17.セシルは恋をする
僕がその気持ちに気づいたのは8歳の頃。
その日、僕は剣術の稽古が長引いてしまって、打ち消しの為に登城したルーチェは図書室で待っていてくれた。
身支度を整えて急いで向かうと、彼女は図書室から続く中庭の木陰に座っていた。傍で芝生に寝転ぶ2歳のレオルドがいたので、強請られて物語を読んであげていたのだろう。
ツバの広い帽子を被っていたので顔は見えなかったが、その代わりに柔らかな声が耳に届く。
「…末長く幸せに暮らしたのでした。おしまい」
「もっとー、もっとよんで~」
「もう…次で最後ですからね」
既に何冊か読まされているのだろう、彼女は渋々ながらも積み上げられた本の中から1冊を手に取る。その表紙には白薔薇と書いてあるのが遠目で確認できた。僕も知っている有名な童話だ。
「……昔々あるところに」
冒頭のストーリーを小さな口が紡ぐ。
…少し驚かせてみようかな。婚約者候補として2年の付き合いだが、彼女はあまり表情を崩さない。驚いたり慌てたり、年相応の顔も見てみたいと思った。
僕は足音を立てない様、ゆっくりと後ろに回り込み2人に近づいた。
「肌は雪の様に白く、髪は黒檀の様に黒く、唇は血の様に赤い…」
言い終わる前に、ザァっと音を立てて風が吹き、彼女が被っていた帽子が空に舞う。それを見上げるルーチェの長い髪もフワリとなびいている。
「あ…」
先ほどの色彩と重なり、目が奪われる。
「ぼくとるー」と帽子の元へ駆けていく弟の声に、ハッと意識を戻した。
「…うん?殿下、いらしていたのですね」
驚かす前に気づかれてしまった。髪を直しながらルーチェが立ち上がる。菫色のドレスを軽く払い芝を落としていた。
その様子を見ながら、少しザワザワする気持ちを落ち着かせる。
帽子に隠れていた肌も、半袖から覗く腕も、確かに日焼けをしておらず白いが雪という程ではない。うん、不健康にも見えないし綺麗な肌色に感じる範囲だ。
黒い髪も別段珍しいものでもない。サラサラで柔らかそうな髪には思わず手が伸びそうになるが、フルール子爵も同じ色だし似たようなものだと思えば冷静になれる。
唇も血の様に赤いなんてあり得ない。しかし血色良い綺麗な色をしていて、大きくも小さくもない唇はふわりと柔らかそうで……触れたら気持ちが良いだろう…
「ッ!!」
「殿下?どうされましたか?」
「な、んでもありま、せん!!」
何て事を想像してしまったんだ。不埒な考えを追い出す様に全力で首を振ると、ルーチェが少し引いた様な表情をしていた。
我ながら挙動不審だ…。帽子を片手に戻ってきたレオルドも首を傾げている。
「えぇと…打ち消しを行いましょうか」
「は、はい。そうしましょう」
気まずいのか変に意識をしてしまい、何だか顔を見る事が出来ない。差し出された小さな手をいつもの様にぎゅっと握る。そう、いつもの様に…
「………っ!」
「え!?」
急激に恥ずかしくなり、繋いだ手を放り出す様に離してしまった。ルーチェの手は困ったように半端な位置で止まっていた。
…いけない!手を振りほどくなんて、彼女に失礼な事をしてしまった!!
すぐに謝罪しなければと口を開いたが、驚き見開かれた彼女の目を見ると、上手に言葉が出なかった。
「あ、の…その……」
「で、殿下、大丈夫ですか?体調が悪いのではないでしょうか?顔が真っ赤に……」
陽の下では琥珀の様にキラキラ輝く彼女の瞳をみると、何だかとてもドキドキして………
「あ、ああ、あの、その…用事を思い出しました!!」
そう言ってフォローする事も出来ず、赤い顔で走って逃げてしまったのだった。
………改めて思い出しても情けない思い出だ。あの後、謝罪をしたもののルーチェからは「暑さでやられたのでしょう」と淡泊な言葉を貰った。
キスといいハグといい格好良く決めれた試しがない。情けないなぁと頭を傾げる。
背も高くなり体格もしっかりしてきた。顔立ちも大人っぽくなり、魅了の力がなくともその辺の令嬢の頬くらい簡単に染めさせれるが、どうも彼女の前では格好悪い姿ばかりを見せている気がする。
ルーチェは僕の事をどう思っているのだろう。
きっと嫌ってはいないだろう。異性として意識はしてくれているらしい。
しかし恋愛対象としてはどうだろうか。触れると可愛らしい反応を見せてくれるようになったが、単に男慣れしていないからという可能性もある。…考えたくはないが、もし僕以外の男に触れられても同じ反応をするのだろうか。
そして事あるごとに一線を引きたがる彼女の本心はどこにある?
