逃げたい
まともに眠れない夜はひどく長かった。悲しみや悔しさが大きすぎて、けれど泣いていることを叔母に悟られるのは憚られた。
叔母はきっと私が誠一郎さんの部屋へ通っていることを知っていた。たった一度だけ、家を出るときに叔母に、やめなさいと、そう諭されたから。
きっとこんなことになるのを叔母はわかっていた。わかっていなかったのは、何も知らない馬鹿な私だけだった。
ようやく朝日が昇った頃、薄い布団を畳み、朝食の準備を行う叔母の元へ向かった。叔母はちらとも私の顔を見なかった。それでも、泣いていたことを知られていた。
「裏で顔を洗っておいで。」
一晩泣けば目も赤くなり、瞼も腫れる。狭い家の中で、どんなに声を殺しても、泣く気配というのは伝わってしまうのだ。
冷たい井戸水を手のひらですくい、二、三度顔を洗った。それから十分に冷やした手で目を覆う。思ったより熱を持った瞼が、どれ程の時間涙したのかをよく表していた。
後ろに足音が聞こえた。慌てて無理向きながら、引きつる顔に笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、すぐ行きまー」
叔母だと思って振り返った。けれど立っていたのは誠一郎さんだった。
「咲子」
嫌だと思ってしまった。聞きたくない、何も。どんな話だってきっと、私には辛い話だろうから。
体が反射のように誠一郎さんから逃げた。驚いたようにもう一度名前を呼ばれたけれど、振り返れなかった。
胸が苦しくて、がむしゃらに走った。痛いと思った。本当はわかってる。誠一郎さんが来るのではなく、私が行くべきだった。笑っておめでとうございますと言わなければならなかった。
でも、顔を見るだけで心が引きちぎれそうに痛かった。今思えば、何度私が想いを告げても誠一郎さんからは何も言われなかった。だからきっとつまり。
全部、私の独りよがりだった。




