峠
慶弥さんは立ち竦む私を見ることもなく、地面に腰を下ろした。そしてまるで一人言のように、広いだろう、と呟いた。
初めての景色に圧倒されながらもおずおずと頷けば、慶弥さんは自分の隣の地面を軽く手で叩いた。
その音で体の強張りが溶けたように動き始める。大人しく隣に腰を下ろせば、微かに触れる肩に、自分よりも高い体温を感じた。
先ほどの怯えが嘘のように体から力が抜けた。人の体温が、これほど安心させてくれるものだとは知らなかった。
叔母さんとも誠一郎さんとも、そこまで距離を詰めたことはなかった。崖崩れの前であれば、父母に抱かれたことは何度もあったけれど、父母を失った後はきっと私自身が人に寄り添おうとしなくなったのだ。
だってどうしていいかわからなかった。まるで突然地面が消えてしまったような感覚だった。当たり前にずっと続くと信じていたものを失って、あの日以降私はずっと拠り所を探していた。
それはいつからか誠一郎さんの隣となったけれど、今はそれも手放して、またふらふらと彷徨っている。
誠一郎さんへの思いは消えていない。失った痛みも、まだ確かにある。けれど、隣の男にほのかに惹かれていることも否定できなかった。
これではただの依存だ。依存先がすり替えられただけで、愛でも恋でもなんでもない。なんでもないどころか、それよりももっと醜い。
ほうと溜息が溢れた。広い世界を見て、まるで天啓のようにわかった。逃げたかったのは村からでも誠一郎さんからでも初恋すら関係なくて。この世界で最も逃げることができない存在である「自分」から逃げたいのだと。
まるで縋るように慶弥さんを見つめた。
「私はどうしたらいいですか。」
こんなことを聞いて何になるだろうとわかっていた。わかっていたのに、気づいてしまった事実が恐ろしくて、誰かに助けて欲しかった。
慶弥さんは何も言わなかった。言わずにそっと私の頭を撫でた。その温もりが、失った父の温もりに似ていた気がして、唇を噛んだ。
ずっと寂しかった。常に罪悪感があった。それはどんな時も、私の影のようにすぐそこにあって、きっとこの先も消えることはない。
それを受け入れられず、忘れたくて、目をそらして。でも、きっとそのせいで私は自分を好きになれない。逃げたいと願うほど、自分を嫌厭している。
そのせいで叔母も誠一郎さんも苦しめたのだとしたら、私はあの人たちにどう償っていけばいいんだろう。
初日だからと夕方には野宿する場所の目安をつけた。
慣れないなりに、薪を探したり、川から水を汲むうちに、気づけば日が暮れていた。
なんとなく気まずくて黙り込んだ。
慶弥さんはとても賢い人だから、私の考えがわかっているような気がした。
私が慶弥さんに少し惹かれてることは、きっとこの人ににとっては悪いことではないから、しばらくは放置されると思う。
でもきっと、私が執着したり足手纏いになれば、何か理由をつけて私から距離を取るだろう。
商売人は、良くも悪くも計算高い。計算高くなければ生き残れない。それは、村の人とのやり取りの中でも感じてた。
悪どいとは違う。悪どければ、次へ繋げることができないから。
そこまで考えて、相手が譲れるギリギリを見極めるうまさがあった。
私もそのギリギリをきっと見極めなければならない。村に帰りたくないなら。この人と仮初めであっても夫婦でいるなら。
ふと、目が覚めた。焚き火が小さくなっていた。交代で寝ようと言っていた慶弥さんが、どこにもいなかった。あわてて近くを見回しても荷物すらないことがわかっただけだった。
「け、慶弥さん。」
思わず小声で名前を呼ぶ。火が小さくなったことで、夜の闇が迫ってきたようで怖かった。
置いていかれた…?まだ、1日なのに。やっぱり騙されたの?
慌てて身の回りの荷物を確かめる。叔母さんにもらった着物も、小銭の入った巾着も全部あった。
何もなくなってない。なら、どうして?何も取らないなら、私を村から出すため?私を誠一郎さんから引き離すために、優しくしたの?誰が、と思えば、たくさんの人が思い浮かんだ。
突然、決壊したように肩が震えた。もし本当にそうだったとしたら、それはきっと自業自得だ。
少しでも震えを抑えようと両手で自分を抱きしめた。手も肩もひどく冷えて、少しも震えがおさまらない。
こわい、と思った。
また、闇の中に、1人になった。
そこにあるはずのない土砂の塊が、父母を飲み込んだ泥が、まるで目の前にあるようだった。