このところずっとモヤモヤと考える。
8年間も募らせた片想いなのだ。拗らせすぎだろうと自身でも思う。しかしけして想いを伝える事は出来ない8年だった。
ルーチェを婚約者候補に縛り付けて王家が力を利用している今、想いを伝えたところで彼女はきっと僕の気持ちを信じてはくれないだろう。
ノアが完成して、婚約者候補ではなくなって、魅了耐性なんてものが必要なくなって、……ルーチェ・フルールというただの1人の令嬢になって、初めて口にしていい想いなのだ。
古ぼけた日記帳を机に片付け、懐中時計を見ると約束の時間を30分過ぎていた。
今日は午前中に打ち消しの約束をしていたというのに、どうしたのだろう。ルーチェが連絡も無しに遅れるなんて珍しい。
昨日ノアをデザイナーに託したと聞いているので、研究に夢中になって約束を忘れたという事も無いだろう。
弟妹に捕まったのだろうか、様子を見に行こうかと考えていると、部屋に執事が訪ねてきた。彼曰く、フルール子爵が謁見を求めているのだと。…これまた珍しいな。
部屋に案内されるとそこには青い顔をしたフルール子爵の他に、険しい表情の父上が腕を組んで立っていた。意外な組み合わせに疑問は浮かんだが、二人の表情から察するに良い知らせではないようだ。
父上は椅子に座る訳でもなく、こちらを一瞥して端的に一言。
「……ルーチェが拐かされたそうだ」
「…………………は?」
思わず変な声が出たが、父上はそれを気にした様子もなく「騎士団長を呼べ」と従者に告げ、足早に部屋を出て行った。残された僕は暫し茫然と扉を見ていたが、執事の咳払いで我に返り、倒れそうな顔でソファに座る子爵の元へ行く。
「ルーチェが攫われたというのは本当ですか…!?」
「攫われた確証があるわけではありません…。ただ昨日の夕刻から行方が分からない状態です」
昨日ルーチェは公爵令嬢のお茶会に参加をしたそうだ。その帰りに貸馬車とちょっとしたトラブルがあり、お詫びと称して馬車の主人に夕食に誘われ……それ以降、何の沙汰もないのだと。
「もし朝までに私が戻らず、何の連絡もなければ父に伝えて」という彼女の指示により、王城で酔いつぶれていた子爵の元へ朝方に知らせが届いたのだった。
「侍女や護衛は付いていかなかったのですか?」
「それが…相手が全てこちらで用意するから必要ないと言い、ルーチェ自身もそれに従い指示をだしたのだと…」
「その馬車の主人というのは?」
「その場にいた者は見覚えが無い令嬢だったようです。ただルーチェは顔見知りの様で、非常に丁寧に接していたそうです。赤い髪に緑の目の派手な美人だったそうで…」
「赤髪に緑目…?」
ソレイユ王国で赤い髪は珍しい。すぐに数は限られるのだが、それに加え緑の目を持つ令嬢がいただろうか?懸命に頭の中を探す。
「あ、その令嬢はやけに片言だったと報告を受けています」
「片言…?まさか…!?」
記憶の中で1人だけ思い当たった。1年前の誕生パーティーで挨拶を交わしたエニシャ国の第二王女だ。彼女が相手ならば、ルーチェが従わざるを得なかった理由が分かる。
しかし何故、第二王女がルーチェを…?
理解は出来なかったが、のんびり考えている暇はない。騎士団を動かしに行ったであろう父上を追いかけようと思い至ったところで、扉が静かにノックされた。
…こんな時に何の用だ?苛立つ気持ちを抑えて返事をすると、執事が入室しどこか不安そうな表情で用件を告げた。
「…エニシャ国の王女が、セシル様に謁見を求められております」
……なんだって?