のんびりとした時間
「3体目」
ボクはつぶやいて、ほどなくして閉じていた目を開けた。
ひんやりとした現実の風が頬をなでる。瞑想の世界から意識が戻り、視界が外界へと向かう。
精神世界から帰還したのは、かすかな気配を感じたからだ。
やがて足音が近づき、「ジル、起きてますか?」と、か細い声がした。
「もちろん」
ボクは短く答える。
「良かった」
後ろでに銀の長髪を束ねたクリエが籠を両手に抱えて入ってくる。いつものように鉄格子の向こう側に正座し、やがて横座りに崩して、籠を前に差し出した。
「お昼にはちょっと早い気がするけど」
ボクが鉄格子際に座ると、クリエは軽い調子でそう言った。
彼女は布を外し、籠の中を見せる。丸いパイがいくつも並んでいる。
「これはセリーヌさんが持ってきたお芋で作ったお菓子」
クリエが扉の方を振り向きながら言う。
遅れて、玉ねぎ頭の幻獣アルウラネが、お盆にお茶を乗せて入ってきた。
「サツマイモパイだ」
「そうそう、サツマイモだったね。ありがとう、あーちゃん」
クリエはトレイを受け取り、白い蓋付きの壺と小さなコップをそっと置いた。
カタカタと蓋が揺れ、ほのかな香りが漂う。
「お茶だね」
「ええ、少し濃いめに入れてもらったの。沢山のお茶の欠片をつかって」
贅沢だと笑うと、クリエも笑顔で応えた。
ほんの数ヶ月前まで食べ物にも困っていたのに、今では少し贅沢ができる。
このお茶も、ソレル領に自生する木の根を刻んで煮詰めた特産だ。
普段は薄めにしてもらうけれど、今日はパイが甘いから苦めにしてくれたらしい。
「とっても合うのよ」
クリエが笑いながら、壺の蓋を取ってお茶を注ぐ。
濃い色の液体が湯気を立てた。
同じお茶でも、薄ければ緑色、濃ければ茶色になる。不思議なものだ。
「何だっけ? このお茶の名前」
ソレル領でよく飲むお酒だけれど、名前が出てこない。
クリエが好きなお茶なんだよな、これ。
首をかしげるボクに、アルウラネが鉄格子をすりぬけ近寄り見上げてきた。
「おしえてやろうぞ。トウトウ茶だ」
「そうそう、それ」
最近は新しいものが増えて、頭の中でごっちゃになっている。
お茶の名前も3日前に聞いたばかりだったのに。
そんなボクに、ビカロは「年寄りか」と笑い、セリーヌは「お酒、飲みすぎなんじゃない?」と冷やかす。
アルウラネまで「賢者なのに物を知らぬやつだ」と言う始末だ。
気にはしていない。けれど、三日前に言われた「年寄り」という言葉だけは、少し癪に障る。
ボクはビカロより若いのに。あいつだってお茶の名前を忘れていたくせに。
そんなことを思い出していたら、クリエがくすっと笑った。
「結構みんな忘れちゃうのよね。だからいつもリーリに聞いちゃうの」
「それで、ジルは何をしていたの? 瞑想?」
「瞑想、その前は……」
「その前は?」
「チャドの目を使って周囲の探索。さっき作りかけの大きな建物をみてびっくりしたよ」
「あれ、神殿なんですって。葬送士の方がリーリに頼んで、建てることになったみたい」
「へえ。どうやって作っているんだろう。昨日まで無かったよね、たしか」
「不思議よね、瓦礫を集めて組み立ててるらしいんだけど」
きっといろいろな人が知恵を出し合って、なんとか早く神殿を作ろうとした結果なのだろう。葬送士はソレル領で人気がある。荒れた時期に無償で治療や水を分けてくれた人だ。
町の人が感謝していて、きっとその人望が復興を後押ししているのだろう。
「でも、それもジルたちの活躍があったからだよ」
クリエが笑って言う。
確かに、いろんなことが動いた。
セリーヌ姉さんの力による食料の確保。
竜騎士たちによる、逃げた人々の説得。
アンバーとクィントスは森に入り、避難者を街へ案内してくれている。
