自殺を隠すな
急死という報道だった。
最近の某俳優某芸人の件について、最初は急死としか報道されず、
心筋梗塞の類かなぁ、売れっ子の有名人は若い頃から遊びで不摂生してそうだものなぁ、私も健康に気を付けよう。
この程度の感傷しか抱かなかった。
自殺という報道がなされなければ、この程度で、終わってしまう。
それは、果たして正常なのだろうか。
当人達が選んだ、「死」という選択を歪めてはいないか。
自殺を賛美するわけでは、もちろん無い。
ただ、自殺という手段をとった人間は、刻み付けたいのだと私は思っている。
へらへら笑って生きていれば良かったものを、わざわざ自分で台無しにするのだ、
どこかが悲しいのだ、満たされないのだ、無常なのだ、言葉にできない巨大なものに打ちのめされたのだ。
私たちが話を聞いてやるくらいでは、打ち壊せないものに出会ってしまったのだ。
「お前たちは、何故生きている?私は死んだぞ!だから、考えろ!」
と、最後に大声で叫んでいるのだ。
無論これは、ただの私の主観で妄想である。
本当に、何一つ残さず消え去りたいから選択した者もいたのだろう。
だが、それは余りにも悲しいと私は思う。
自殺という事にすら、意味があった、伝えたいものがあったと思いたい。
だから、隠してほしくはない。
その意味が、絶望や悲しみでしかないとしても、私たち個人の感傷を奪うべきではないし、
自殺というものが、「異常な精神状態の中行われた馬鹿げた感情の帰結」
なんて、思いたくもない。
真剣に考え、生きた結果として受け止めたい。
だから、考えたい。
最後の叫びすら隠され、知られぬまま消えていくのは、寂しいと私は思うのです。