。
詮索すべきではない話。ジル様が独房にいる理由。
「ジル殿は王の命令で投獄されている」
「命令ですか?」
「独房にいるようにとの命令だ。罪などとは別に、王の命が下った。ここだけの話、神殿の権威を王が侵害しているのではないかと思う。そうとなれば、近いうちに釈放となるが……あるいは……」
そこまで言ってウルグ様がゴホンと咳をしました。
ジル様が罪人ではないと聞いて、なんだか心が軽くなりました。
「ともかく。独房から出ることで自らの身を守ることも可能だろう。そして、其方は近々監獄から出てスティミス領へと来てもらう」
ウルグ様の言葉に、少しだけ私は不安になりました。
おそらく他の人には理解されないでしょう。ですが、私にとって監獄は良い思い出も沢山あるのです。
そして、監獄の外を知りません。
「いずれにせよ、スタンピードが監獄を襲う。ジル殿は、其方が巻き込まれる事を心配している」
無言の私へ、ウルグ様が言葉を重ねました。
そうです。この場に残っても、ジルの助けにはなりません。
「はい。心得ています」
「それにだ。スタンピードが終われば、其方は自分の意志で監獄へと遊びにいくこともできよう。いや、遊びにいくというのはおかしな話か」
そうでした。
スティミス領から監獄はそれほど遠くはありません。
監獄を出てのち、私はウルグ様に仕えることになります。ウルグ様は私に移動の自由をくださるようです。
毎日は無理でしょう。でも、会いに行く事は可能です。
不安は消えて、思わず笑ってしまいました。
なんだか元気がでました。
「ありがとうございます」
そしてウルグ様の心遣いにお礼を言ったときです。
「ケッチャク……ノ、トキダ!」
微かにですが、頭の中に声が響きました。
遠くで誰かが怒鳴っているような声に、身震いします。
『オオオオオ!』
続けて、今度はすぐ近くで何かの声がしました。
獣のような大きな叫び声で、ビリビリと空気が震える声でした。耳がジンジンとします。
ウルグ様が「まさか!」と言い、窓へと歩みを進めました。
私もすぐさまウルグ様の後を追い、窓から外を見ました。
そこには虚ろな目をした巨大な人がいました。真っ青な身体をした巨人。それはよだれを垂らし、虚ろな目でキョロキョロと周囲を見ていました。
まるで何かを探しているようです。
「なんだアレは……。いや、こんなにも前触れなく始まってしまうのか!」
「始まる……」
「スタンピード! 斥候虫の羽は……まだ青一色ではなかったはずだ!」
ウルグ様はひどく焦っておられました。
「ギャルル」
足元にいたルルカンも立ち上がり、毛を逆立てて唸っています。
そして、ガラガラと何かが崩れる音がして、地面が揺れます。倉庫の棚もグラグラと揺れて、置かれていた品物が次々と落ちてしまいました。
そのうえ、パラパラと天井から石の破片が砂のようになって落ちてきます。
「すぐに監獄から出る」
呆然としていると、ウルグ様が宣言し、早足で歩き出します。
すぐさま私も後を追うことにしました。
ルルカンも一緒です。
私がついてきている事を確認すると、ウルグ様の歩みは小走りに変わりました。
監獄の人達も、同じ方向へ……外へと向かっていました。冷静な看守の方々も、真っ青になって走っていました。
途中、ウルグ様が「武器を放置……か」と呟きながら、落ちている剣を拾いました。
その頃になると外の様子がなんとなくわかってきます。
廊下の窓越しに見える景色は、見たことがないものでした。
魔物はすでに監獄内で暴れていました。
あちこちで戦闘が起こっていました。
ゴブリンに狼……他にも知らない魔物もいます。
「敵は……西からか」
外へでるなりウルグ様がいいました。
彼の視線の先に、巨大な青い巨人がいます。魔物に加えて雨まで降ってきました。
霧のような小雨ですが、暗い部屋に閉じ込められた気持ちになります。
「王都へ向かう!」
歩きながらウルグ様が宣言しました。その顔は青く、剣を握る手が震えていました。
悪い状況です。
そして皆が事態に恐怖していると気がつきました。
多くの人が同じ方向へ進みます。恐れを抱いて。
そんな私達を魔物は見逃しません。逃げる私達を魔物は襲います。
「ゴブリン……ウォーリアー!」
「やめろ! 助けてくれぇ」
ウルグ様の後を追う私の耳に、人々の叫び声や戦いの音が聞こえます。
キンキンという剣撃の音、人や魔物の呻き声、ガラガラと建物が崩れる音。それはあちこちから聞こえました。
いよいよ恐ろしくなった私には、周りを見る余裕がありません。
ずっと地面を見つめて走りました。
しばらくして、石畳から土とガレキへと地面の景色が変わりました。
「ウルグ……それにクリエさんか!」
知っている声がしました。
「ビカロ様」
「おおっ、馬を連れてきてくれたか!」
そこには馬に乗ったビカロ様がいました。
誰も乗っていない馬をひきつれています。ウルグ様がすぐさま馬へと飛び乗りました。
さらに、フェンリル様もやってきました。
「なにをグズグズしている」
フェンリル様がいつもより大きく、強そうです。
その目に見つめられた馬がヒヒンと鳴いて後ずさりしました。
「逃げている途中なのです。それで……ジルは?」
「ジル坊なら、ここで迎え撃つつもりだ」
「ですが……」
倒壊した監獄の一部を見つめて、私は言葉を続けます。
「あの巨人が……」
「ジル・オイラスのいる中央塔は作りが違う。巨人の身体がぶつかっても倒壊しそうは無い。だから安心しろ」
私の不安に答えたのはビカロ様でした。
「皆も逃げている。我々もだ。グズグズするなクリエ」
馬上のウルグ様が私へ手を伸ばします。
そうです。
ジルは強いし私より先を見ています。何もできない私がジルを心配するなんておこがましいのかも。
そんな時です。倒れた看守が目に映りました。
大きく背中が抉られていて、すでに息絶えています。
「鍵が……」
腰に大きな鍵束が見えました。
それは見慣れた束でした。紋章付きの鍵……独房の鍵もあの中に……。
「クリエ!」
誰かが私を呼びました。
ウルグ様? ビカロ様? フェンリル様?
それでも私の気持ちは、鍵束に釘付けでした。
ジル様……それに独房の人達。監獄には逃げられない人が沢山います。
手助けできるのではないかと思いました。
逃げる事も、立ち向かう事もできず死ぬなんて……それは駄目です。
罪を償えず死ぬのは駄目だ。
「おっおい!」
呼び止める声もきかず、私は鍵束を抱えて走っていました。




