2話:理解できない心境。
六月。
待ち望んだ夏の到来である。
陰鬱な天候が多くを占めるこの国において、晴れ間の続く六月はまさに神の恵みの季節だ。
穏やかな陽光に心地のよい風。
すべての生命がきらめき、太陽と大地の恵みをたっぷり浴びた植物が青々と茂る。
というのに、アリアナは冬の曇天のように沈み込んだ顔をしたまま、所在無く窓の外を眺めていた。
ウェザリー伯爵邸の穏やかな日差しの差し込む自室からは――信じられないことに屋敷で一番良い部屋を与えられていた――『王配殿下からお褒め頂いた』庭園が見渡せる。
が、今日はなんの慰めにもならなかった。
「だれも教えてくださらなかったんだもの」
恋愛なんて。
膝の上においた本の革張り装丁を指でなぞりながら、アリアナは独りごちた。
『あなたは無知だわ』
あの日、親友であるエミリィから投げつけられた言葉が、頭から離れなかった。
この世の中で知らないことがあるのは仕方のない事だ。
世界は広く複雑だ。田舎住まいの令嬢には知識を得ることには限界がある。
けれど、アリアナが思うことはそこではなかった。
つい数日前まで自分と同じと思っていた幼馴染から、そう告げられるほどに自分は愚かだったのだろうか。知らしめられるほどの価値しかなかったのだろうか。
(エミリィは家業に携わっていると聞くわ。その立場から見れば、私はダメなんでしょうね。でも何故か寂しいわ)
可愛らしい幼馴染のエミリィ。
密やかに確実に、自分の知らない場所へ歩み進んでいたのだ。
同じ階級、同じ爵位の家に生まれた女同士、通じ合うものがあり、特別な間柄だと信じ込んでいたというのに。
アリアナの心の奥底で、驚きと焦りと、そして嫉妬の炎が音を立ててわきあがっていた。
決して認めたくは無かったが。
(こんな気持ちを抱くなんて。何て醜いのかしら。……そうね、認めなくちゃ。エミリィがうらやましいんだわ、私)
親友が頬を赤らめながら恋人のことを語る姿は、何とも愛らしく美しかった。
もともと容姿の整ったエミリィではあるが、あの日はまるで春の女神の生まれ変わりのように優美で神々しすらあった。
誰かを、異性を愛し愛されるとこうも変わるものか。
アリアナには、ただただ恋人であるダニエル・スレイドのことを思い浮かべ微笑むエミリィの惚気をひたすら聞き、うんうんと頷くことだけしかできなかった。
エミリィが身を浸すその感情を知らない。
親友の語る言葉の真の意味を理解出来ないことがもどかしい。腹ただしく、恐ろしいほどに居心地が悪かった。
『結婚する前に一度でも恋愛すべきだわ』
エミリィから与えられた課題。
あれから数日たってもアリアナには答えがどうしても見つからないでいた。
(そもそも異性とどうやって恋愛関係になるのかしら)
どんなに頭をこねくり回しても『恋愛の方法』が浮かんでくることはなかった。恋愛なんて実際にはどうすればいいのだろう。
皆目分からなかった。
世の中では年頃の令嬢や令息は密やかに恋愛を行っているらしいが、片田舎の領地に引きこもりがちな自分には縁遠いことだ。
領地と使用人、家族しかいないこの環境。
恋愛関係になれる人との出会いなど、どこにもない。
(運命なんて道端に転がっているわけではないだろうし。私には無理だわ)
アリアナは窓の外に目を向けた。
庭師が丁寧な手つきで庭木の剪定を行っている。
悪くなった葉や枝を打ち、良い方向へ正しく育てるために手を加える。自然のようにみえるけれども、山や森に生える木々とは違ってしまっている。美しいけれど造られた姿だ。
自然ではないのだ。
(私と一緒ね。私も守られ、周りから慈しまれて育ってきた。何かが足りないのかもしれない)
男ばかり六人も続いて生まれ、ようやく生まれた娘のアリアナは、ウェザリー伯爵家の宝として愛され育てられてきた。
真綿にくるむが如くの両親や兄弟たちの度を越えた過保護ぶりは、社交界にデビュー前にもかかわらず貴族間では知られているらしい。
確かに赤子の頃から十八を迎えた今でも変わらず、アリアナがくしゃみ一つでもすれば、屋敷中上や下への大騒ぎになるほどだ。
成人した娘にあれやこれやと世話をやく兄弟たちに、物心着く前から果物の砂糖漬けのように甘やかされてきた生活。うんざりすることも多い。
そんな状況で家族に恋愛したいから方法を教えて欲しい、なんて問ったら、皆が皆、昏倒してしまうだろう。
彼らには穢れなく従順な乙女のアリアナがすべてなのだから。
「ほんとうに困ったわ……」
(人を愛すること。恋することってどういう感じなのかしら)
確実に父や兄に向ける気持ちとは違うはずだ。
アリアナは信用のおける女家庭教師に訊いてみた。
ミス・クィンシーは「他人に教えられるものではございません。全くお分かりにならないというのならば、そうですね。恋愛小説をおすすめいたします」と頬を強張らせただけで、問いには答えなかった。
「恋愛の本なら読んだことあるわ。そうね……」
アリアナは古典といわれる物語の名をいくつかあげた。
「悪くはないですけども、すこし古いかもしれません。旦那様も奥様もお嬢様には今風のものをお与えになられませんから、ご存知ないのかもしれませんが」
ミス・クィンシーは帳面を取り出して、サラリと書き付けると「とりあえずこのあたりいかがでしょうか。今、巷でとても人気のある本です」と差し出した。
「ハント先生のおすすめしてくれた小説を読んでみたけれど、良く分からないわ……。法律書よりも難解だわ」
首都で流行っているという女家庭教師おすすめのロマンス小説を侍女に頼みこんで、家族に内緒で買ってきてもらったが、運命的な出会いを果たした大公とメイドの恋の話は、伯爵令嬢として生き貴族の血統をつなぐことが一番重要だと教育を受けた自分には、荒唐無稽すぎてさっぱり理解できなかった。
『誰か一人だけのものになりたい』
『自分の全てを投げうってでも相手を手に入れる』
爵位も財産も棄ててたった一人の相手を選ぶ?
大公妃としての義務を果たすことのできない者を配偶者にする?
小説という架空の世界の話とはいえ、信じられない。
「でもそれだけ誰かに思いを募らせることができるなんて、」
本やエミリィによれば、何ものにも替え難いものらしい。
「すばらしいことね」
自分にはそんな勇気はない。
どうして全てが与えられる安全な庭園から出ていかねばならないのだろう。自分はここでしか生きていけないのだから。
エミリィからの課題は到底果たせそうに無いなとアリアナは息をついた。
読んでいただきありがとうございます。
吉井です。
ブックマーク、評価もありがとうございます!
とても嬉しいです。
このお話はイギリスのヴィクリア朝が舞台のモデルです。
現実のヴィクリア朝は凡そ70年に渡り、当然前期と後期では社会も流行も大きく異なってきます。
ですがこだわり過ぎるのも吉井の技量では難しいので、ヴィクリア朝の色々な時代のものをミックスした宮平風の世界観になっています。
次回からアリアナの社交界デビューになります。
ヒーローも出て来る予定です。
またお会い出来る事を祈って。




