前夜
祝言と言ったところで着るような花嫁衣装もなく、ひとまず近所への挨拶を済ませたところで日が暮れた。
村長への報告は、私が出発したあとおばさんがしてくれることとなった。誠一郎さんと会わなくて済むという安心ともう会えないことへの不安があった。でも、顔を見ればきっと離れ難くなるという予感があったから、おばさんの提案にはただ肯いた。
そして夜になって、私は部屋の真ん中で立ちすくんでいた。目の前の布団はピタリとくっついて並べられていた。夫婦になったのだから、おかしくはない。
おかしくはなくても、違和感があった。目まぐるしい出来事の連続で、自分で決めたことなのに私の心は追いつけていなかった。
「何してるんだ。」
背後からかかる声にびくりと肩が揺れた。恐る恐る振り返れば、慶弥さんが手拭で顔を拭きながら立っていた。
私の肩越しに布団をちらりと見てから、怪訝そうな顔をする。
「何を怯えてる。逢引するような男がいただろう。」
慶弥さんの言葉に頭がグラグラした。何故こうも気遣いがないのかと額を抑える。
「…もう少し歯に衣着せてくれませんか。」
額を抑えた拍子に俯き気味になった顔を覗き込まれて後退る。慶弥さんはまたあの馬鹿にするような笑みを浮かべて、私が後退りした分の距離を詰めた。
じりじりと一進一退を続けるうち、布団に足を引っ掛けて体勢を崩した。慶弥さんは慌てたように私を助けようとして、2人まとめて布団に倒れ込んだ。
驚くほど近くに、美しい男の顔があった。美しくても、女性とは違う骨格をしている、と頭のどこかが冷静に考えた。呼吸が圧迫されるほどの体の重みを感じながら、体が強張るのを感じた。恐怖にも近い感情がこみ上げ、鼓動が早まる。
唐突に唇が触れ合った。思わず顔が引きつる。どうしていいか分からず、見つめあったまま、様子を伺っていた。
慶弥さんは徐に体を起こし、私の腕を引いた。抱き留められるように起き上がると、優しく髪をすかれた。
「何もしない。まあ契約関係みたいなものだしな。」
思いの外優しい手つきにほっとする。言われてみればそうかもしれない。利害関係の一致で結ばれているのだから、普通の夫婦とはきっと異なるだろう。
身重になられたら商いに影響するしな、と呟いた言葉にこっちが本音だなと苦笑いした。
出発予定が早朝のため、すぐに並んで横たわる。痩せた蝋燭を吹き消せば、あたりが闇に包まれた。未だ慣れない男の気配に、なかなか寝付けなかった。
もう眠っただろうか、と寝返りをうって慶弥さんの方へ体を向ける。少し慣れた闇の中で、慶弥さんもこちらを見つめていた。ためらうように数拍あけると、吐息のように静かに一言だけ発した。
「少しは忘れられただろう。」
聞き返すこともできず、慶弥さんを見つめる。慶弥さんはもう用事は済んだというように、反対側を向いてしまった。
そうだ、と思う。世界が終わるとでもいうように絶望して泣いていたのに、いつのまにかこの人に振り回されて、考える時間もなかった。こうして過ごしていけば、忘れられるのかもしれないと思えば、気持ちが楽になった。
ほうと息を吐き出して、慶弥さんの背中を見つめる。良い人だと思う。全部の振る舞いが、私の気を紛らわすためだとしたら、この人ほど優しい人はいないだろう。頬を緩ませてから、もう一度寝返りをうつと、慶弥さんの気配で安心する様に目を閉じる。今度はすぐに眠りに落ちることができた。




