旅立ち
太陽が上りきらぬうちに村を出発した。叔母さんは泣くことも、引き止めることもなかったけれど、おろしたばかりの着物とお握りを持たせてくれた。
まだ残る暖かさが叔母さんの優しさそのもののように感じて、慶弥さんの後ろを歩みながらしばらく包みを抱いていた。
青々とした木々に囲まれながら黙々と歩き続けた。何かを話すには、私たちはお互いを知らない。けれどその沈黙は苦痛ではなかった。
誠一郎さんには、会わなかった。それで良かったのだと思う。その気持ちはうそじゃないのに、まるであるべきものが欠けてしまったような寒々しい気持ちだった。
まるで、自分が自分でありながらもはや異なる存在のような。
きっと、誠一郎さんを失った時に一緒に私の一部も消えてしまったのだと思う。だから今ここにいる私は、誠一郎さんと共にいた私ではない。一度バラバラに崩れて、もう一度貼り直した茶碗のように、今の私はひどく不完全で不格好だ。
そして、叔母さんにも迷惑をかけた。それに。あのまま続けば誠一郎さん自身にも、よくないことになった。
離れるしかなかった。好きなら、好きだからこそ、距離を取るしかなかった。本当は一緒に幸せになりたかった。でも、誠一郎さんか私を選ぶのだとしたら、迷うことなくあの人の幸せが私の幸せだとも思えた。
離れたかった。他の人と寄り添う姿を見るのが辛くて。
距離を置きたかった。近くにいると、あの人の邪魔になるから。
別れることが、あの人のために私が最後に出来ることだった。
本当に好きだった。好かれなくても、一番になれなくても、それでもあの人を失ったら生きていけないと思った。
でも、私と一緒にいても、私ばかりが嬉しくて、あの人のためには何一つならない。それもちゃんとわかってた。ほんの少しだけ、消えるとわかっている夢を見てしまっただけ。
それでも、読み書きもできない親なし子が、選ばれる訳ないってちゃんとわかってた。
わかっていても、胸が縮こまるように痛んだ。まるで、離れたくないとわがままを言う子供のようにしがみ付きたいと思ってしまった。
途方もなく、同じことばかり、考えても仕方ないことばかり考えてしまう。いつまでも執着してはダメだ。忘れたい。忘れられなくても、過去を笑って思い出せるくらい平気になりたい。そんなこともあったねと、そう過ごせるようになりたい。
じわじわと日が昇りつつあった。木々でいくらか涼しかったけれど、歩き続けるうち汗がにじむ。慶弥さんは何も喋らなかったけれど、時たま水の入った竹筒を渡してくれた。わざわざ喋らないことが、この人の優しさでもあるのだとだんだんわかってきた。
「次の峠で少し休もう。」
毎日畑仕事をしていたけれど、いつもと違う動きだからか少し足が痛み始めたところで、慶弥さんが振り返り、ちらりと私の足元を見た。
「後ろに目でもついているみたいですね。」
思わず感嘆の声を上げれば、喉を鳴らすように笑った。
「足音が変わったからわかりやすい。」
慶弥さんはどうやらすごく耳が良い。先ほども突然立ち止まり、私もつられて止まったところで目の前の茂みから野生の猪が飛び出してきた。
慶弥さんが何かを投げると驚いて逃げていったけれど、何故出てくるのがわかったのか不思議でならなかった。今思えば慶弥さんには猪が近づいてくる音が聞こえていたのだろう。
村にいる誰とも違う。謎とも不思議とも言えるような人だと思った。
これから2人で旅するうち、この人を少しでもわかる日が来るんだろうかと思うけれど、そもそも私たちの関係はいつまでのものなのだろう。
休んでいる間にでも聞いてみよう、と思ったところで、視界から突然木々が消えた。
正確には峠にたどり着き木々に囲まれる状態から見下ろすことになっていた。広い視界に思わず立ち竦む。
こんな景色は見たことがない。視界いっぱいに広がる葉を幹を目を見開いて見つめる。少し目線を上げれば、青空が驚くほど高く広く、思わず口がぽかんと開く。空に、緑に吸い込まれてしまいそう。感動よりも世界の広さに体が無意識に怯えて動けなくなった。




