ある賢者のお話
昔々ある王国に、300年以上生きる賢者がおりました。
他の誰よりも多くの魔力を持ち、あらゆる魔術を操る彼は、王国一の魔術師でした。
かつて彼は、100年間にも及ぶ戦争で、数多の命を奪い、仲間を失いました。
そして国民を守ることが出来た代償に、愛する人の命をも失ったのです。
賢者は終戦後、玉座の前でこう言いました。
「この怒りを鎮めることが出来ない今、私は感情を取り出すこととします。」
女王様も臣下たちも呆気にとられていた時、賢者は自身の胸に静かに手を当てました。
まるで忠誠を誓う騎士のように、ゆっくり目を閉じると、淡い光が広がり、彼と瓜二つの青年が隣に現れたのです。
感情を取り出すという行為は、魔術で感情を形作ることでした。
それは彼と同じように動き、話し、簡易な魔術さえも操る、身代わりに等しいものでした。
そして賢者の美しい青い瞳は光を失い、深い紫色に変わりました。
同時に、戦争で起こった多くの出来事も、記憶から失くしてしまったのです。
女王様も臣下たちも、その場にいた魔術師たちも皆、彼に驚き、恐れました。
けれども、強力な魔術を使う賢者を、国が手放すわけにもいかず
生涯王国を護る誓いの元、彼は英雄として讃えられ、生かされることとなったのです。
感情を失った賢者は、王宮ではなく、国の外れにある小さな町の、さらに外れにある森に、ひっそりと住むようになりました。
魔術師になる前医者だった彼は、一人きりで住むその家で、医療魔術の研究に励みました。
戦争が無くなった今、病で誰も苦しまないように。
また彼は、自分の多くの魔力を使って、王国を覆うほどの結界を張りました。
戦争が無くなっても、他国からの攻撃を受けないように。
そして国の祭典や式典があるときは、いつも女王の隣に、自分ではなく「身代わり」を立たせました。
戦争が終わっても、戦争から生まれた自分を忘れさせないために。
100年間に及ぶ苦しみの果て、彼が辿ることとなった生き方は
自分を「生きているように見せること」でした。
感情を消してしまっても、人々にとっては王国を護りぬいた英雄。愛と誓いを持った「賢者」だと、皆信じていました。
けれども賢者には、戦って失ったものも、得たものも、記憶すらも曖昧で
それを裏付ける感情も消してしまいましたので、かつての賢者は存在していませんでした。
やがてどれだけ歳月が経った頃か、彼は自分がようやく「人間」ではなくなったのだ、と気づき安堵しました。
彼はただ「賢者」として、それからを生きていくのです。