君といつまでも 【02 ヒューマンドラマ】
ある晩、シンジが帰ってこなかった。
シンジが何個めかの新しいバイトに出かけて行った夜だった。
ママは予感があったらしい。
「あいつのとこに行ったか」
ママはそう言いながら、俺の体を撫でた。
「バカな男だねえ。こんないい女を捨てて。ねえ、ノラ」
明るい口調で言ってるが、ママの声は泣いていた。
俺はせいいっぱいの同意をこめて声をあげる。
「だよねえ。あんただけだよ、私の理解者は」
そう言って俺を抱きしめたママの体からは、すっかり染み付いて抜けなくなった煙草と安っぽい化粧の臭いがした。
ママの体が小刻みに震えだす。
「ごめんね」
誰に言っているのだろう。
俺に? シンジに?
ママとシンジが体を重ね合う三十分ほどの気まずい時間がなくなったことはうれしかったが、シンジが居なくなったことは俺にとっても損失だったから、いつもは強く抱きしめられたら逃げる俺だったが、このときはママにきっちりを身を寄せて小さくなっていた。
俺は、みんなが思っているよりずっと、みんなのことを知っているんだ。
そして、自分のこともわかっている。
中年だった俺がこの家に来て八年、猫の16歳は人間でいう80歳にあたるそうだ。
同じ年だから運命感じる~なんて喜んでいたママは、年のことばかり愚痴ってるがまだ56歳。
すっかり年下になっちまった。ママなんて言って年上ぶってるが。
「あんたもブチの部分が濃くなったり広くなったりしてるねえ。昔はもっと白い部分が多かったのに。シミとかくすみみたいなもんかねえ。ほんと、私と一緒だねえ」
体を撫でるママの掌は厚くなり、水気を失っていたが、温かだった。
昔はもっと肉が薄く、冷たかったのに。
「私と一緒のおかましちゃって、ごめんねえ。でも、長く生きるにはそうしたほうがいいって先生も言うから」
それは別に気にしていない。
最初は違和感があって、どうやって歩くのかわかんなくて悩んだこともあったけど。
助けてくれたママに頼みこまれたんじゃ断れなかったし、さんざんヤンチャはしたから子孫はたくさん残したはずだ。
この間も窓から下を見てたら、通りを俺にそっくりな柄の若い男がいきがって歩いてた。
俺の昔に生き写しだったね。
ああやって引き継がれていく。それでいい。俺は引退だ。
でも、ママは誰に引き継ぐんだろう。
「でも、長く細く生きるのがほんとに幸せなのかねえ。私もそんなふうに生きちゃってるけど。二丁目なんてノンケに侵されてすっかり雰囲気変わっちまって、私なんて時代遅れのおかまママって笑われてるよ」
ママがふっと寂しそうに笑う。
そんなママは髪はぱさぱさ、肌は皺皺なのに、どこかかっこよかった。
人間を感じさせた。
この一瞬だけは、いろんなことを気に病んでちっぽけで愚かに感じる人間のことがでかくみえる。
負けたと思う。
やっぱりママが好きだ、一緒に暮らしてきて良かったと強く思う。
「さあ、それでも店を開けないと食っていけないからねえ。行くよ。ちゃんと帰ってくるから、待っててね」
ママは鼠色のスウェットをひらひらの安っぽいドレスに変えて、町へと出かける。
行ってらっしゃい。頑張って。
俺は三人よりずっと多くの男がママと重なって汗やらなにやらを沁み込ませたソファで身を丸め、ゆっくりと目を閉じた。