焼け野原だった街が、少しずつ息を吹き返していく。
だが、森や洞窟には魔物もいる。領地が荒れると、悪人が増えるものだ。
「ボクたちはきっかけに過ぎない。皆の力だよ。やっぱり」
照れ隠しにパイをかじった。
サクッとした音とともに、甘い香りが広がる。黄色い中身はほくほくしていて、バターの匂いがする。
お茶をひと口。苦味が甘さを引き締めて、絶妙だ。
「本当だ、よく合う」
「よかった」
クリエが手を小さく叩いて喜んだ。
「こうしてると、昔のことを思い出すよね」
ウエルバ監獄の頃も、こんなふうに話したことがよくあった。
忙しい日々が続いていたから、こんなにのんびり過ごすのは久しぶりだ。
「監獄の時は鉄の扉があったね」
「そうね。ちょうどこの辺りに懐かしいわ」
クリエがほんの少し天井をみあげ、そっと鉄格子に触れる。
今の格子は細く形ばかりのものだ。ボクが本気を出せば、簡単に曲げて出られる。
これはただの“区切り”であって、牢ではない。
「椅子に座ってもいいんだよ」
ボクは背後の椅子を示す。
「だって、あれに座るとジルが立っちゃうじゃん」
「じゃあ、リーリに頼んで新しい椅子をもらおうか」
「それもいいかもね」
床は整えられた絨毯で、座っても心地いい。
ボクは三つ目のパイを口に運んだ。サクサクして、つい手が伸びる。
「おかわりする?」
「でも、物資が少ないしね。いや、それより晩御飯が入らなくなる」
「そうかも」
二人で笑い合う。まだ復興の途中だ。食料は貴重だし、使いすぎは禁物だ。
「そういえば、ロアドはどうしてるんだろう?」
「湖の町に行ったきりで、まだ時間がかかるって」
「そうなんだ」
ボクは窓の外、ロアドの向かった方角を見た。
湖の町、揚げ物の賢者ロアドが商交渉に向かった先だ。
チャドを飛ばして様子を見ることもできるが、往復に二日はかかる。
今はゴーレム探しをしている最中だし、復興状況も気になる。無理はできない。
そういえば、ゴーレムのことを誰にも言っていないな。
「最近、森でアンバーたちが見かけたっていうゴーレムを探してたんだ」
「危なくないの?」
「まあ、ボクはここにいるし」
そこで一呼吸おいて、笑みを浮かべる。
「遠隔でゴーレムを支配できたんだ。つまり、今、三体のゴーレムを――」
ボクは指を三本立てた。「――所有してるってわけ」
クリエは目を丸くしたあと、柔らかく笑う。
「なんだか、すごいことなのね」
彼女にはゴーレムという存在が実感できていないのだろう。
巨石の魔導生物。その迫力は、見なければ分からない。
「一体、ここに呼んでみようかな。扱いにも慣れてきたし、リーリに相談してみよう」
「だったら、リーリ呼んでくるね」
クリエが中腰になったが、ボクは手で制した。
「急がなくていいよ。パイの続きを食べよう」
「そうだね。ちょっとせっかちだったかも」
クリエが笑う。
その時だった。
外の空で風が鳴り、飛竜に乗ったリーリが塔の窓辺に現れた。
彼女は軽やかに飛び降り、部屋に入ってくる。
小柄な彼女はピョンと飛竜の背から飛び降りて、窓をくぐる。
「ちょうどよかった。リーリに相談が……」
満面の笑みを浮かべたリーリがボクの言葉に「お客さんだ」とかぶせた。
「お客さん?」
「姉妹で賢者ということだ」
姉妹の賢者。その名を思い浮かべ、ボクは一瞬だけ黙った。
――まさか、あの二人が?
首をかしげるボクに、クリエが笑みを浮かべて立ち上がる。
「きっと心配だったんですよ」
パイの籠を片手に、彼女はテーブルへと歩いていった。
テーブルにパイをおきつつ背伸びして窓から外を見る。
「一人、寝てるようだけど……病人?」
窓の外を見下ろしたクリエが振り向いて言った。




